1.イエスを食べる
・8月に入って私たちは「命のパン」の記事をヨハネ6章から読んでいます。イエスは五つのパンで五千人を養われました。飢餓に直面していた群集は奇跡に感動し、イエスを追ってカペナウムに来ます。その人々にイエスは「命のパンを求めなさい」と話されて、そこから長いパンの説話が始まります。今日はその説話のハイライト、「命のパン」とは実はイエスご自身のことであり、「イエスの肉を食べ、その血を飲む」ことによって、私たちは生きる者になると語られます。「イエスを食べる」、それが今日の主題です。
・イエスは言われました「私は、天から降って来た、生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。私が与えるパンとは、世を生かすための私の肉のことである」(6:51)。「私の肉を食べるならばその人は生きる」、言葉を文字通りにとらえれば、グロテスクなおぞましいことです。だから人々は反発します「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」(6:52)。イエスは「私が自分の肉を裂く=十字架で死ぬ、そのことによってあなたたちは生きるのだ」と言われていますが、ユダヤ人は理解しません。初代教会はイエスの死を記念して聖餐式を持ちました。それは、イエスが十字架で裂かれた肉を記念してパンを食べ、イエスの流された血を覚えてぶどう酒を飲む行為でした。その聖餐式が外部からは、「彼らは人間の血を飲み、肉を食べている」との誤解を招いていたようです。そのことの反映がこのユダヤ人の反発の中にあります。
・イエスは言葉を継がれます「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」(6:53)。ここでは「肉」に加えて、「血」と言う言葉が出てきます。聖餐式がイエスの十字架を記念しているのであれば、当然そこに血が出てきます。しかしこの「血を飲め」と言う言葉は非常な嫌悪感をユダヤ人に与えました。彼らは言います「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」(6:60)。血はユダヤ人にとって特別な意味を持っていました。律法の書レビ記は記します「私はイスラエルの人々に言う。いかなる生き物の血も、決して食べてはならない。すべての生き物の命は、その血だからである。それを食べる者は断たれる」(レビ記17:14)。「血は命だから食べてはいけない」というのが律法の規定でした。だからユダヤ人は血を含んだ肉は一切食べず、完全に血抜きをした肉(コーシエル)しか食べません。そのユダヤ人に向かってイエスが「私の血を飲め」と言われたのですから、ユダヤ人にとっては決定的な離反の言葉になって行きます。
・イエスは何故ここまで「血と肉」にこだわられるのでしょうか。それを理解するためには、この言葉がイエスご自身の言葉ではなく、ヨハネ教会の信仰告白の言葉であることを知る必要があります。ヨハネ6:51-58の言葉は、ヨハネ教会の聖餐式の式文が反映しています。イエスの処刑によって散らされた弟子たちは、復活のイエスとの出会いを通して、「イエスこそ神の子なり」との信仰を与えられ、復活された日曜日を主の日として集まり、聖餐式を守りました。彼らはパンを「キリストの体」として食べ、ぶどう酒を「キリストの血」として飲むことを通して、復活の主との共生を体験していったのです。「イエスが十字架で流された血、裂かれた肉こそが、私たちの霊の糧である」と信じるヨハネ教会は、ユダヤ人の誤解を招くことを承知の上で、あえて「血と肉」という言葉を用いるのです。
2.「イエスを食べる」とはイエスの十字架を覚えて生きることだ
・ヨハネは信仰告白の言葉を続けます「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。私の肉はまことの食べ物、私の血はまことの飲み物だからである」(6:54-55)。ここでヨハネが言っていますことは、十字架で死なれた復活者キリストに自分の全存在を投げ入れ、その方と一緒に十字架で死に、その方と一緒に復活の命に生きる、イエスを食べることこそ救いであるとの告白です。何故ヨハネはそのように確信するのでしょうか、それはキリストと出会う前の自分たちは死んでいたと認識する故です。
