江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2009年8月30日説教(マルコ7:1-23、本当に人を汚すものは何か)

投稿日:2009年8月30日 更新日:

1.形式的偽善を告発される主

・ヨハネ福音書から5回にわたり「パンの奇跡」の記事を読んできましたが、今日から再びマルコ福音書に戻ります。マルコ7章の記事は「昔の人の言い伝え」と題されていますが、内容から考えると「本当に人を汚すものは何か」が主題になると思いますので、今日はそれに集中して考えてみたいと思います。本日の箇所に登場するファリサイ派の人々と律法学者たちは、エルサレムから来たと7:1にあります。彼らは、首都エルサレムからガリラヤまで、イエスのことを監視するためにやって来たのです。これまでイエスの批判に対して防戦一方だったファリサイ人たちが今、イエスの落ち度を見つけてイエスを抹殺しようと動き始めています。「エルサレムから」という言葉によってそのことが暗示されているのです。
・エルサレムから来たファリサイ派の人たちはたちまちイエスの弟子たちが、手を洗わずに食事するのを見咎めました。彼らは「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」(7:5)とイエスを問い詰めます。イエスの弟子たちが食事の前に手を洗っていない、ということを彼らは問題にしたのです。おそらくイエスご自身も食事の前に手を洗っていなかったと思われます。ファリサイ人らは遠まわしにイエスご自身を非難しているのです。
・当時のユダヤたちは皆、言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってから出ないと食事をしませんでした。また市場から帰った後など、沐浴して身を清めてでなければ食事をしません。市場で不浄な人やものに触れたかもしれないからです。ユダヤ人の律法は不浄なものに触れることを禁じ、一定の食物については汚れているから食べるなと命じています。ファリサイ人らはそれらの規定を厳格に守り、守らない人々を不信仰=罪人と批判していました。従って食事の前に手を洗うことは、単なる衛生上の問題ではなく、宗教的な儀式であり、イエスと弟子たちはその宗教的な戒めを破ったとして非難されているのです。
・イエスも弟子たちも食物や清浄に関する規定は十分に承知していました。またファリサイ人の前で手を洗わないで食事をすれば非難されることはわかっていました。わかった上であえて手を洗わないで食事をされたのです。それは彼らの偽善を暴くためでした。イエスはファリサイ人らの批判に応えて言われます「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている『この民は口先では私を敬うが、その心は私から遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしく私をあがめている』。あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」。当時は「食事の前には手を洗いなさい」というだけの掟ではなくて、どういう順序で、どうやって洗うかまで細かく規定されていたようです。ファリサイ派の人々はそういう口伝えの戒めをも律法の一部として守るように人々に強要していたのです。つまり、「衛生に気をつけて暮らしなさい」と言う神の教えがいつの間にか、「食前に手を洗わないものは罪人だ」と言う人間の戒律になっていたのです。
・「ファリサイ」という言葉は「分離する」と言う言葉から来ています。彼らは「律法を知らない、汚れた民衆から分離した者」、あるいは「罪や汚れから分離した者」と自分たちを考えていたようです。当時のファリサイ人や律法学者たちは意地の悪い風紀取締官、歩く律法のようになっていて、少しでも律法を破るものがいればそれを非難し、自分たちは律法や儀式を厳格に守ることで神に奉仕していると信じ込んでいました。だからイエスは別の所でこのように彼らを批判されています「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない」(マタイ23:13)。

2.人の中から出るものが人を汚す

・イエスは群集を呼び寄せて言われます「皆、私の言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」(7:14-15)。この話の意味が弟子たちには理解できません。そのためイエスは弟子たちに言葉の解説をされます。「すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。人から出て来るものこそ、人を汚す」(7:18-19)。
・「外から体に入るものが人を汚す」と当時のユダヤ人たちは考えていました。私たちはどうでしょうか。私たちは食べると宗教的に汚れてしまうような食物があるとは思っていないし、罪を犯している人と交わりを持ったら自分が汚れるとも思っていません。それではこのイエスの言葉は、ユダヤ人には関係しても、私たちとは無縁の出来事なのでしょうか。違います。「人の中から出て来るもの」、それは言葉です。そして言葉の元になっている思いです。言葉と思い、それが人を汚す。汚れや罪は、元々私たちの内側にあると言われているのです。その内側にある汚れ、罪が、思いとなり言葉となり行動となって外に現れてくる、そのようにして私たちは汚れた者、罪ある者となるのだとイエスは言っておられるのです。
・ユダヤ人と同様、私たちはそのことを認めようとしません。自分の汚れや罪、醜さが自分自身の内側から生じていることを認めないで、それを外側のせいにします。社会が悪い、景気が悪い、境遇が悪い、だから自分は過ちを犯したとある人は弁解します。他の人は、あの人が悪い、この人が間違っていたと人のせいにします。つまり汚れは自分の外にある、外にある汚れが自分にふりかかってくる、自分は被害者だと思ってしまい、実は汚れは自分自身の中にあるのだということがわからないのです。
・「外から入ってくるものは人を汚さない」、何故ならば「それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される」からです。ここで食物のことが言われています。食物は口から入り、消化器官を通ってやがて排出されていきます。その間に消化がなされ、栄養分が体に吸収されます。食物、つまり外から入ってくるものは、体を通ってまた外に出ていく。それは私たちの中を通過していくだけで、私たちの人間としての本質にかかわるものではない、ということです。食物は命を維持するために欠かすことのできないものですが、人間の本質、神が人間を何のためにお造りになったか、ということにおいては、二次的なものなのです。
・それでは、人間の本質、神がこのためにこそ人間をお造りになったというものは何か。「人間の心から、悪い思いが出て来る」という言葉がそれを示しています。「心」こそ、人間の本質であり、神が人間をお造りになったのは、この「心」を持ったものをお造りになるためだったのです。人間の汚れ、罪、それは体ではなくて心に宿るということです。そういう意味で心こそ人間の本質なのです。そして汚れ、罪が心に宿るということは、私たちの外側の問題ではなく、内側の問題だということです。私たちの汚れや罪は、外から来て体につくのではなく、私たちの内側に、心の中にそれは生れ、それが外に現れてくるのです。
・心の中の汚れ、罪がどのように外に現れ出てくるか。それをイエスは順を追って語っておられます。「中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など。これらの悪はみな口から出てきて人を汚すのである」(7:20-23)。心の中に湧き上がる汚れ、罪は、口から、言葉となってほとばしり出るのです。私たちは言葉で、罪を犯し、汚れた者となるのです。私たちを本当に汚すものは口に入る食物ではなく、心で生れ、口から出て来る言葉なのです。そのことにこそ気をつけなければならないのです。

