江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2010年10月10日説教(ローマ2:1-16、神の裁きの前に)

投稿日:2010年10月10日 更新日:

1.罪とは何か

・先週から「ローマの信徒への手紙」を学び始めています。パウロはいつの日か、世界の中心であるローマに行って伝道したいと願っていました。しかし、今はエルサレムに行くためにローマに向かうことができません。だから自分を紹介するために手紙を書いています。しかし、この手紙は単なる自己紹介の手紙ではありません。パウロはエルサレムに向かおうとしていますが、それは亀裂の見え始めたエルサレム教会と異邦人教会の和解のために、異邦人教会からの献金を持って行くためです。エルサレムから始まった福音は、今ではギリシャ・ローマ世界にまで広まり、新しい教え(キリスト教)はその土台であるユダヤ教から独立する動きを示していました。しかし、ユダヤ教の強い影響下にあるエルサレム教会は異邦人教会の動きに反発し、そのことが更なる福音宣教を難しくし始めていました。現に、ローマの教会でも、ユダヤ人信徒と異邦人信徒の間に対立が起きています。同じ教えを信じる信仰者の間に、なぜ対立や争いが生じるのか、パウロはその根本原因に人間の罪を見ます。そのため最初の挨拶の言葉を終えるや、パウロは「罪とは何か」を説き始めます。それが1章18節以下の言葉です。
・異邦人の最大の罪は、「神を知りながら、神を神として認めない」ことです。彼は言います「神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです」(1:19)。外にあっては天地自然を通して、内にあっては人間の中にある良心を通して、神は自己を示されたに、人はそれを認めようとしない。だから「彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神として崇めることも感謝することもせず、かえって、空しい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです」(1:20-21)。人は神ではなく、自分が造った偶像を拝んでいるのです。「自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです」(1:22-23)。
・当時のギリシャ・ローマの人々は八百万の神々を拝んでいました。パウロはそれをいやというほど見て来ました。そして彼は指摘します「偶像を拝むとは、単に鳥や獣の像を造って拝することだけではなく、実は自分を拝む」ことなのだと。「あなたの富のあるところに、あなたの心もある」(マタイ6:21)とイエスが言われたように、偶像とは人間の欲望の具体化であり、神は、人を欲望のままに放置されることによって、人を裁かれるのだと。欲望の放置はまず性的な放縦として現れます。パウロは言います「神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています」(1:26-27)。「男どうしで恥ずべきことを行う」、当時のギリシャ世界においては同性愛が盛んであり、パウロはこれを創造の秩序を犯す行為だと考えています。現在のアメリカにおいてさえ、同性愛を認めるか、妊娠中絶をどう考えるかがが国論を二分する議論になっていることを考えますと、性の問題は人間には解決できない罪、原罪なのです。
・偶像礼拝はまた、対人関係に関する悪としても現れます。1章29節以下に悪のリストが列挙されています。そこにあるのは他者に対する不義や貪り、妬みや争い、無慈悲、傲慢、一言で言えば「自分さえ良ければ良い」というエゴイズムが人間世界を支配しており、パウロはこのエゴイズムも神を神としない偶像礼拝から生じるとみています。このエゴイズムを現代の人々も克服することはできません。私たちは、他人が成功すれば妬み、他人が失敗すれば喜ぶ存在であり、見返りなしには人を愛せない存在です。このエゴイズムの問題もまた原罪なのです。
・パウロは異邦人社会における人間の醜さを見て、そこに神に背いた人間の罪を認めました。神を認めず、したいことをすることを人間は「自由」と呼び、それを追及していきますが、その結果現れるものは、お互いを傷つける悪であり、それらの悪が人を悲惨に陥れて行きます。神という絶対者のいない所では、自分が神となり、自分の欲望が露わに表に出る、それが性的放縦やエゴイズムとなるのです。私たちに救い=平安がないのは、「神を神としない」欲望のままに生きており、お互いの欲望と欲望がぶつかり合って、そこに混乱(カオス)が生じているからです。

