1.信仰によって救われる
・聖書教育に基づいてロ−マ書を読んでいます。今日はその5回目で、「信仰によって義とされた(救われた)者はいかに生きるべきか」を述べた個所です。先週学んだロ−マ書4章ではアブラハムが「信仰によって義とされた」ことをパウロは書きました。それを受けて、この5章では「信仰によって救われることにより、人はどうなるのか」を説いています。神はアブラハムに約束されました「目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地をすべて、私は永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう」(創13:14−16)。その時、アブラハムには子がありませんでした。神はアブラハムに子を与えると約束されました。しかし子が生まれない中で、アブラハムも妻も年取り、今は老年期に入っています。パウロは書きます「そのころ彼はおよそ百歳になっていて、すでに自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。」(ロ−マ4:19)。しかし、百歳のアブラハムに子を与えるという神の約束はどう考えても無理なことでした。彼がその約束を信じることが出来なかったのは先週見たとおりです。彼は「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか」(創世記17:17)と笑ったのです。しかし神はそのアブラハムの不信仰を超えて、彼を祝福されます。百歳のアブラハムに子イサクが与えられたのです。その奇跡を見てアブラハムは「信じる者」に変えられ、やがて「国民の父」、「信仰の父」として尊敬されるようになります。
・パウロは、誰でもアブラハムと同じような体験をするのだとこのローマ5章で述べます「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった」(ローマ5:6)。パウロ自身、救いを信じていませんでした。そのパウロを信じる者に変えるために、神は御子イエスとの出会いを与えて下さったと彼は言います。パウロは教会の迫害者でした。クリスチャンたちを捕縛するためにダマスコに向かっていた時、彼に復活のキリストが現れ、彼を信仰者に変えたのです。信じることのできないアブラハムにイサクの誕生というしるしが与えられたように、信じることのできないパウロに復活のキリストというしるしが与えられました。だからパウロは言います「『それが彼の義と認められた』という言葉は、アブラハムのためだけに認められているのではなく、私たちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、私たちも義と認められます。イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちの義とされるために復活させられたのです。」(4:23−25)。この誰でも「信仰によって救われる」という教えが、私たちに希望を与えるのです。パウロのこの教えにより、救いの確信を得たのが、宗教改革者マルティン・ルターでした。
・1506年、司祭となったルターは、熱心に修道生活を送りましたが、報われませんでした。どれだけ熱心に修業に励み、熱心に祈りを捧げても、心の平安が得られないのです。当時の教会では、「人間は神の恵みによって清くなり、善行を積むことによって救われる」としていました。行為による救いです。しかしどれだけ修業しても平安が与えられない、ルターは絶望するしかありませんでした。ルターはその後、ヴィッテンベルク大学で聖書学の講座を受け持ち、詩編やローマ書を教えるようになります。その学びの中で彼が見出したものは、神は「人の正しさを裁く怒りの神」ではなく、「人の救いを熱望する愛の神」であるという真理でした。ルターはロ−マ書の学びを通して、「信仰によって人は義とされる」、つまり人が義とされるのはその人が正しいからではなく、ただ神の恵みであるという理解に達しました。そしてルターはようやく心の平安を得ることができました。その時、ローマ教会がサン・ピエトロ寺院の大改修のために、免罪符を発行して資金集めをしようとしていることを知ります。「免罪符を買えば天国に行ける」、そのようなものは聖書の教えではないとして、ルターはローマ教会に対する質問状をヴィッテンベルク教会の扉に張り付けます。そこから宗教改革が始まり、プロテスタント教会が生まれます。その日が今日10月31日です。奇しくも今日は宗教改革記念日なのです。
2.神との平和
・そして神から義とされた者は、神との平和を与えられます。パウロは書きます「このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ております」(5:1)。パウロは、イエス・キリストの執り成しによる神との平和を、自身の回心体験から得ています。先ほど述べましたように、パウロはキリストの教会を滅ぼそうとした迫害者でした。ガラテヤ書でパウロ自身が述べています。「あなたがたは、私がかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。私は徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました」(ガラテヤ1:13)。その自分でさえも救って下さった、この恵みを戴いた者はもう前のような人生を歩めません。だからパウロはいうのです「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします」(5:2-3)。
