江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2010年10月24日説教(ローマ4:13-25、十字架と復活を信じる)

投稿日:2010年10月24日 更新日:

1.アブラハムは神の言葉を信じたのか

・ローマ書の学びの4回目で、今日の主題は「信仰とは何か」です。中心となる言葉は4章の終りにあります「私たちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、私たちも義と認められます。イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義とされるために復活させられたのです」(ローマ4:24-25)。「十字架を通して罪が赦され、復活を通して命が与えられる」という福音の原理は信じることが難しい教えです。少なくとも、理性で理解し、納得できることではありません。そのためパウロはアブラハムの出来事を引き合いに出しながら、信仰と救いの関係について語り始めます。それがローマ4章です。
・先週と同じく、北森嘉蔵「ローマ書講話」を手掛かりに読みますが、北森先生は4章18節の言葉に注目せよと言われます「彼は希望するすべもなかった時に、なおも望みを抱いて信じた」。この個所は原文に忠実に読めば「彼は望みに逆らって、望みを信じた」と訳せます。人間の希望は「望むことが出来る時に望む」希望です。何とかなる、何とかなりそうだという時に、人間は希望を持つことができます。しかしこの「望みに逆らう」とは「人間の思いではもう望めない、望みが断たれたと思える時になおも望む」ことであり、これが「信仰による望み」であり、アブラハムはこの望みを信じたゆえに「信仰の父」と呼ばれているとパウロは語ります。具体的にどのような出来事があったのでしょうか。アブラハムの生涯を創世記から見ながら、パウロの言葉を考えて行きます。
・アブラハムの物語は創世記12章から始まります。彼はメソポタミアに住んでいましたが、75歳の時に召され、故郷を捨てて旅立ち、約束の地カナンに導かれました。神はアブラハムに約束されます「見えるかぎりの土地をすべて、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする」(創世記13:15-16)。その時、アブラハムには子がいませんでしたが、この約束を信じます。しかし、子はなかなか与えられず、アブラハムと妻サラは次第に年を取っていきます。そのアブラハムに主が再び現れます「あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」(同15:1)。アブラハムは反論します「主よ。私に何を下さるというのですか。私には子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです」(同15:2)。妻は不妊で自分も年をとった、もう子は生まれない、財産を受け継ぐのは召使だと彼は思っています。しかし、主はそうではないと言われます「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ」(同15:4)。
・さらに数十年の時が流れました。アブラハムには依然、子が与えられません。ここに至って、信仰と現実の妥協が始まります。妻サラが一つの提案をしました。「主は私に子供を授けて下さいません。どうぞ、私の女奴隷のところに入って下さい。私は彼女によって、子供を与えられるかもしれません」(同16:2)。結婚して何十年にもなるのに妻は懐妊しません。彼女は子を生めない体なのかもしれない。アブラハムはサラの提案を受け入れ、召使のハガルを床に入れ、ハガルは身ごもり、イシマエルを生みます。子が与えられました。しかし、アブラハム一家には喜びはありません。この子は約束の子ではなかったのです。
・さらに時が流れ、アブラハムは100歳になっていました。主は再びアブラハムに現れます「私はあなたの妻サラを祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。私は彼女を祝福し、諸国民の母とする」(同17:16)。アブラハムはひれ伏して笑いました「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか」(同17:17)。「子を与える」との約束は果たされないままに二人は高齢になり、サラは月のものもなくなっていました。老齢になった妻が子を産むことができるはずがない。アブラハムは神の言葉を笑いました。「ひれ伏して笑う」、不信仰の笑いです。彼は信じることが出来なかったのです。二人とも高齢になり、妻は不妊で、今は月経さえなくなってしまった。信じることが出来なかったのは当然です。しかし主の使いは言います「主に不可能なことがあろうか」(18:14)。

