1.自分を救えない救い主
・3月最後の主日を迎えました。今年を締めくくる礼拝は受難週礼拝です。今日、私たちはルカ23章から、イエスの十字架の物語を読みます。人々はイエスを捕らえ、裁判にかけ、死刑を宣告し、されこうべ(アラム語:ゴルゴダ)と呼ばれる刑場まで連れてきました。イエスの手と足には太い釘が打ち込まれ、十字架が立てられました。十字架につけられたイエスを、ユダヤ議会の指導者たちは嘲笑って言います「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」(23:35)。ローマ兵たちはイエスを侮辱します「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」(23:37)。十字架に架けられた犯罪人の一人もイエスをののしって言います「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」(23:39)。彼らの嘲笑の言葉は同じです「お前は救い主ではないのか。何故自分を救えないのか」。「自分さえ救えない者がなぜ他人を救えるのか」、「おまえはメシアではない」、自分を救えないイエスは、この世の価値観からすれば、愚かな、無力な存在でした。
・人々がイエスに求めたのは、栄光の救い主、力ある王です。力によって敵を打ち倒し、人々の尊敬と信頼を勝ち取って、自ら道を切り開いていく救い主です。人々は、病人をいやし、悪霊を追い出されるイエスの行為に、神の力を見ました。力強い説教に、神の息吹を感じました。神の力があれば、自分たちの生活を豊かにしてくれるに違いないと人々は期待しました。しかし、イエスは救いとはそのようなものではないと拒否されます。期待を裏切られた人々は怒り、イエスを十字架につけます。「民衆は立って見つめていました」(23:35)。私たちもまた民衆の一人として、その場にいます。私たちは救いを、幸福を求めて教会に来ましたが、イエスは私たちに「自分の十字架を背負って従って来なさい」と言われます。幸福を求めたのに十字架が与えられるのか、ある者は教会を去り、別の人は教会に期待しなくなってしまいました。私たちもまたイエスを嘲笑する人々の中にいます。
・全ての人が嘲笑する中で、イエスは祈られました「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」(23:34)。イエスは自分を十字架につけた人々を呪うのではなく、その赦しを神に祈られます。私たちは不思議に思います。何故、この人はこのような祈りをされるのだろうか。神の子だから出来るのだろうか。聖書は、イエスが激しい葛藤の末に、この言葉に到達された事を隠しません。捕らえられる前の晩、イエスはゲッセマネで祈られました「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけて下さい」(22:42)。イエスは死にたくなかった、自分を殺そうとする者に憎しみを持たれたのです。しかし、イエスは続いて祈られます「しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください」。死にたくない、辱めを受けたくない、しかしそれがあなたの御心なら従っていきますという決意です。人間としての思いと神の子としての思いが葛藤し、「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」(22:44)とルカは記述します。その試練に勝たれたゆえに、今イエスは、自分を殺そうとする者たちのために、祈ることが出来るのです。
2.一人はののしり、一人は憐れみを求める
・「父よ、彼らをお赦し下さい」というイエスの祈りは、イエスと共に十字架につけられていた二人の人間に別々の反応を引き起こしました。犯罪人の一人はイエスをののしります「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」(23:39)。自分を救えないくせに、他者の救いを祈っても何にもならないではないか。私が欲しいのは今この十字架の苦しみから解放する力なのだと。もう一人の犯罪人はイエスに言います「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、私を思い出してください」(23:42)。彼は訴えました「私は罪を犯したのだから、死刑にされても仕方がない、でも死後の裁きが怖くて仕方がない。私には救って下さいと要求する資格はないが、それでも憐れんで下さい」と。その男にイエスは言われました「はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園(パラダイス)にいる」(23:43)。人が死刑の宣告を受けることは、社会から「あなたは生きるに値しない」と断罪されることです。しかし、イエスは言われます「人はあなたは生きる価値などない、死んでしまえというかもしれないが、父なる神にとってあなたも大事な人だ。父はあなたを受け入れて下さる」。
・私たちはこの話をどのように聴くのでしょうか。私たちは死刑にされるほどの悪いことをした覚えはないから、無縁な話だと思うのでしょうか。しかし、そう思う私たちもやがて死ぬ時が来ます。死が今か、先かの違いだけで、私たちも死刑を宣告されている状況は同じです。二人は共に救いを求めています。一方は今現在の苦しみからの解放を、他方は死を受け入れて死の先にある神の憐みを求めています。私たちも、どちらの立場に立つのかが問われています。私たちは何故教会に来るのでしょうか。ここに救いがあると思うからです。しかし、その救いとは「今現在の苦しみから解放される」ことではなく、「苦しみの中にあっても平安である」救いです。死が不可避だとすれば、苦しみもまた不可避だからです。
3.十字架の現場で奇跡が起きた
・今日の招詞に第一コリント1:18を選びました。次のような言葉です「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です」。イエスは十字架上で「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのかを知らないのです」と祈られました。私たちも苦しみの中で祈りますが、その祈りは、「私をこの苦しみから救い出して下さい」という祈りです。しかしイエスの祈りは、「彼らをお赦し下さい」と他者の赦しに集中しています。イエスは自分の救いではなく、他者の救いを祈ったのです。同時にまたイエスの赦しは、その罪をごまかすのではなく、知らせる赦しです。「自分が何をしているのか知らないのです」、罪の現実がそこにあることをイエスは指摘されます。罪の現実がある時、私たちは「おまえは罪びとだ」と断罪して他者を教えようとしますが、イエスはその罪びとの罪を自ら背負われることによって教えようとしておられます。「私があなたの代わりに死ぬから」と。歴史上、このような祈りがなされたことはありませんでした。
