江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2010年5月2日説教(マタイ6:9-13、弱さの中で祈る)

投稿日:2010年5月2日 更新日:

1.私たちを誘惑に遭わせず

・私たちは、聖書教育に従って聖書を読んでおります。今日、与えられたのは「主の祈り」の箇所であり、通常は前半の三つの祈り、後半の三つの祈りを概観して、主の祈り全体の意味を考える形で説教されます。しかし、それぞれの祈りが深い意味を持っており、詳しく考察すると一冊の本になるだけの内容があります。今、私の手元にあるだけでも数冊の「主の祈り」の解説書があり、図書通販のアマゾン・ネットを見れば、現在購入出来る解説書だけでも10冊以上あります。主の祈りはそれだけ奥行きが深い祈りなのです。そのため、聖書教育の執筆者は、「今回は6章13節のみに焦点を当て、“試みにあわせず”というテーマで考える」としています。私たちもこれにならって、6章13節のみを取り上げて、御言葉を聞くことにします。
・6章13節を、新共同訳は、「私たちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」と訳します。ところが、口語訳や新改訳では「誘惑」ではなく「試み」と訳します。ここで用いられているギリシャ語=ペイラスモスと言う言葉は、「試み」とも「誘惑」とも訳することができる言葉であり、「誘惑にあわせず」でも、「試みにあわせず」でも、どちらの訳も正しいのです。しかし、困ったことに日本語の「試み」と「誘惑」は、微妙に意味合いが異なります。「試み」はその人を試して鍛えるという前向きの意味を持ち、「誘惑」は弱い人間が負けて誤った道に引き込まれるという否定的な意味を持っています。ですから、「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」と訳すと、強い正しい人の祈りとなり、「私たちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」と祈れば、弱い人間のせつない祈りになります。どう訳すかによって示すものが異なってきます。私たちは自分が弱い存在であることを知りますから、新共同訳の祈りを選びます。ですから、「試み」ではなく、「誘惑」として、この個所を考えていきます。
・ペイラスモスを「弱さゆえの誘惑」と受け止めた時、私たちが思い浮かべるのは、人類の父祖、アダムとエバが経験した誘惑です。神はアダムとエバを造り、二人をエデンの園に置かれて、言われました「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(創世記2:16-17)。その二人の前に誘惑する者(蛇=サタン)が来て、二人を誘います「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」(同3:1)。サタンは神の肯定命令「すべての木から取って食べなさい」を、禁止命令「園のどの木からも食べてはいけない」と誘うことによって、人がいかに不自由な生活の中にあるのかと示唆し、そのささやきに負けて、人は禁断の実を食べてしまいます。「神は天にあり、人は地にある」、神ではない者としてやってはいけないことを提示された時、人はその限界を超えようとします。人が限界を超えて神になろうとした時、人の中に罪が入ったと創世記は示唆します。
・現代の私たちも同じような誘惑を受けます。苦しみや悲しみに置かれた時、私たちは思います「神を信じて従っても何も良いことはなかった。つらい不自由な生活を強いられた。神から自由になって、自分の思う通りに生きよう」。私たちがそのような誘惑に負けた時、私たちは神から離れていき、私たちは自我の命ずるままに行動し始めます。それが現代の弱肉強食、適者生存の世界を形成して行きました。何をしても良いと考えた人は、「試しに」人を殺します。「殺してみたかった。何故殺してはいけないのか」という問いに現代人は回答を持ちません。人は快楽を求めて性的欲望に走り、刺激を求めて覚せい剤を用い、飲酒に耽ります。人には「超えてはいけない一線がある」、つまり「すべてのことが許されているが、すべてのことが益になるわけではない」(1コリント10:23)ことを忘れた時に、人が人ではなくなります。私たちはこのように誘惑にあうとすぐに負けてしまう存在です。だからイエスは、「私たちを誘惑に遭わせず」と祈るように命じられます。