2.アブラハムは神の言葉を信じなかったのに義とされた

・ここまでの所に対応するのが、ローマ4章19-21節です。パウロは書きます「そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです」。この記述を見ると、パウロでさえ、アブラハムの不信仰を批判的に書くことが出来なかったのかと思います。アブラハムは妻サラに子を与えるという約束を信じきることが出来ず、召使いハガルによって子をもうけています。更に、それでも子を与えると神が再確認された時、彼は言いました「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか」、アブラハムは神の約束を信じることが出来なかった、「彼は不信仰に陥って神の約束を疑った」のです。パウロはその事実に目をつぶっているのでしょうか。創世記をもう少し読んでみましょう。
・アブラハムの不信仰にかかわらず、神はサラの胎を開き、彼女は妊娠し、やがてイサクを生みます。90歳の女性が子を生んだのです。もっとも旧約の年齢の数え方は現代と異なりますので、仮に七掛けすればアブラハム70歳代、サラ60歳代くらいになるのでしょうか。いずれにせよ、人間の常識では考えることのできない程の高年齢出産です。サラは喜び、主に命じられた通り、イサク=笑いと名づけます。「主は私に笑いを与えて下さった」、やっと約束が果たされたのです。創世記はアブラハムとサラが、神の約束を信じ続けることが出来なかったことを隠しません。それにもかかわらず、神はアブラハムを祝福されました。アブラハムが「主に不可能なことはない」と信じるに到ったのは、約束の実現を目の前に見たからです。
・イサクが成長した時、神はアブラハムに「イサクを焼き尽くす献げ物として捧げなさい」と命じられます(創世記22:2)。イサクを犠牲として捧げよとの命令です。イサクは何十年間もの祈りの結果与えられた子です。イサクを通して子孫を星の数ほどに増やすと約束された子です。「その子を殺せ」と命じられる、「何故か」、アブラハムにはわかりません。しかし、彼は一言も反論せず、イサクを連れてモリヤの山に向かいます。途中でイサクは父に尋ねます「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか」。アブラハムの返事は「焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えて下さる」(同22:8)でした。今のアブラハムには迷いはありません。かつて望み得ない状況の中で、主の約束が果たされたことを見て、「主に不可能はない」とアブラハムは知りました。不可能を可能にされる方であれば、イサクを捧げよとの命令に意味があることを信じることが出来ます。この方がそうせよ言われるのであれば従っていこう、必要なものは主が備えて下さる、アブラハムはそう信じました。だから一言も反論せずに、イサクを捧げようとするのです。ここに「望みに逆らって、望みを信じた」アブラハムの信仰があります。
・アブラハムがモリヤの山に着き、イサクに手をかけて殺そうとした時、主が介入され、止められます。そしてイサクの代わりに一匹の羊が与えられ、アブラハムはその羊を焼き尽くす献げ物としてささげます。主が備えて下さったのです。ここにおいてパウロの主張は納得性を持ってきます「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前で私たちの父となったのです」(4:17)。主は「女性としては死んでいたサラの胎を開き、命を与えて下さった」、そのことをアブラハムは見た、だから彼は「主に不可能はない」ことを信じ、イサクを捧げることが出来た。アブラハムは自分の力量や努力で正しい者となったのではありません。彼は約束を信じきることが出来なかった、しかしその彼を信じる者にするために神はアブラハムに祝福を与えて下さった。そうであれば、私たちもまた「十字架と復活を通して救う」という神の約束を信じることが出来るのではないか、信仰に死んだアブラハムを生き返らせて下さった神は、死んだイエスをも生き返らせて下さった、そして死すべきあなたにも永遠の命を与えることが出来るのだとパウロは言うのです。

3.不信仰者を信仰者に変えて下さる神を信ず

・今日の招詞にローマ書4:4-5を選びました。次のような言葉です「ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます」。信仰とは、自分の行いを対価として神に提供するようなものではないとパウロは言います。もし私たちが何かを提供して、その見返りに救いがあるとすれば、それはもう信仰ではなく取引です。パウロは言います「もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません」(4:2)、彼、アブラハムが正しいゆえに選ばれたとしたら彼は誇ってもよいかもしれませんが、先に見ましたように、彼は信じきることが出来なかった、その彼に信じることが出来るように主は不思議な御業を為された。自分の力、力量で信じることのできない者を信じる者に変えて下さる、その恵みをただ受け取るのが信仰ではないかとパウロは言うのです。
・「割礼を受けた、律法を守った、さあ救って下さい」というのは要求であっても、信仰ではありません。割礼を受ければ救われる、律法を守れば救われる、救いが条件化された時、信仰は信仰でないものに変質してしまうとパウロは言うのです。これはローマ教会のユダヤ人信徒(異邦人信徒に対して割礼を受けなければ救われないと迫っていた)に対する言葉ですが、今日においても私たちに迫ります。何故なら私たちのある者は「洗礼(バプテスマ)を受けていない者は天国に行けない」と言っているからです。救いが条件化された時に、聖書の信仰ではなくなることを私たちは銘記する必要があります。聖書の信仰、福音とは無条件の救いなのです(3:23-24)。
・人間の側には何も救われる要素はない、信じよと言っても信じることが出来ない。その人間を救って下さるという神の行為に対して、私たちは「アーメン、感謝します」と言って受けるしかないのです。しかし注意すべき点があります。アブラハムもパウロも自分の罪を認め、神を求めたゆえに義とされた、だから私たちも自分の罪を認めた時に救いが来るという事実です。逆にいえば、「罪を認めない限り救いは来ない」。だからパウロは「罪と何か」をこのローマ書で繰り返し書くのです。山形謙二というクリスチャン医師はその著「いのちをみつめて」(キリスト新聞社)の中でこのように言います「聖書の述べる偉大さは、信仰の偉大さです。彼らの偉大さは犯した罪を大胆に告白したことでした。そして罪を告白することにより神の赦しを得て、彼らの人生は全く違った人生に生まれ変わっていったのでした。聖書の世界では罪を認めることは決して恥ずべきことではありません。罪を罪として認めないことこそ、恥ずかしいことなのです」。日本は「罪の文化」ではなく、「恥の文化」と言われています。そこでは自分の罪を告白することは恥ずかしいこととみなされ、自分を卑下する行為とされています。だから日本では伝道が難しいと言われています。その中で私たちは自分の罪を認め、告白し、悔い改めて行く。そして恵みの応答として洗礼(バプテスマ)を受ける。その時、洗礼(バプテスマ)が神からの祝福を受ける行為になっていくのです。

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