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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2010年8月15日説教(詩篇51:1-19、罪の悔い改めと赦し)

投稿日:2010年8月15日 更新日:

1.ダビデの犯した悪

・詩篇51編は罪の悔い改めと赦しを求める詩として有名です。人々はダビデ王が罪を犯し、預言者ナタンがそれをとがめた時に、ダビデが悔い改めた言葉として、この詩を唱和してきました。それが表題の「ダビデの詩。ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来た時」(51:1-2)という解説です。しかし現代の旧約学者の多くは、この詩がダビデの作であることには否定的であり、表題は後世の加筆とします。ただ、私たちはこの詩をダビデの歌、あるいは後世の人がダビデの物語を念頭に置きながら作った歌として見て行きます。そうすることによって、言葉がより具体性を持って迫ってくるからです。
・ダビデの犯した罪については、サムエル記下11-12章に詳しく書かれていますので、最初に物語を見て行きます。当時、イスラエルはダビデの下に統一され、王国として栄え始めていました。ダビデは近隣諸国を征服し、領土を拡大していきました。事件が起きた時もアンモンと戦争中でしたが、彼自身が出陣するまでもなく、戦いは将軍ヨアブに任せ、彼はエルサレムの王宮にいました。ある日の夕暮れ、ダビデは王宮の屋上から湯浴みする一人の婦人を見ます。彼女は兵士ウリヤの妻バテシバで、「女は大層美しかった」とサムエル記は記します。夫ウリヤはアンモン人との戦いのために出征し、不在でした。ダビデは婦人を王宮に呼び、彼女と寝て、その結果バテシバは妊娠します。人は得意の絶頂にある時、誘惑を受けます。ダビデに与えられたのは肉欲の誘いでした。
・バテシバの妊娠に困惑したダビデは、夫ウリヤを前線から呼び戻し、妻と寝させることによって自分の犯した悪をごまかそうとしますが、ウリヤは前線の将兵が戦いの中にある時、自分一人、家で妻と寝るわけには行かないと断ります。おそらくは王と妻との間に起こった出来事を知り、帰宅を潔しとしなかったのでしょう。ダビデの目論見は失敗し、彼はウリヤを前線に戻す時、上司である将軍ヨアブに手紙を持たせ、ウリヤを最前線に立たせて死なせるように命じ、その結果ウリヤは死にます。「罪は罪を生む」、姦淫が殺人にまで発展したのです。バテシバはやもめとなり、ダビデはバテシバを妻として宮殿に迎え入れ、彼女は男の子を生みます。
・サムエル記はこの事実を淡々と述べた後、最期に記します「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった」(サムエル下11:27)。異教の国では王が臣下の妻を奪ったとしてもさしたる罪ではないかもしれませんが、イスラエルにおいてはその罪は放置されません。王は神の委託下にあるからです。「主はナタンをダビデのもとに遣わされた」(同12:1)。ダビデの前に現れたナタンはダビデに一つの物語を語ります(同12:1-4)。それは、「多くの羊や牛を持つ豊かな男が自分の羊をつぶすのを惜しみ、一匹の羊しか持たない男の羊を取り上げ、それを客に出した」という話でした。ダビデは物語が自分に向けて語られていることに気付かず叫びます「そのような無慈悲なことをした男は死罪にされるべきだ」。ダビデにナタンは言います「その男はあなただ、あなたこそがその無慈悲なことをしたのだ」(同12:7)。ナタンは主の言葉を続けます「あなたをイスラエルの王にしたのは私であり、あなたを恵んできたのも私である。それなのに何故、ウリヤの妻を欲してウリヤを殺すような悪を為したのか」(同12:7-10)。この言葉の前にダビデは頭をたれ、告白します「私は主に罪を犯しました」(同12:13)。

