江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2010年7月18日説教(詩篇8編、創造主を讃える)

投稿日:2010年7月18日 更新日:

1.神の偉大と人間の卑小

・詩編の学びの三回目、今日は詩編8篇がテキストとして与えられました。詩編8篇はエルサレム神殿の前庭に集う会衆によって歌われた讃美の歌です。最初に会衆が合唱します「主よ、私たちの主よ、あなたの御名は、いかに力強く、全地に満ちていることでしょう」(8:2a)。それにこたえて独唱者が進み出て歌い始めます「あなたの天を、あなたの指の業を、私は仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの」(8:4)。最後に会衆が再び合唱します「主よ、私たちの主よ、あなたの御名は、いかに力強く、全地に満ちていることでしょう」(8:10)。詩人の信仰体験が会衆讃美に依って礼拝共同体全体のものとなっています。詩人は夜空に果てしなく広がる月や星を見て、この無限の宇宙を創造された神に驚嘆し、その偉大さを讃美しています。現代の私たちは自然の壮大さに驚くことを忘れてしまいました。都会で夜空を見上げても、見える星はわずかです。しかし、人里離れた場所に行けば様相は一変します。私はオーストラリアの砂漠で夜空を見上げた時の感動を忘れることができません。まさに足元から星空が広がっている光景を見て、宇宙の広大さを思わずには居られませんでした。
・詩編の作者も同じ光景を見たのです。詩人は夜空に広がる満天の星を見て、その宇宙のかなたに創造の神がいまし、天と地を支配しておられることを全身で感じたのです。だから詩人は歌います「天に輝くあなたの威光をたたえます」(8:2)。天には神の創造の業が力強く刻印されています。人は果てしなく広がる天空を見るとき、宇宙の悠久無限に想いを馳せます。だから詩人は歌います「あなたの天を、あなたの指の業を、私は仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの」(8:4)。古代の人々は太陽や月を神として拝みましたが、イスラエルはこの偶像崇拝から自由です。アブラハムやイサクを通して、神が人間と関わられる方であることを知っていたからです。
・その無限大の宇宙の前にたたずむ時、人は自分があまりにも小さな存在であることを痛感します。彼は歌います「そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは」(8: 5)。「人間は何ものなのでしょう」、人間と訳されている言葉は「エノシュ」で人間の弱さを示します。人間は有限であり、やがては死すべき存在にすぎません。「人の子」とは「ベン・アダム」、アダムの子、アダムは土(アダマ)から来ますから、塵の子と訳すべきでしょうか。人間は塵によって造られた卑小な存在に過ぎないことを詩人は認識しています。一人の人間の生涯は70年、あるいは80年です。それは決して短くはない。しかし人類の数百万年という長い歴史の中で見た時、その生涯は一瞬であり、また長いように思える人類の歴史さえ、数十億年という宇宙の歴史に比べれば、数えるに値しないものです。それなのに私たちはその地上の人生を、「何を食べようか、何を飲もうか」と思い悩み(マタイ6:25)、瞬く間に過ぎゆく地上の栄光(富や地位)に目を奪われ、反目し、嫉妬し、恨み、争って、その生涯を終えます。神の造られた自然がこんなにも美しく、雄大であるのに、人の世は何故こんなにも騒々しく、醜いのか、詩人は満天の星の輝く夜空を前にして思います。
・しかし詩人はただ人間の卑小さだけに注意を奪われているのではありません。その無に等しい者に目を留め、顧みて下さる方に思いを馳せます。彼は歌います「神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ、御手によって造られたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました」(8:6-7)。「無に等しい人間が神に次ぐ者として創造された」、そして「万物の支配をその人間が委ねられた」、詩人はそのことを驚き、感謝しています。この言葉の背景には旧約の創造信仰があります。創世記は記します「神は言われた『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう』」(創世記1:26)。

2.人を二重の視点で見る

・人は塵で造られた故に塵に帰るしかない、はかない存在です。しかしそのはかない存在に神は天地万物を治める権能を与えることによって、神とつながる存在にして下さったと詩人は歌います。ここに人間の持つ二重性が見事に描かれています。すなわち、人は低く貧しく無に等しいが、神はその人間に尊厳を与えて下さった。人は卑しいけれども、同時に尊い存在であるという視点です。「卑しくかつ尊い」、その人間の両面性を正しく認識しない時に、人は過ちを犯します。自分が「尊い存在である」ことを忘れた時、人は虚無の世界に引き込まれ、自らの命を絶ちます。自分なんかいなくとも良い、自分は誰にも必要とされていない、そう思い込んで自殺する人が絶えません。しかし聖書はそうではないと言います。あなたは「神に僅かに劣るものとして造られ、栄光と威光を冠としていただいている」存在ではないかと。他方、自分が「限界を持つ存在」であることを忘れた時、人は傲慢になります。今や人間は高度に発達した科学技術によって宇宙の神秘にもメスを入れつつあり、遺伝子操作を用いて生命でさえも操作できると考えるようになりました。しかしその技術の進歩は同時に人を殺す大量殺戮武器の開発にも向けられ、人は今やこの地球を何回でも破壊できるほどの核弾頭を抱えてさまよっています。その人々に詩人は幼子を見よと言います「神は幼子、乳飲み子の口によって、あなたは刃向かう者に向かって砦を築き、報復する敵を絶ち滅ぼされます」(8:3)。幼子は単純に親を信じ、親に自らの生存を委ねて生きています。何故なら幼子は自分では何もできないことを知っているからです。詩人は自分が「限界を持つ存在」であることを忘れた人に、幼子の生き方を見よと言っているのです。

