江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2010年1月31日説教(ルカ4:21-30、イエスの招きへの拒否)

投稿日:2010年1月31日 更新日:

1.福音を受け入れない人々

先週、私たちはルカ福音書4章の初めの部分、イエスが故郷ナザレに戻られ、会堂で説教されましたが、村人たちはイエスを受け入れなかったという箇所を水口先生からメッセージをいただきました。今日はその箇所の続き、4章21節から御言葉を聞きますが、確認のため、先週の箇所をもう一度思い起こしてみます。このような物語でした。イエスはガリラヤで宣教を始められ、その言葉と業は多くの人を惹きつけ、「評判が周りの地方一帯に広がりました」(4:14)。そのイエスが故郷ナザレにお帰りになった、村人は郷里出身の評判の預言者が村に来たとして、安息日に会堂に集まって来ました。その会堂で、イエスはイザヤ書61章を朗読されました。
・イエスはイザヤ書に託して、これからなされようとしておられることを語られました。イエスはご自分が神の子としての召命を受けておられることを自覚されていました。だから言われます「主の霊が私の上におられる・・・主が私に油を注がれた」。それは「貧しい人々に福音を伝える」ためであり、「捕らわれている人々を解放する」ためであり、「目の見えない人々の目を開ける」ためであり、「抑圧の中にある人々に自由を与える」ためだと言われました。「主の恵みの年が来たことを告げるために、主は私を遣わされた」とイエスは宣言されたのです。
・ルカは記します「会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた」(4:20)。人々は固唾を呑んでイエスの次の行為を待ちました。人々はイエスがガリラヤの他の町ですばらしい奇跡を行われたことを知っていますから、故郷ナザレではもっとすばらしい奇跡を行われるだろうと期待したのです。その人々に対してイエスは言われました「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(4:21)。人々はがっかりして、つぶやき始めます「この人はヨセフの子ではないか」(4:22)。大工のヨセフの子、自分たちと同じく貧しく、地位も学問もないヨセフの子が、なぜ自分たちを解放するという約束ができるのか。彼にはそのために必要な財力も権力もないではないかとつぶやき始めたのです。人々がイエスに期待したのは、言葉ではなくしるしでした。石をパンに変えるとか、病人を癒すとかの見えるしるしを人々は求めていたのです。それが与えられなかった故に、彼らはつぶやき始めました。
・今日でも人々が宗教に求めるものはしるし、見返りです。自分のために神を信じる、「家族が安全でありますように」「仕事がうまくいきますように」「子供たちが健康で育ちますように」と。だから神が恵んでくれている間はこれを信じますが、うまくいかなければこれを捨てます。いつの時代でもそうです「神に仕えることはむなしい。たとえ、その戒めを守っても・・・何の益があろうか」(マラキ3:14)、昔から人々はこうつぶやいてきました。現代の人々もそうです。教会がパンも癒しも与えてくれないことを知った時、多くの人々は教会を去ります。ナザレの人々がイエスに求めていたのも神の言葉ではなく、パンといやしでした。だからそれを与えないイエスに人々は失望したのです。「評判の預言者というので来てみたのに、何のしるしも奇跡も見せないで、“どう生きるべきか”と偉そうなことを言っている。この男はヨセフの息子ではないか。何故偉そうに私たちを教えようとするのか」。このつぶやきを聞いてイエスは言われました「預言者は、自分の郷里では歓迎されない」(4:24)。