・人生における苦難は、しばしば不平や不満、人や世への恨みを生み、自暴自棄や絶望を生みます。「むしゃくしゃしていた。誰でもよかった」といって通りすがりの人を殺傷する事件が起きています。その一方でパウロは「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。私たちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(5:3−4)と述べています。何故一方では「苦難が不平を生み、不平は恨みを生み、恨みは絶望を生む」のに、パウロは「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」と言うことが出来たのでしょうか、それはパウロが「神との平和」をいただいているからです。「神に愛されている」と知るゆえに苦難に苛立つことがないのです。パウロはコリント人への手紙の中で言います「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」(�コリント7:10)。私たちが与えられる悲しみ、苦しみにどのように向き合うかによって、その悲しみが呪いにも祝福にもなることを、ぜひ覚えておいていただきたいと思います。
3.神を誇りとする信仰
・パウロは信仰生活の核心を「神との平和」の中に見出しました。それは彼が自ら血の汗を流して得た真理です。キリストを信じて平和を見出す前のパウロは、「神の怒り」の前に恐れおののいていました。熱心なパリサイ派であったパウロは律法を守ることによって救われようと努力していましたが、心に平和はありませんでした。彼はローマ7章で告白します「私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」(7:18-19)。パウロの救いを妨げているのは、彼の中にある罪です「内なる人としては神の律法を喜んでいますが、私の五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか」(7:22-24)。この罪にとらえられているという意識、その結果神の怒りにあることの恐れが、パウロを「律法を守ろうとしない」、罪人と思われたキリスト教徒への迫害に走らせます。
・しかし、復活のイエスとの出会いで、パウロの思いは一撃の下に葬り去られました。パウロは死を覚悟しました。ところがパウロを待っていたのは恐ろしい死の宣告ではなく、キリストの赦しでした。恐ろしい神との敵対は一瞬のうちに終結し、反逆者パウロに神との平和が与えられました。だから彼はローマ5章で次のように言うのです「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました」(5:6-8)。キリストは「不信心な」私、神への反逆者、「罪人の頭」であった、私のために死んでくださった。そのことを知った時、パウロの人生は根底から変わらざるを得なかったのです。
・パウロは続けます「それで今や、私たちはキリストの血により義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです」(5:9)。「キリストの血」、十字架上の贖いの死のことです。キリストが私のために死んでくださって自分の罪が赦された、その罪の許しを通して神と和解することが出来、今は「神の平和」という恵みの中にいますとパウロは信仰告白しているのです。だから彼は言います「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を誇りとしています。キリストを通して和解させていただいたからです。」(ロ−マ5:10−11)。パウロはアブラハムの信仰義認から語り始めました。信じることのできないアブラハムにイサクの誕生という恵みを与えて祝福されたその方が、同じく信じることのできなかった自分に復活のキリストの顕現という恵みを与えて祝福して下さった、その思いがこれらの言葉を生みだしているのです。
・今日の招詞に�コリント5:17-18を選びました。次のような言葉です「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通して私たちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務を私たちにお授けになりました」。
・私はこの10月3日の総会で按手礼の承認を受け、6日から13日まで辻谷さんとイスラエルを旅し、17日は按手礼式でした。この間はとても忙しかったのですが、按手礼に関係の二つの集まりの真ん中にイスラエル旅行があったことが、不思議な感じがします。聖地で按手礼を受ける心備えをしなさいという御心かなと思いました。それで、旅行中、ずっと行く先々で、按手礼のことを考えて祈っていました。結論はこうです。召命に従うのみです。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」、これまで50年間、信徒して生活してきました。しかし神は私を召し、牧師に召して下さった、そして今牧師としての按手をいただきました。それは「神は、キリストを通して私たちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務を私たちにお授けになった」からです。「和解のために奉仕する任を神から与えられた」、今回の按手礼はそのしるしであったと理解しています。私は召命に従い、神と主キリストと教会に仕え、委託された説教・牧会・礼典の業を行います。篠崎キリスト教会は今、新会堂建設に全力で向かっています。これは教会の新生です。「キリストに結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」。新会堂建設は私たちの意志を越えて、進んでいるようです。新しい会堂を神が望んでおられるならば、建設に向かって従うばかりです。按手礼式で川口先生が「篠崎教会に骨を埋める覚悟で」と言われたので、母教会の品川教会からお祝いに来られた人たちは、大層驚いたようですが、「神が私たちを救い、聖なる招きによって呼びだしてくださったのは、私たちの行いによるのではなく、ご自身の計画と恵みによるのです」(�テモテ1:9)。すべてを神のみ心にお委ねしたいと思います(水口仁平協力牧師)。