3.命の息を吹き込まれた存在としての人間

・詩篇8篇の背景には創世記の人間理解があります。そのために、創世記の記事をもう一度見てみたいと思い、今日の招詞に創世記2:7を選びました。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。人は土(アダマ)の塵で創られたから、人は(アダム)と呼ばれたと創世記は言います。土から創られたことは、人は神の前では土くれのような、つまらない存在であることを示します。その無価値な存在に、神は生命の息を吹き込まれた。神の息が吹き込まれた故に、人は生きる者になったと創世記は言います。人の人たるはその肉にあるのではなく、神が吹き込まれた息(ルーアハ)、すなわち霊が与えられているためです。この霊こそ神の賜物であり、神の霊なしには人は動物にすぎないのです。
・「神を信じないならば人は動物にすぎない、神を信じてこそ人は人たりうる」と聖書は言います。人間の歴史は戦争の歴史、殺しあいの歴史です。人間は国と国が争い、人と人が争う歴史を形成してきました。動物は決して無用な殺戮は行いませんし、ましてや同族同士の殺し合いはしない。社会学的に見れば人間は動物以下かもしれません。神の息、霊を失ったゆえです。神を知らない人間は本当の意味での平和を形成できません。人間の平和とは「争いのない」状態であり、誰かが圧倒的に強く、他の人が対抗できない時に争いのない状態=平和が生まれます。「ローマの平和=パックス・ロマーナ」は、ローマ帝国の軍事力を背景に生まれ、ローマが衰退すると各地の民族が反乱を繰り返し、その平和は崩れていきました。現代の平和=パックス・アメリカーナも同じで、アメリカの国力の衰退と共に平和は崩れていきます。現代はこのパックス・アメリカーナの崩壊過程にあるのではないでしょうか。この世の平和は武力の抑圧によって生まれる、偽りの平和です。そのような平和は聖書の言う平和(シャローム)ではありません。本当の平和とは、人が己の限界を知り、ただ神の霊を受けているゆえに生かされていることを知った時に来ます。
・それは国だけではなく、個人生活においても同じです。私たちが神を知らない時、私たちの人生は偶然にもてあそばされる人生です。たとえ、現在が幸福だとしても、それは偶然のなせる業であり、外部の環境が変われば、すぐに不幸になります。例えば女性が良い夫に恵まれ、かわいい子供もいて、経済的にも満たされた時、人はそれを幸福と呼ぶでしょうが、その子が突然の事故で亡くなれば、もうその幸福は崩れ始めます。私たちの幸福はもろい基盤の上に立っているのです。しかし、私たちが神によって生かされていることを知った時、私たちの人生は偶然ではなく、必然になります。仮に私たちの上に災いが起こっても、その災いは必然のもの、神がその災いを通して私たちを幸いに導こうとしておられることを知ることによって、災いの意味が変わってきます。この神の導き、神の霊によって生かされる生き方こそ本来のものなのだと聖書は言います。悔い改めるとは、この本来の状態、神が霊を吹き込まれた最初の状態に立ち返ることであり、そのしるしとして、私たちはバプテスマを受け、バプテスマを通して神の霊を再び受けます。その時、私たちの人生は外部環境の変化によって翻弄される偶然の人生ではなく、外部がどうあっても平安である必然の人生に変えられていきます。
・人は塵だから塵に帰る存在です。詩編90篇の作者は歌います「あなたは人を塵に返し、『人の子よ、帰れ』と仰せになります・・・あなたは眠りの中に人を漂わせ、朝が来れば、人は草のように移ろいます。朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい、夕べにはしおれ、枯れて行きます」(詩篇90:3-6)。神を知る者は、「自分がいかに卑小か」を知る故に、驕り高ぶることをしません。他方、その人間に神は万物の支配を委託されました。預言者イザヤは歌います「私はあなたを贖う。あなたは私のもの。私はあなたの名を呼ぶ。水の中を通る時も、私はあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない・・・私の目にあなたは価高く、貴く、私はあなたを愛する」(イザヤ43:1-4)。神を知る者は、「神が愛してくださる」ことを知る故に絶望しないのです。
・水野源三さんの詩を最後に読みます。彼は小さいころの高熱が原因で全身麻痺になり、口も利けないまま、人生の大半を寝たきりで過ごし、47歳で亡くなりました。彼の出来る意思疎通は唯一まぶたの開閉で、母親が50音表をもって、字を読み、それをまぶたで知らせて、文字にして、詩を書きました。彼の詩に次のような詩があります「神様の大きな御手の中で、カタツムリはカタツムリらしく歩み、蛍草は蛍草らしく咲き、雨蛙は雨蛙らしく鳴き、神様の御手の中で、私は私らしく生きる」。彼は自分が寝たきりであることを不幸とは思っていません。むしろ、寝たきりになることによって神と出会えたことを幸福に思っています。「私は私らしく生きる」、自分が生かされ、役割を与えられていることを喜んでいます。神に出会うことによって、人生の意味が違ってきます。病の人は病のままに、貧乏な人は貧乏なままに、祝福を受けるからです。神を知ることによって、私たちは運命に翻弄される人生から、「人として生かされる人生」へと解放されます。詩編8篇は私たちにそのことを告げています。「あなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう」(8:5)と歌った詩人が、しかし「あなた・・・は神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ、御手によって造られたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました」(8:6-7)と賛美することができました。この詩編に出会えたことを感謝します。

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