2.ダビデの物語として詩編51篇を読む

・ダビデの悔い改めの言葉を受けて詩編51篇が始まります。「神よ、私を憐れんでください、御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。私の咎をことごとく洗い、罪から清めてください」(51:3-4)。ダビデは神に背き、罪を犯しました。その結果平安は彼から去りました。罪は赦されなければ消えません。だから彼は神の慈しみと憐れみによって、罪を洗い清めて下さるように祈ります。
・ダビデの祈りは続きます「あなたに背いたことを私は知っています。私の罪は常に私の前に置かれています。あなたに、あなたのみに私は罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく、あなたの裁きに誤りはありません。私は咎のうちに産み落とされ、母が私を身ごもったときも、私は罪のうちにあったのです。あなたは秘儀ではなくまことを望み、秘術を排して知恵を悟らせてくださいます」(51:5-8)。ダビデはウリヤの妻を横取りし、最後にはウリヤを謀殺しました。罪は一義的には人に犯した罪です。しかし、それは突き詰めると神に逆らう行為です。だからダビデは「あなたに背いた」、「あなたの前に罪を犯した」と告白します。そしてその罪が生まれ落ちた時からあったことを告白します。ここでは単に「ウリヤを殺すという罪を犯した」ことだけではなく、これまでに犯した様々な罪が詩人を圧倒し、「自分の存在それ自体が罪人である」と告白しているのです。
・「存在そのものが罪」である時、その罪は自分の力では洗い流すことはできません。いくらヒソプ(石鹸)で洗っても落ちません。だから神に罪を洗い流して下さるように祈ります「ヒソプの枝で私の罪を払ってください、私が清くなるように。私を洗ってください、雪よりも白くなるように。喜び祝う声を聞かせてください、あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。私の罪に御顔を向けず、咎をことごとくぬぐってください」(51:9-11)。「存在そのものが罪」であれば、罪の清めとは単に処罰が赦されることでは済まず、古き自己が葬られ、新たな自己に生かされなければ救済はありません。ですからダビデは主に願います「神よ、私の内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けて下さい。御前から私を退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再び私に味わわせ、自由の霊によって支えてください」(51:12-14)。
・「私を変えて下さい。私自身が問題なのです」とダビデは血の汗を流しながら祈っています。罪からの清め、救いとは人格を変えるような出来事なのです。人格を変えるような出来事を経験した者は他者のために祈り始めます。「私はあなたの道を教えます、あなたに背いている者に、罪人が御もとに立ち帰るように。神よ、私の救いの神よ、流血の災いから私を救い出してください。恵みの御業をこの舌は喜び歌います。主よ、私の唇を開いてください、この口はあなたの賛美を歌います」(51:15-17)。
・そしてこの詩編の中核となる言葉が祈られます「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、私はそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」(51:18-19)。罪の赦しは悔い改めの結果与えられるものであり、それは神殿に犠牲の動物を捧げることによって赦されるようなものではありません。私たちが捧げるべきいけにえは「砕かれた霊」であり、主は「砕かれた悔いる心」を受け入れて下さる、それを信じてダビデは祈りを捧げました。
・先に申しましたように、詩篇編集者はこの詩に「ダビデの歌」との表題を付けましたが、内容的にはダビデ時代のものであるよりも、捕囚期以後の詩である可能性が高いと思われます。しかし、旧約の人々も新約の人々もこの詩をダビデの詩として親しんできました。その理由を高橋三郎氏は「イスラエルはその王なるダビデの醜悪な罪をこの詩を唱和する毎に想起し、打ちのめされた罪人の告白の中にこそ、信仰による生の原点を見出した」と表現します(高橋三郎「エロヒーム歌集」)。人々はダビデを慕いました。それはダビデがイスラエルを繁栄に導いた王であるからではなく、王であるにも関わらず、罪を認め、神の前に悔い改めたからです。人は罪を犯さないから偉大なのではありません。誰もが罪を犯す、その罪を心から悔いることのできる人が偉大なのです。