2.求めない者には与えられない

・つぶやく人々にイエスは二つの出来事を話されます。一人はエリヤ、もう一人はエリシャの出来事です。共にイエスの時代から900年以上も前の預言者でした。エリヤの時代、人々はご利益を与えてくれる偶像信仰に走り、造り主を忘れました。そのため神はエリヤを遣わして人々を戒められましたが、人々は聞かず、エリヤは旱魃を預言し、3年も雨が降らない大飢饉になります。人々は災いを預言したエリヤを呪い、エリヤは逃れて異邦人の地シドンに行き、そこで一人のやもめに仕えます(列王記上17:1-24)。多くの人が飢えている時に、主の言葉を信じた異邦人のやもめだけが恵みを受けたとイエスは語られました。
・27節に出てくるナアマンはシリヤ軍の総司令官でしたが、らい病を患っていました。ナアマンは救いを求め、預言者エリシャを通してらい病を清められました(列王記下5:1-19)。当時多くの人がらい病で苦しんでいましたが、神を求めた異邦人は癒され、神の言葉を聞こうとしなかったユダヤ人は癒されなかったとイエスは語られました。この二つの出来事の引用は、選びの信仰の上に安んじている聴衆にとっては一つのとげでした。イスラエル人は自分たちは神に選ばれた民であり、終わりの日に救われるのは自分たちで、異邦人は滅ぼされると考えていました。しかしイエスは、神の恵みを受けるとは、神を求めるか否かにかかっており、イスラエル人であっても求めなければ救いはなく、その時、救いは求める異邦人に移されることを述べられました。
・選民としての誇りを傷つけられた聴衆は怒りました。「この男はエリヤやエリシャと自分を同列に置くどころか自分を神の子と宣言している。ヨセフの子が神の子であるはずはないではないか、この男は神を冒涜している」、聴衆は怒り、イエスを崖から突き落として殺そうとしましたが、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られたとルカは記します(4:28-30)。
・何が村人をこんなに怒らせたのでしょうか。それはイエスが、自分たちは選民であるから救われるべきだとの民衆の幻想を吹き払い、神を求めない者には救いは与えられないという真実をお示しになられたからです。神の約束とは契約でであり、契約は守らない者には効果は及びません。「信じなさい、そうすれば救われる」、これは真理です。逆に言えば、「信じない者は救われない」ことを意味します。また、信じると言いながらそれに相応しい生き方をしなければ救いはありません。それが契約だからです。神の民として生きるとは、パンや癒しを求めて生きることではありません。パンは食べてもすぐにお腹が空きます。だから命のパン、神の言葉を求めなさいと言われます。病が癒されてもやがて死にます。だから死なないもの、本当の命を求めなさいと言われます。現在の支配者ローマが追放されても、新しい支配者が来るだけです。だから地上の国ではなく神の国を求めなさいと言われます。このように「神の言葉を聞け」と言われているのに、「私は聞かない。しるしを見せれば聞こう」という態度をとった時、そこに救いのないことは明らかでしょう。