2.悪い者から救って下さい。

・悪いもの=ポネロンという言葉は、男性名詞に訳すと悪い者=サタンの意味になり、中性名詞に訳すと=悪しき行為になります。ペイラスモスを「誘惑」と考えた時に、ポネロンは「悪い者、サタン」の意味になります。サタン、あるいは悪魔は確かに存在すると思えます。理性的で勤勉であったドイツ人がヒットラーを指導者に選んだ時から、残虐で狂暴な野蛮人に変質し、ついにはユダヤ人を含め数百万人もの人間を抹殺する存在になりました。まさに悪魔に魅入られたとしか形容の出来ない出来事です。温和で人の和を重んじる日本人も、戦争中の大陸では殺人鬼、悪魔のような行動をしました。ベトナム戦争時におけるアメリカ人も、ユーゴ紛争時のセルビア人も同じでした。善良な人間が異常な状況の中では狂暴な人殺しになってしまう現実を考えた時、私たちは悪の、デモーニッシュな力の前では、あまりにも無力なのを思わざるを得ません。聖書学者のシュニーヴィントは、この祈りを「我々はこの祈りにおいて、悪魔や我々の肉が我々を欺いて、不信仰や懐疑やその他大いなる恥辱と悪徳に誘わないようにと乞い願うのである」と解説しています(NTD聖書注解・マタイ福音書別巻)。現代的に考えれば、悪魔とは、私たちのうちにある肉の欲望の別名かもしれません。
・イエスの生涯は始めから終わりまで、「ペイラモス」(誘惑、試練)との戦いでした。その戦いの最大のものは、捕えられる前日のゲツセマネの園での誘惑です。マタイは記します「イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て・・・悲しみもだえ始められた。(イエスは弟子たち)に言われた。『私は死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、私と共に目を覚ましていなさい』」(26:36-39)。そしてイエスは祈られます「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせて下さい」(26:39)。「この杯を過ぎ去らせて下さい」、「十字架に死ぬことが神の子の使命とは思えません。生きていてこそ、神の子としての働きができるのではないでしょうか」とイエスはもだえ苦しまれたのです。そのイエスが血の汗を流して祈られている時、弟子たちは睡魔に負けて眠り込んでいました。イエスは弟子たちに言われます「あなたがたは・・・私と共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」(26:40-41)。ここにも誘惑(ペイラモス)という言葉が用いられています。「心は燃えても肉体は弱い」、それが私たちの現実です。その現実を知られる故に、イエスは、「誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」と祈るように教えられるのです。