2.ユダヤ人の罪

・「神を神と認めないところに異邦人の罪があった」とパウロは指摘しました。では「神を神として敬い、神の戒め(律法)を大事にする」ユダヤ人はどうか、彼らは罪から解放されているのか、「そうではない」とパウロは一転してユダヤ人の罪を指摘し始めます。それが2章1節からの箇所です。ユダヤ人は神を知らない異邦人を罪人として裁きながら、実際には異邦人と同じことを行っていると彼は言います「人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです」(2:1-2)。「あなた」、ローマにいるユダヤ人キリスト者です。あなたたちは「自分たちは神の特別な恵みの中にいるのだから、神はいつも私たちを赦して下さる」と考えている、しかし、神は罪を罪として放置される方ではない、悔い改めない者にはユダヤ人であっても赦しはない事を知るべきだとパウロは指摘します「あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか・・・あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています」(2:3-5)。
・あなたたちは自分たちには律法があるというかもしれない。しかし、律法を知りながら罪を犯しているとしたら、あなたたちは律法によって裁かれるのだとパウロは言います「律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです」(2:12-13)。パウロは続けます。「律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり、弁明し合って、同じことを示しています」(2:14-15)。
・ユダヤ人キリスト者たちは、異邦人改宗者に割礼を受けることを求め、律法を守らなければ救われないと主張していました。それは自分たちこそ正しい者であり、異邦人のような罪人ではないとの驕りから生じるのだとパウロは言います。自分たちこそ選ばれた民だとの意識は、異邦人の間で暮らすギリシャ・ローマ世界のユダヤ人には特に強くありました。パウロはそのユダヤ人信徒に対して、選民として特権意識を持ち、異邦人を見下して傲慢となっているあなたたちこそ、神の目から見れば罪人なのだ、その証拠に、あなた方はローマ教会の中で異邦人キリスト者と対立し、そのことによって「神の御名を汚しているではないか」(2:24)とさえ言うのです。

3.罪からの救い

・パウロは異邦人の罪を「偶像礼拝」という一点に絞って追及し、いまはまたユダヤ人の罪を「他者を裁く」という一点において見ます。今日の招詞にローマ3:23-24を選びました。今日の議論の延長線上にあります言葉です。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」。
・パウロはユダヤ人の罪を2章17節以降で更に追求しています。ユダヤ人たちは「自分たちこそ神の民だ。そのしるしとして割礼を受け、律法が与えられた」と誇っていました。しかしパウロは本当にそうかと言います「あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています」(2:17)。しかし、「それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。盗むなと説きながら、盗むのですか。姦淫するなと言いながら、姦淫を行うのですか」(2:21-22)。あなたも異邦人と同じ行為をしているではないかと彼は言うのです。
・その後で、パウロはユダヤ人に向かって、「割礼が救いの要件ではない」と言います。「あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです」。だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか」(2:25)。この割礼を「洗礼」と読み替え、律法を「御言葉」と読み替えた時、パウロの言葉は、私たちへの言葉となります「あなたが受けた洗礼も、御言葉を守ればこそ意味があり、御言葉を破れば、それは洗礼を受けていないのと同じです。だから、洗礼を受けていない者が、御言葉の要求を実行すれば、洗礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか」。「割礼が救いの要件ではない」のであれば、「洗礼さえ受ければ救われる」という誤った信仰を私たちは捨てる必要があります。
・パウロは厳しい言葉をローマの信徒に送ります。読んだ人は不愉快になったでしょう。しかし、その厳しさゆえに、このローマ書はたびたび歴史を塗り替える働きをしてきたのです。何故ならば、救いとは先ず、「罪を知る」ことから始まるからです。近代を切り開いた宗教改革は、ルターがこのローマ書の研究を通して、罪の問題に目を開かれ、教会改革を行ったことから始まりました。「罪を知る」ことが救いの第一歩であるからこそ、パウロはローマ教会内のユダヤ人信徒、異邦人信徒に厳しい言葉を投げかけるのです。
・これは現代の日本人の救いを考える上でも大事なことです。仏教的考え方によって養われてきた日本人は、「罪」や「神の怒り」について理解できない所があります。例えば広島の原爆慰霊碑にはこのように書かれています「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」。ここにおいては戦争が過ち=間違いであった、起こるはずのないものが起こったとの認識があります。しかし人間は有史以来戦争を繰り返し、今も戦火が交えられている現実を見る時、それは単なる過ちではなく、人間の本質に関わる問題、すなわち罪の問題であることが分かります。戦争を繰り返さないためには、過去を忘れることではなく、過去を見つめ、争いが人間の本質的な罪から来ることを見つめることが必要なのです。この罪の問題を認めない限り救いはない、だから私たちは罪の問題を徹底的に追及するローマ書を読む必要があるのではないでしょうか。
・しかし、人は批判を通しては悔い改めることができません。いくら罪を指摘されても反発するだけです。パウロは3年後にやっとローマに行き、そこでローマ教会の人々と会いますが、使徒言行録に依りますと、「ある者はパウロの言うことを受け入れたが、他の者は信じようとはしなかった。彼らが互いに意見が一致しないまま、立ち去ろうとした」(使徒28:24-25)とあります。パウロの説得は失敗したのです。しかしやがてローマ教会の人々はパウロの福音を受け入れます。手紙ではわからなかったパウロの生きざま、イエス・キリストの福音に生かされた生きかたを目の当たりに見たからです。人を悔い改めに導くものは、人格を通して示された愛です。自分がキリストの愛によって赦されたと知った時、人は自分の罪を知り、キリストの前に跪くのです。その時、今日の招詞の言葉が響いてきます「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(3:23-24)。

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