江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2009年8月23日(ヨハネ6:60−69、人生をイエスに委ねて)

投稿日:2009年8月23日 更新日:

1.イエスへのつまずき

・ヨハネ6章から4回にわたって「命のパン」の記事を読んできました。イエスは、伝道活動を故郷のガリラヤで始められました。病人をいやし、教えをわかりやすく説かれたので、イエスが行かれる所には多くの群集が集まり、進んで弟子として従う者たちも与えられます。イエスがガリラヤ湖のほとりで5千人にパンを与えられた時が、その人気の絶頂期で、人々はイエスを王にしようとしたほどでです(6:15)。しかし、一つの出来事を契機に人々はイエスにつまずき、離れていきます。それが「命のパン」の出来事です。人々は5つのパンで5千人を養われたイエスの力に驚き、もっとパンを欲しいと求めてきました。イエスはその人々に言われました「朽ちるパンではなく、朽ちない命のパンを求めなさい。私こそが命のパンであり、私の肉を食べ、私の血を飲む者は永遠に生きる」(6:55)。多くの人々が、イエスの言葉を聞いてつぶやき始めます「実にひどい話だ。誰がこんな話を聞いていられようか」(6:60)。今日の話はそこから始まります。
・「実にひどい話だ。誰がこんな話を聞いていられようか」、人々はイエスがパンを与える存在、自分たちに生き方を教えてくれる存在である時はイエスに従ってきます。「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな・・・あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」(マタイ6:31-32)。人々は神が自分たちを養って下さると聞いて、アーメンと唱和します。「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11)。人々はイエスが自分たちのために命を捨てる覚悟さえしておられることに感動します。しかし、「私こそ神から遣わされたメシア(救世主」だ。私を信じることによってあなた方は生きる」と言われると、「これはヨセフの息子のイエスではないか。私たちと同じ人間ではないか」と人々はつまずき、「私の肉を食べ、血を飲む者は永遠に生きる」と言われれば、イエスに従う弟子たちさえ離れていきます。神の子が十字架で死ぬ、それが救いだとは信じることが出来ないからです。
・イエスは動揺している弟子たちに、さらに言葉を継がれます「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……」(6:61-62)。「人の子がもといた所=天に上る」、復活を示唆しています。十字架の贖いさえ信じることが出来ないのに、ましてや「死んだ者がよみがえる」とは、人々の理解を超える言葉です。ヨハネは書きます「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」(6:66)。
・福音の中には生まれながらの人間をつまずかせるものが含まれています。神の子が人になった(受肉)、神の子が十字架で死ぬことにより救いが与えられた(受難)、神の子が復活したことにより人は永遠の命を得る(復活)等の教えは、いずれも理性では信じることが難しい事柄です。「こんなものを信じろと言うのか、馬鹿馬鹿しい」と言うのが生まれつきの人間の反応です。だからイエスは言われます「父からお許しがなければ、だれも私のもとに来ることはできない」(6:65)。
・イエスは弟子たちの多くが去っていくのをご覧になり、残った12人にも問われます「あなた方も離れて行きたいのか」(6:67)。立ち去りたいなら行くが良いとイエスは言われたのです。それに対して、ペテロが答えます「主よ、私たちは誰のところに行きましょう。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています」(6:68-69)。「あなたこそメシアなのですから、私たちはあなたのもとに残ります」とペテロはその信仰を告白します。人々はイエスから何かを得るために、いやしや救いや栄光を得るために来ました。そして、イエスがそれらのものを与えてくれないことがわかると、イエスから離れていきます。しかし、この12人はイエスのもとに留まりました。「私たちは残ります」、何が彼らに、イエスと共に留まることを決意させたのでしょうか。

2.復活のイエスと出会う

・私たちの生きている社会は悪と偽りに満ちています。建設会社の談合を公正取引員会に告発した社員は会社から退職を強要され、派遣社員として働く人々は正社員から「お前の人生は終わったな」と言われる社会です。結婚して専業主婦となった女性は夫から「誰の働きで食っていると思うのか」と問われ、年間3万人が自殺し、20万人の胎児が中絶により殺されていく国に私たちは暮らしています。満員電車の中で肩が触れればにらまれ、官僚は退職後のことを考えて税金で天下り先をつくっています。まさに数千年前に預言者ミカが告発した社会と同じです。ミカは言いました「主の慈しみに生きる者はこの国から滅び、人々の中に正しい者はいなくなった。皆、ひそかに人の命をねらい、互いに網で捕らえようとする。彼らの手は悪事にたけ、役人も裁判官も報酬を目当てとし、名士も私欲をもって語る。しかも、彼らはそれを包み隠す」(ミカ7:2-3)。
・その中で弟子たちはイエスに出会いました。イエスはらい病に苦しむ人を見て「はらわたがねじれるような痛み」を覚えられ、社会から排除されていた徴税人や娼婦にも暖かい声をかけられました。その一方でこの方は、人々を罪人として切り捨てる律法学者やパリサイ人を批判し、私欲を肥やす祭司たちを「自分を養う羊飼いは災いだ」と告発されました。そのためにイエスは支配階級の恨みを買い、捕らえられ、処刑されました。弟子たちはその十字架を見て逃げましたが、復活のイエスは弟子たちに現れ、一言も非難せずに、彼らに「私の羊を飼いなさい」と託されました。イエスの生前、弟子たちは本当にはイエスに従いませんでした。しかし、この復活のイエスとの出会いを通して、十字架の場を逃げ出した弟子たちが、イエスのために死ぬ者と変えられていきます。
・だからこそ弟子たちは「あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています」と告白します。前に言いましたように、ヨハネ福音書は紀元90年ごろ書かれていますが、ヨハネは60年前の、紀元30年ごろのイエスとの出来事を回想しながら、現在の自分たちの信仰をここに述べているのです。そうです、人は復活のイエスとの出会いを通して、つまずきを乗り越えて、信仰者として立てられていくのです。