3.現代の物語として詩編51篇を読む

・私たちがこの詩をダビデの悔い改めの祈りとして読む時、それは私たちの物語になっていきます。米国のビリ・クリントン大統領が不倫疑惑を責められ、告白して悔い改めた時、この詩篇51編を引用して罪を認めています。次のような言葉です「今、私は悲嘆にくれるよりも、許しを請うべきだと思います.そして少なくとも、そのためには二つのことが必要なのです。第一は、心底から悔い改めることです。それは、私自身の在り方を変え、犯した過ちを正そうという強い覚悟です。そして、私は悔い改めました。第二は、聖書が言う「打ち砕かれた魂」(詩篇51:19)です。自分が願うような新しい存在になるためには、どうしても神の助けが必要だと認めることです。そして、その願いに応えて赦してくださろうという、神の御心です。それはまた、私が傲慢さや怒りを捨てることでもあります。奢った態度や怒りは裁きを曇らせ、人々に私と同じような行為をする口実を与えるか、あるいは一層の批判と誹謗をまねくでしょうから」(1998年9月11日ホワイトハウス朝食祈祷会でのクリントンの言葉)。
・この物語は、いろいろなことを私たちに教えます。ダビデは王でした。権力者が悪を犯しても世間は何も言いません。しかし、人の目に隠れていることも神は明らかにされます。神はダビデの罪を公衆の前にさらけ出されました。権力者であれば、ダビデがするようなことは誰でもするでしょう。それにもかかわらず、ダビデは裁かれなければなりません。このバテシバを通じてソロモンが生まれ、このダビデ-ソロモンの系図からイエス・キリストが生まれたことをマタイ福音書は記します。「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図・・・エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ・・・ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」(マタイ1:1-16)。
・マタイはあえて「ウリヤの妻によってソロモンが生まれた」と記します。単純に「ダビデはソロモンの父」と書けばよいのに、何故「ウリヤの妻によって」と記すのでしょうか。それはキリストの系図もまた、汚れていたことを示すためです。人間は罪の中に生まれ、その罪を背負って生きる存在であり、その人間の罪を背負うためにキリストは来られたことを示すためです。私たちの系図も罪で汚れています。私たちが自分たちの過去を自伝として書こうとする時、書くのをためらう出来事、人に知られたくない出来事を多く待っています。誰も知らない罪、隠しておきたい出来事、神は全てをご存知であり、それを承知の上で私たちを招かれています。
・今日の招詞にサムエル記下12:13-14を選びました。次のような言葉です「ダビデはナタンに言った『私は主に罪を犯した』。ナタンはダビデに言った『その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ』」。悔い改めたダビデに対して預言者ナタンが言った言葉です。悔改めにより、罪は赦されますが、罪は赦されても罪の事実は残り、誰かが贖わなければなりません。「子は死ぬ」、私たちは思います、この子に何の罪があったのか。罪を犯したのは父ダビデと母バテシバではないのか。しかし、誰かが贖わなくてはならず、生まれてくる子は贖いのために死にます。私たちの場合もそうです。私たちが罪を犯した時、悔改めれば赦されます。しかし、罪は罪として誰かが贖わなければならない。聖書はその贖いのためにイエス・キリストが十字架につかれたと記します。私たちの赦しはイエス・キリストの血によって贖われた高価な赦し、代価を払って買い取られた赦しなのです。
・神を信じる人とそうでない人は何が違うのでしょうか。共に罪を犯します。キリスト者は罪を犯した時、それを神に指摘され、裁かれ、苦しみます。その苦しみを通して神の憐れみが与えられ、また立ち上がることができます。神を信じることの出来ない人々は犯した罪を隠そうとします。「その男が私である」と認めることが出来ないため、罪が罪として明らかにされず、裁きが為されません。裁きがないから、償いがなく、償いがないから赦しがなく、赦しがないから平安がない。罪からの救いの第一歩は、罪人に下される神の裁きなのです。「私は罪を犯した」と悔改めた時、神の祝福が始まることを聖書は繰り返し、私たちに伝えます。

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