・このイエスの祈りが二人の人間を信仰に導きました。イエスと共に十字架にかけられていた男の一人はイエスに言います「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、(こうなるのも)当然だ」(23:41)。彼はおそらくローマ支配に武力で抵抗する熱心党の党員で、反逆罪で捕えられ、十字架にかけられているのでしょう。彼は武力でローマを倒そうとして失敗し、今その過ちを悟りました。神の名によってなされても、暴力は暴力であり、そこからは何も良いものは生まれないことを知りました。そして心からイエスに求めます「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、私を思い出して下さい」(23:42)。イエスの十字架上の祈りが、ここに一人の男の信仰告白を生んだのです。ここに最初のクリスチャンが生まれました。
・この十字架の現場では、さらにもう一人のクリスチャンが生まれています。イエスの十字架刑の執行を指揮していたローマ軍の百人隊長です。ルカは記します「百人隊長はこの出来事を見て、『本当にこの人は正しい人だった』と言って、神を賛美した」(23:47)。彼はイエスが、自分を殺そうとする者たちの赦しを祈り、最後には「私の霊を御手に委ねます」(23:46)といって死んでいかれたのを見て、そこに神の存在を感じたのです。その時、十字架というおぞましい出来事が、「神を讃美する」出来事に変えられていきました。復活のイエスに出会って、信じた人たちはいます。聖霊降臨に動かされて信徒になった人たちも大勢います。しかし、それに先立って、十字架の現場で信じた二人がここにいるのです。まさにパウロが言うように、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力」なのです。
・しかし、人間社会の現実の中では、きれいごとでは片付かない問題があります。今年のノーベル平和賞を受けたアメリカのオバマ大統領はその受賞演説のなかで言いました「私は、マーティン・ルーサー・キング牧師がノーベル平和賞の授賞式で語った言葉を胸に行っている。彼は『暴力は決して恒久的な平和をもたらさない。それは社会の問題を何も解決しない。それはただ新たな、より複雑な問題を生み出すだけだ』と言った・・・私は、ガンジーとキング牧師の信条と人生には、何ら弱いものはなく、何ら消極的なものはなく、何ら甘い考えのものはないことを知っている。しかし、私は、自国を守るために就任した国家元首として、彼らの先例だけに従うわけにはいかない。私はあるがままの世界に立ち向かっている。米国民への脅威に対して、手をこまねいてることはできない。間違ってはいけない。世界に邪悪は存在する。非暴力の運動では、ヒトラーの軍隊をとめることはできなかっただろう。交渉では、アルカイダの指導者たちに武器を置かせることはできない。武力行使がときに必要だと言うことは、冷笑的な態度をとることではない。それは人間の不完全さと、理性の限界という歴史を認めることだ」(オバマ・ノーベル平和賞受賞演説から)。
・オバマとキングを分けた何でしょうか。信仰です。オバマは弁護士出身です。彼は人間の現実を見つめ、社会の悪を見つめて、悪に対抗するには悪しかないと考えています。それに対して、キングは牧師として、悪に対抗するには善しかない、「神は悪を善に変えて下さる力をお持ちだ」と信じました。アメリカ大統領として、国民を指導する立場にあるオバマは「悪には悪を」以外の選択肢がなかったと思います。しかし聖書は言います「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストが私たちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとして私たちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」(エペソ5:1-2)。「自分のからだをいけにえとして献げなさい」、自分を捨てて他者のために祈る時、後は神が働いてよきものに変えて下さるとの信仰です。
・「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのかを知らないのです」は天上の祈りです。私たちが目指すのはこの世での成功ではなく、神の前での成功です。もしこの教会を神の国にしたいのであれば、私たちの祈りは赦しの祈りしかありません。もし、私たちが、日常生活の現場で、自分をののしり、批判する人々に向かって、「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのかを知らないのです」と祈ることができたら、十字架の現場で起きた同じ奇跡が生じるでしょう。私たちの教会は10年前に牧師と執事が対立して教会分裂が起こり、多くの信徒が散らされて行きましたが、このイエスの祈りをその時にみんなが聞き、悔い改めたら、そのような出来事は起こらなかったでしょう。現実の悪を見つめながら、私たちはオバマではなく、キングの生き方を志していきます。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力」であることを信じて、この現実を生きていくのです。
・聖書の救いとは「今現在の苦しみから解放される」ことではなく、「苦しみの中にあっても平安である」救いだと先に述べました。死が不可避だとすれば、苦しみもまた不可避だからです。この現実を見つめていくのです。この国の価値観は、「偏差値の高い大学に入り、一流企業に就職する、そうすれば幸せになれる、そうでなければ幸せになれない」というものです。しかし、この価値観からは「死」という概念が抜け落ちています。愛する者の死に直面した時、また自らが不治の病に冒された時、この価値観は音を立てて崩れます。良く生きるためには、死を見つめる必要があることを十字架の物語は教えます。その死に直面してイエスは二つの言葉を残されました「父よ、彼らをお赦し下さい」という言葉と、「私の霊を御手に委ねます」という言葉です。この二つの言葉を忘れなければ、私たちはここ篠崎に神の国を形成することができる事を覚えましょう。