・キリストに出会う前の人間は何故死んでいるのか、それは直面する不条理に打ちのめされているからです。「何故人は死ぬのか」、わかりません。しかし人は必ず死にますし、「死んだらどうなるのか」、永遠の恐怖がそこにあります。「何故苦しみがあるのか」、わかりません。しかし苦しみは避けることはできません。「あの人は元気なのに何故私が癌になるのか」、答えはありません。「何故悪があるのか」、私たちにはわかりません。終戦記念日が来るたびに戦争の映像がテレビで流されますが、「人は何故戦争を無くせないのか」、わかりません。このような不条理の前で私たちは立ちすくんでいる、それが人間存在の真実です。私たちはそれを考えないようして毎日を送っていますが、やがて行き詰ります。死や苦難は必ず来るからです。
・その人間がある時、招きを受けてイエスに出会います。イエスは十字架を前にして祈られました「父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください。しかし、私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコ14:36)。「御心に適うことが行われますように」、イエスは神に委ねることを通してこの不条理を乗り越えられ、私たちのために命を捨てて下さいました。そのイエスを神はよみがえらせて下さった。この受難と復活の中に希望があることを知って、私たちは再び立ち上がることが出来ました。ヨハネは「イエスは私のために死んで下さった、だからイエスの死を繰り返し覚えるために、イエスの肉を食べ、イエスの血を飲む」と言っているのです。
・初代教会の礼拝の模様を伝えている文書があります。ユスティノスという人が書いたもので、紀元90年ごろ、ヨハネ福音書が書かれた同時代のものです。次のような内容です「日曜日と呼ばれる日には、町や村に住む者たちが一つの場所に集まる。そして使徒たちの回想録や預言者たちの文書の朗読が行われ・・・司式者が教えを説き、このような優れたことがらに倣うように勧告し促す。次に皆立ち上がり、共に祈りを唱える。祈りが終わるとパンとぶどう酒と水が運ばれる。司式者は祈りと感謝を捧げる。会衆はアーメンと言う言葉でこれに唱和する。一人一人に「感謝された」食物が与えられ、これに預かる。また欠席者の下には執事がそれを届ける。次に富裕で志のある人々は、各人が適切とみなす基準に従って定めたものを捧げる。このようにして集められたものは司式者の下に保管され、彼は孤児や寡婦、そして病気やその他の理由で困窮している人々、獄にいる人々、そして私たちの間で生活している人々のために配慮する。すなわち彼は窮乏の下にある全ての人々の面倒を見る役割を果たすのである」(「ユスティノスの第一弁明」から)。初代教会の礼拝の中心は聖餐式、イエスの肉を食べ、血を飲む行為でした。この行為がクリスチャンたちを新しい生き方に、すなわち「パンを共に分け合う」生活へと変えていったのです。初代のクリスチャンたちは「パンを共に分け合う」ことを通して、人生の不条理を克服していったのです。
3.イエスの十字架を覚えて生きる新しい生き方
・今日の招詞としてルカ22:19-20を選びました。次のような言葉です「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた『これは、あなたがたのために与えられる私の体である。私の記念としてこのように行いなさい』。食事を終えてから、杯も同じようにして言われた『この杯は、あなたがたのために流される、私の血による新しい契約である』」。
・ヨハネはイエスが、「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、いつも私の内におり、私もまたいつもその人の内にいる」(6:56)と言われたことを伝えています。そのイエスの言葉を別の伝承で伝えたのがルカです。イエスは言われます「この杯は、あなたがたのために流される、私の血による新しい契約である」。新しい契約は旧い契約を前提にします。「旧い契約=旧約」は律法による契約であり、人間が律法=神の戒めを守ることによって神との関係が成立することを意味します。しかし、人間は律法=戒めを守ることが出来ない。そのために、罪の赦しとして犠牲の血を必要としていました。旧約=ユダヤ教の礼拝の中心は犠牲の動物を捧げる贖罪儀式でした。自分の罪を犠牲の動物に転嫁し、それを殺すことによって赦しを求めます。祭儀においては犠牲の動物の血が、現実世界においては殺人者の血が求められます。旧約では、家族を殺された者は殺人者の血を流すことによって魂のいやしを求めます。