3.不信仰者の信仰

・今日の招詞にマルコ9:23−24を選びました。次のような言葉です「イエスは言われた。『できればと言うか。信じる者には何でもできる』。その子の父親はすぐに叫んだ。『信じます。信仰のない私をお助けください』」。イエスのもとに、てんかんの子を持つ父親が来て、息子の病を癒してほしいと頼みました。その時、息子は地面に倒れ、転びまわって泡を吹いていました。イエスは父親に「いつからこのようになったのか」とおたずねになります。父親は答えます「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、私どもを憐れんでお助けください」。それに対してイエスは言われます「できればと言うか。信じる者には何でもできる」。父親は叫びます「信じます。信仰のない私をお助けください」。この切実な叫びが応えられ、てんかんの子は癒されました。その癒しにより、父親は信じる者になりました。
・「いわしの頭も信心から」と世の人は言います。しかし、信仰とは、「いわしの頭」を無理矢理に信じることではありません。そうではなく、信じることの出来ない自分がいることを認め、信仰を与えて下さいと祈り続けることです。その祈りは答えられ、不信仰な父親に信仰が与えられるという奇跡が起こります。奇跡とはてんかんの病がいやされることではなく、パンが石に変わることでもありません。それは魔術であり、奇跡ではありません。奇跡とは不信仰者に信仰が与えられ、永遠の命を生きるようになることです。そのためには自分が不信仰者であること、信じられない存在であることを認めることが必要です。
・クリスチャンの精神科医・赤星進先生は多くの心の病を持つクリスチャンを診察し、その分析から、信仰には“自我の業としての信仰”と“神の業としての信仰”の二つがあるのではとの結論に達したと言われます(「心の病気と福音」)。自我の業としての信仰とは、自分のために神をあがめていく信仰です。熱心に聖書を読んでいる、教会の礼拝も欠かさず参加している、人に非難されるようなことはしていない、だから救って下さいという信仰です。つまり救われるために信じる、ナザレの人々の信仰はそうでした。彼らは現在の貧しい生活が豊かになることを、異邦人ローマの圧制から自分たちの国が解放されることを願っていました。その期待を彼らはイエスにかけたのです。しかしイエスはそのようなものを与えようとはされなかった、だから彼らはイエスに失望したのです。私たちが最初信仰に導かれる時も、この自我のわざとしての信仰を通してです。この病を癒してほしい、この苦しみを取り除いてほしいとして、私たちは教会の門をたたき、聖書を読み、バプテスマを受けます。しかし、この信仰に留まっている時は、やがて信仰を失います。なぜならば、自我の業としての信仰は、要求が受け入れられない時には、崩れていくからです。
・もう一つの信仰のあり方、神の業としての信仰とは、赤子が母親に対してどこまでも信頼するのに似た、神に対する信頼です。生まれたばかりの赤子は一人では生きていくことができません。ただ一方的に母親の愛を受け、その中で安心して生きていきます。イエスが示されたものはこの信仰、神への基本的信頼の信仰です。イエスは言われました「あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである」(ルカ12:29-30)。天の父は生きるために必要なものは与えてくださるから、だから生活の糧を得る心配や苦労から解放されなさい。あなた方は「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる」(12:31)。ルターは言います「信仰は人間的な幻想や夢幻ではない。信仰は私たちの中に置ける神の業であり、私たちを変えて新しく生まれさせる」(マルティン・ルター「ロマ書への助言」から)。
・私たちは、イエスの言葉を受け入れなかったナザレの人たちと同じなのです。多くのクリスチャンたちが教会につまずき、牧師の言葉に傷つけられて、教会から離れていきます。この人々は教会の中に神ではなく、人を見たのです。ナザレの人々がイエスの中に、「神の子」ではなく、「ヨセフの子」を見たのと同じです。イスラエル人として生まれただけでは救われないように、水のバプテスマを受けてクリスチャンになっただけではだめなのです。聖霊のバプテスマを受けて、私たちの自我がキリストの十字架と共に葬られ、新しく生まれ変わる経験をしなければいけないのです。私たちは自分が不信仰であること、自分にある信仰は、「自我の業としての信仰」にすぎないことをまず知らなければなりません。そして神の前にひざまずいて、「信じます。不信仰な私をお助けください」と言わなければいけないのです。救いはそこから始まります。
・ナザレの聴衆は私たちなのです。そのことを知った時、「今日救いがこの家を訪れた」(19:9)という声が聞こえてきます。私たちは生活上のいろいろな問題を抱えています。その問題を不幸なことと受け止める時、その不幸は私たちの心を崩していきます。しかし、問題を与えられたことを神の御旨と受け止めた時、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(2コリント12:9)というキリストの言葉が響いてきます。聖書を自分に関係のないものとして読む時、その言葉は私たちを通り過ぎます。聖書を自分への語りかけとして読む時、その言葉は私たちを生まれ変わらせる力を持ちます。私たちは真実が見えないのだから、イエスによって目を開けてもらう必要があるのです。そしてイエスは「あなたがたの目を開けよう」と2000年前にナザレの会堂で約束され、その約束は今日も続いているのです。教会はその約束を聞き続ける場です。だから教会につながり続けることが必要なのです。

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