3.イエスの祈りに支えられて

・今日の招詞にヨハネ17:15を選びました。次のような言葉です。「私がお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守って下さることです」。ヨハネ17章はイエスが世を去る前に、残される弟子たちのために祈られた言葉を記しています。イエスは祈られます「私は、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、私はみもとに参ります。聖なる父よ、私に与えてくださった御名によって彼らを守って下さい」(17:11)。「私が世に属していないように、彼らも世に属していない」(17:14)、それゆえに「迫害を受けるであろう弟子たちを守って下さい」と祈られたイエスは、次に招詞の言葉を祈られます「私がお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守って下さることです」。世から憎まれ苦しみを受けるであろうから、弟子たちを世から「取り去って下さい」とは祈られず、弟子たちが、世にあって戦い、世に打ち勝つことを、イエスは祈られました。しかしその弟子たちは弱い存在です。イエスが血の汗を流して祈っておられる時に眠り込み、イエスが捕えられると逃げてしまいます。その弟子たちのために「悪い者から守って下さい」と祈られます。「主の祈り」の中の、「悪い者から救って下さい」という祈りと、全く同じ内容です。私たちに祈るように教えられた祈りが、ここではイエスご自身によって祈られています。警戒すべきは、外から来る苦難よりも、内に働く「悪しき者」の誘惑です。それに欺かれて、私たちが存立の基礎である御言葉を疑い、見失うならば、私たちも世の一部となり、もはや神の子ではなくなります。
・私たち一人一人は弱くて、何の力もない存在です。すぐに誘惑に負けてしまいます。しかし、私たちはイエスによって祈られている存在であり、教会という共同体を通して助け合うことによって、その弱さを克服することができることをイエスの祈りは教えます。そのことを、実際の社会生活において、実行している人々がいます。「アルコホーリクス・アノニマス」という団体の人々です。アルコホーリクス・アノニマス(Alcoholics Anonymous)、直訳すると「無名のアルコール依存症者たち」は、アルコール依存症から人々を解放するために働いている団体です。彼らは特定の宗教、宗派、政党、組織、に縛られずに活動しており、通常はAAと呼ばれています。始まりの発端は一人のアルコホーリク(問題飲酒者)が、もう一人のアルコホーリク(問題飲酒者)に、お互いの飲酒の問題について経験を分かち合い、そのときだけは飲酒をせずにいられた、ということから始まりました。
・このAAというグループは、「12のステップ」と呼ばれる宣言を集会で読み上げます。宣言の最初は「私たちはアルコールに対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた」という言葉です。アルコールが自分たちの生活を破壊し、それから逃れようとしても逃れることができなかったことを最初に告白します。次に彼らは言います「しかし、自分を超えた大きな力が、私たちを健康な心に戻してくれると信じるようになった」。一人ではアルコールという誘惑から解放されることはできないが、「自分を超えた大きな力」と「同じ苦しみを知る者」の助けがあればそれが出来ることを知った。そして言います「私たちの意志と生き方を、自分なりに理解した神の配慮にゆだねる決心をした。恐れずに、徹底して、自分自身の棚卸しを行ない、それを表に作った。神に対し、自分に対し、そしてもう一人の人に対して、自分の過ちの本質をありのままに認めた」。 その結果、「こうした性格上の欠点全部を、神に取り除いてもらう準備がすべて整った。私たちの短所を取り除いて下さいと、謙虚に神に求めた。私たちが傷つけたすべての人の表を作り、その人たち全員に進んで埋め合わせをしようとする気持ちになった。その人たちやほかの人を傷つけない限り、機会あるたびに、その人たちに直接埋め合わせをした。自分自身の棚卸しを続け、間違ったときは直ちにそれを認めた。祈りと黙想を通して、自分なりに理解した神との意識的な触れ合いを深め、神の意志を知ることと、それを実践する力だけを求めた。これらのステップを経た結果、私たちは霊的に目覚め、このメッセージをアルコホーリクに伝え、そして私たちのすべてのことにこの原理を実行しようと努力した」。
・現在、このAAの働きはアルコール依存症だけではなく、他の依存症に苦しむ人たちにも広がっています。依存症とは、WHO専門部会の定義によれば「精神に作用する化学物質の摂取や、ある種の快感や高揚感を伴う特定の行為を繰り返し行った結果、それらの刺激を求める抑えがたい欲求が生じ、その刺激を追い求める行動が優位となり、その刺激がないと不快な精神的・身体的症状を生じる精神的・身体的・行動的状態」のことです。内容的には、物質への依存(ニコチン依存・薬物依存・アルコール依存など)、過程への依存(ギャンブル依存・インターネット依存・借金依存など)、関係への依存(共依存・恋愛依存など)があります。依存症は、治療を要する病気なのです。その治療の第一歩は「自分が病気であることを認めること」、第二は「同じ病に苦しむ人がいることを知ること」、そして「人間を超えた力を信じることによって解決に近付くという道があることを知る」ことです。
・このAAの働きを通して、私たちは主の祈りが単なるお題目ではなく、私たちを生かす力になることを再認識します。つまり、「私たちは自分が弱い存在であることを認め」、「神なしでは誘惑に負けることを認識し」、そして「共に祈る仲間が必要」なことを知ります。「自分が弱い存在であることを認め」ますから心からの悔い改めを行い、「共に祈る仲間が必要」だから教会共同体を形成し、「神なしでは誘惑に負ける」から礼拝の中で父なる神に祈り求めます。主の祈りは私たちに生きる力を与える、そのような祈りなのです。

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