・しかし、キリストは私たちの罪の贖いのためにご自身の血を流されました。ここに初めて旧約を越える出来事が示されたのです。旧約の祭司は罪を贖うために犠牲の動物の血を持って神殿の聖所に入りましたが、キリストはご自身の血を携えて聖所に入られ、ご自身をいけにえとして捧げられ、神はこれを受入れてくださった。「もう私たちは救いのために犠牲の血を必要としなくなった」。それは私たちの生活に言い換えれば、「殺人者の血を流すことによって、魂のいやしを求める」必要がなくなったことを意味します。
・キリストの血を通して、旧約の「犠牲と報復の世界」から、新約の「赦しと共存の世界」が生まれました。今、日本の社会は「生きづらい」社会になっています。自殺者は年間3万人を超え、うつ病など心を病む人が増えています。生きづらさをもたらす要因の一つが社会における市場経済化の進展です。国や地域を越えた企業間競争が強まり、企業は生き残るため、人件費を圧縮し、正社員を減らして臨時や派遣の社員を増やしています。賃金は安いほど好い、その賃金で人間らしい生活が出来ないとしても、企業が生き残るためにやむをえないという考え方です。また数が減らされた正社員は長時間労働を強いられ、ストレスでうつになる人が増えています。生産性に寄与しない中高年者はリストラの名の下で退職を強制され、生活基盤が崩壊しています。社会の働き手である男性が追い詰められてくると、その影響は家族全体に及び、男も女も子どもも「生きづらい」社会になっています。そして、経済的にも精神的にも追い詰められた人たちの一部が、「生きるのがいやになった」として自殺しているのです。
・敗者を追い詰める社会、犠牲の血を流すことによって自らの救いを全うする社会、現代社会はまだ旧約の世界にあり、新約の世界、贖われた命を知りません。その中で、私たち=キリストの贖いを通して新約の世界を知った者の生き方が問われてきます。聖餐式に関するメソジストの讃美歌があります「あなたの聖霊を、ここに集う我らの上に、そしてこのパンとぶどう酒の贈り物の上に注ぎ、我らのためにそれをキリストの肉と血に変えたまえ。そして我らをこの世のためのキリストの血と肉に変え、その血によって贖いたまえ」。「聖餐式のパンとぶどう酒をいただく我らをこの世のための血と肉に変えたまえ」、「イエスの肉を食べ、血を飲む」行為が、クリスチャンたちを新しい生き方に、すなわち「パンを共に分け合う」生活へと変えて生きます。人にはいろいろな生き方があります。「自己実現を目指す人生」もあります。しかし自己実現、競争に勝つためには、常に敗者が、犠牲が必要であることを忘れてはいけません。新約を知った私たちは新しい生き方、「人を生かす人生」を歩むように招かれています。勝つことを求めない、他者と共存する生き方です。
・自然のままの人間は貪欲です。自分のために他者のものさえも奪っていく存在です。その私たちが、キリストに出会うことによって、自分のものを他者と分け合う存在に変えられていきます。イエスが与えて下さった自由はエゴイズムからの自由です。私たちはいつも「人から愛されたい、人から認められたい」と願っています。そこに私たちの不幸の原因があります。エゴイズムから解放された人間は、人から愛されることが難しければ人を愛していき、人から認められることが難しいならば人の良い点を見出し認めていく、そのことを通して人との関係を構築していきます。何故ならば「受けるよりも与えるほうが幸いである」(使徒20:35)というイエスの言葉を知るからです。私たちは、最も良い人生を歩むために他者に仕えていく人生に招かれています。旧約の、弱肉強食のこの世界において、イエスにより贖われた命を他者のために用いていく新約の生き方をするように招かれているのです。