3.言葉と心を制御できない人間

・今日の招詞にヤコブ3:8-10を選びました。次のような言葉です。「しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。私たちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。私の兄弟たち、このようなことがあってはなりません」。
・私たちは「汚れる」ことを極度に恐れるユダヤ人をおかしいと笑います。でも、本当は私たちも「汚れる」ことを恐れて暮らしています。学校でも職場でも家庭でも、最大の問題は人間関係ですが、私たちは人の言葉に傷つけられた経験があるから、今度は傷つけられまいと防御して暮らしています。人の口から出るもの、言葉が人を傷つけるのは、言葉が心にあるものを反映しているからです。「心にもないことを言う」という言葉がありますが、それは真実ではありません。人は心にあふれてくることを語るのです。そして、人の心の中にあるのは悪い思いです。私たちが誰かを妬ましく思うとき、その思いは言葉となって相手を攻撃します。私たちが誰かを嫌いだと思うとき、その思いが言葉となって相手を傷つけます。ヤコブはそれを次のように表現します「舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火です。舌は不義の世界です。私たちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます」(ヤコブ3:5-7)。私たちは、この言葉が真実であることを、毎日の生活の中で実感しています。そして私たちはこの「言葉、舌」を制御できないのです。
・使徒言行録は次のような出来事を伝えています「ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは彼を非難して、『あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした』と言った」(使徒11:2-3)。ペテロが異邦人コルネリアに洗礼を授けるために彼の家に行き、共に食事したことが責められています。ペテロはユダヤ教徒からではなく、キリスト教会の人から責められているのです。「異邦人が回心した」ことを喜ぶよりも、「異邦人と食事をした」ことが責められています。教会の中においても、自分を正しいと思う人は、必ずそうでない人々を見出し、攻撃し、そのことによって自分の正しさを根拠付けようとします。教会の中にも言葉による裁きがあることを私たちは見つめるべきです。
・日本の教会では「禁酒禁煙」の伝統があります。神から与えられた体を大事にするのは美しい信仰の行為です。しかしお酒を飲まないクリスチャンは往々にしてお酒を飲む信徒を批判します。「それでもあなたはクリスチャンですか」と彼が問う時、信仰の美しい行為がサタンの言葉になっていくのです。ヤコブが言うように「同じ口から賛美と呪いが出て来る」のです。ファイリサイ派の人たちは「私たちは宗教的な清めのためにこんなに努力しているのにあなたたちは手も洗わない」として、イエスと弟子たちを非難しました。「私はお酒を我慢しているのに何故あなたは飲むのか」、「私はこんなに献金しているのに何故あなたは十分の一を捧げないのか」、「私は主日礼拝をいつも守っているのに、何故あなたは礼拝に出ないのか」、そのような批判を私たちが心の中で思う、あるいは思わず口にする、その時、私たちもファイリサイ派になっています。
・イエスは外からの汚れを心配するユダヤ人に言われました「人の中から出て来るものが人を汚す」。内側の汚れは水でいくら洗っても、清くはなりません。「これは汚れているから食べない」と努力しても、汚れを気にして、家に清めの水がめを置いても問題は解決しません。イエスの弟子たちは、旧約の食物規定を捨てました。異邦人を教会に迎えるためには、ユダヤ人の慣習を押し付けてはいけないと思ったからです。こうして、新しい交わりが生まれました。私たちも思い切って捨てる、これまでと変わる必要があります。人間関係を良くしようといくら努力しても、人間関係は改善しません。何故ならば、汚れは私たちの外にあるのではなく、私たちの心の中にあるからです。私たちの心が変えられること、復活のイエスとの出会いを通して新しく生まれる、そこにしか救いはないのです。今日はそのことを覚えたいと思います。

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