3.十字架の言葉こそ人を生かす

・今日の招詞に�コリント1:23-24を選びました。次のような言葉です「私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」。
・使徒パウロがアテネの人々に伝道した時のことです。人々はパウロの学識に富む言葉に惹かれて熱心に聴いていました。パウロは説教の最後を「キリストは復活された」と結びました。するとそれまで熱心に聴いていたアテネの人々が、「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』」といい、去って行きました(使徒言行録17:32)。異邦人であるギリシア人は十字架の言葉を「愚かなこと」として、聞こうとしなかったのです。先に言いましたように、受肉や受難、復活の出来事は理性で受入れることが難しいのです。事情は日本でも同じです。日本には多くのミッションスクールがあり、学生たちの人気が高い。それはミッションスクールが長い伝統を持ち、偏差値が高い、つまり世間の評判が良いからです。しかしミッションスクールで為される聖書学の授業や、義務付けられる礼拝出席には学生も父兄も拒否反応を示します。彼らはキリスト教文化は受入れても、キリスト教信仰には関心がないのです。
・この間ある会食の席で、私が牧師だと知った婦人が言われました「宗教は間に合っています」。宗教の話はしないで下さいということでしょう。イエスを道徳や倫理の教師として受入れることに抵抗はなくとも、イエスこそ救い主だと言う話になると、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と人々は拒絶します。しかし私たちは十字架の言葉を伝え続けます。それはこの言葉の中にこそ、命があると信じるからです。どのような命なのでしょうか。私たちは聖書を通して「全ては神の計画に中にあり、例え人間が拒否しても裏切っても神の救いの計画は進展する」ことを教えられました。神の摂理を信じる信仰者は癌をも喜ぶことが出来ます。
・小説家の三浦綾子さんは朝日新聞の懸賞小説に応募するために「氷点」を書きました。人の心の真ん中に「氷点」、溶かされない暗い闇=原罪があることを、物語化しました。これが入選し、その後彼女は多くのベストセラーを書くようになり、彼女の本を読んで、多くの人が教会の門をたたくようになりました。三浦さんが何故このような働きが出来たのか、彼女が弱かったからです。彼女は人生の三分の一は入院しているほど多くの病気にかかりました。その病気が彼女に「人生とは何か」を教え、彼女を偉大な作家にしました。三浦さんが、「苦難の意味するもの」という小文の中で病気について書いています「私は癌になった時、ティーリッヒの“神は癌をもつくられた”という言葉を読んだ。その時、文字どおり天から一閃の光芒が放たれたのを感じた。神を信じる者にとって、神は愛なのである。その愛なる神が癌をつくられたとしたら、その癌は人間にとって必ずしも悪いものとはいえないのではないか。“神の下さるものに悪いものはない”、私はベッドの上で幾度もそうつぶやいた。すると癌が神からのすばらしい贈り物に変わっていた」(三浦綾子「泉への招待」))。ここに信仰の力があります。病も死も神がお与えになる、今はその理由がわからなくとも、それは祝福なのだと受け止めていく信仰が、人を生かしていきます。
・私たちがクリスチャンになるのは簡単です。水に入ってバプテスマを受ければ良い。しかしクリスチャンであり続けることは簡単ではありません。次々に襲ってくるつまずきを乗り越える必要があるからです。人は何故つまずくのでしょうか。それはイエスに別のものを求めるからです。そして、「自分の求めるものはイエスにはない」と判断するから、イエスから離れていきます。それは何か、「自己実現」、あるいは「自分の栄光」です。よい職業、人にうらやまれる地位、経済的豊かさ、家庭の平和、健康、この世の人々はそれを「幸福」と呼びますが、私たちは同意しません。何故ならば、それらのものは遅かれ早かれなくなるからです。この世の幸福観に立てば、年を取ることは呪いであり、死はあってはならないことです。しかし信仰者は、病や老化や死を当然のこととして受入れていきます。しかも喜んで受入れていきます。“神の下さるものに悪いものはない”と信じる故です。「病気を喜べる信仰」、「挫折を贈り物と信じる信仰」こそ、人を本当に生かす命の言葉なのではないでしょうか。
・この十字架の言葉を私たちはどのように伝えていけばよいのでしょうか。先週、連盟の実践神学研究会の集まりで、講師の関田寛雄先生(前青山学院神学部教授)が次のように言われました「1968年マーチン・ルーサー・キングは民族主義者に暗殺され、黒人解放運動は頓挫した。しかし40年後バラク・オバマがアメリカ初の黒人大統領となり、プラハで核兵器廃絶を訴える演説をした。彼は言った『我々の世界には、立ち向かわなければならない暴力と不正義がある。それに対し、我々は分裂によってではなく、自由な国々、自由な人々として共に立ち向かわなければならない。私は、武器に訴えようとする呼びかけが、それを置くよう呼びかけるよりも、人びとの気持ちを沸き立たせることができると知っている。しかしだからこそ、平和と進歩に向けた声は、共に上げられなければならない』。 アメリカにおける黒人大統領の登場は、キングの十字架死による贖罪の結果生まれた。ここに神の経綸があるのではないか」。そうです、十字架の言葉は力を持ちます。それは私たちが担うことを通して、社会を変える力を持つことを今日は覚えましょう。

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