江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2009年11月22日説教(ヨハネ18:33−37、真理を求めて)

投稿日:2009年11月22日 更新日:

1.イエスとピラトの真理問答

・バッハは二つの受難曲を書きました。マタイ受難曲とヨハネ受難曲です。そのヨハネ受難曲のハイライトがイエスと総督ピラトの対話を記したヨハネ18章の記事です。イエスは言われます「私は真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た」(18:37)。それに対してピラトが問います「真理とは何か」(18:38)。「真理とは何か」、ヨハネ受難曲のテーマであり、今日私たちが聴きたい主題です。
・イエスは木曜日の深夜に捕らえられ、大祭司の屋敷で裁判を受けます。大祭司はイエスを「神の名を騙る偽メシア」として死刑判決を下しますが、死刑を実行する最終裁判権はローマ総督が持っていました。そのため、人々は夜明けと共に、イエスをローマ総督ピラトの所に連れて行きます。ピラトはイエスをめぐる問題がユダヤ人の宗教問題であること、イエスが「自分はメシアである」と主張したことにあることを知っていました。メシアを主張することはユダヤ人にとっては死刑に値するかも知れないが、ローマ人には何の関係もありません。そこでピラトはユダヤ人たちに言います「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」(18:31a)。ローマは植民地の宗教問題には関与しないとピラトは言ったのです。ピラトにとっての関心は政治的な事柄、すなわちイエスが反ローマ的な言動をしたかどうかだけです。
・ユダヤ人たちは反論します「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました」(ルカ23:2)。ユダヤ人たちはイエスをローマに反逆する政治犯として告発したのです。ここにおいて、宗教問題が政治問題になりました。イエスがもし「ユダヤ人の王」と主張するならば、それは支配者ローマに対する反逆であり、ピラトはローマ総督として、イエスを裁かなければいけない。そこでピラトはイエスを呼び出して尋ねます「お前がユダヤ人の王なのか」(18:33)。
・イエスはピラトの問いに答えられます「私の国は、この世には属していない」(18:36a)。この世の王権は武力によって支えられます。今、ピラトがイエスを裁こうとしているのも、ローマが武力によってユダヤを制圧し、支配下に置いたからです。しかし、イエスの国はこの世には属さず、力を用いません。イエスは続けられます「もし、私の国がこの世に属していれば、私がユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、私の国はこの世には属していない」(18:36b)。王という言葉はギリシャ語「バシレウス」で、この言葉から「国=バシレイア」という言葉が生まれました。ピラトはイエスが「私の国(バシレイア)」というのを聞いたので、「それではあなたは王=バシレウスなのか」と問い直しています。同じ「バシレイア」という言葉を用いながら、イエスは「神の国」の意味で用いられ、ピラトは「地の国」の意味で用いています。つまり、ここに「神の国と地の国」という違う概念が対立しているのです。
・地の国の統治者であるピラトには武器も権力も家臣も持たない者が、何故王なのかわかりません。彼にとって、支配とは力であるからです。ピラトはイエスに尋ねます「お前は本当に王なのか」。イエスは答えられます「私は真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、私の声を聞く」(18:37)。イエスは力ではなく真理によって王となられる。ピラトには理解できません。彼はイエスに聞きます「真理とは何か」(18:38)。ピラトは答えを聞かずにイエスのもとを去ります。「真理という、たわけたもので国を支配できるわけがない」と思っていたからです。ピラトはイエスがローマに対する反逆者だとは思えない。そのため、イエスに対する審問を打ち切り、民衆の前に出て話します「私はあの男に何の罪も見いだせない。過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか」(18:38-39)。民衆は納得せず叫びます「その男ではない。バラバを」(18:40)。
・この民衆はイエスがエルサレムに入城されるとき、イエスを「来るべき王」として歓呼した人々でした(ルカ19:38)。人々はユダヤをローマの支配から解放してくれる王を求めていました。イエスの為された多くのいやしや奇跡を見て、「この人ならばそれが出来るかもしれない」と民衆は期待しました。しかし、現実のイエスは、大祭司の軍隊に抵抗もせず捕らえられ、今もピラトの前で裁きを受けています。こんな弱い人がメシア、王であるわけがない。人々はイエスを捨て、バラバに望みを託しました。バラバは「都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていた」(ルカ23:19)。彼はローマに対する武力闘争を行っていた熱心党(ゼロータイ)の指導者だったと言われています。人々は真理ではなく、力を選びました。この選択が後に大きな結果を招きます。


2.神の国と地の国と

・今ここに、二つの国の、二人の王が対峙しています。ピラトは地の国、ローマ帝国の代理人として、そこにいます。ローマは強大な軍事力によって、諸国を征服し、世界帝国を建設しました。地の国の支配原理は力、武力です。そのピラトの前に、イエスが神の国の王としておられます。イエスは何の武力も持たれませんでした。何故なら、神の国の支配原理は「力」ではなく、「真理」だからです。そして何の武力も持たない故に、イエスはローマの武力の前に処刑されていきます。
・しかし力の支配は限界を持ちます。現在のイラクを見てみればわかります。アメリカはテロとの対決のためイラクを武力制圧しましたが、イラクの人々を理解しない占領政策によって、テロはなくならないどころか、増えています。そして数千人のアメリカ人と数十万人のイラク人の命を無益に使い果たして、今アメリカ軍はイラクからの撤収を検討しています。今のイラク情勢は、ローマ支配下のユダヤと驚くほど似ています。ローマは力でユダヤを制圧し、エルサレムに進軍しました。彼らはユダヤ人が神聖と考えるエルサレム神殿に、ローマの神である鷲の像を先頭にして土足で踏み込みました。ユダヤ人はこれを神に対する冒涜と感じ、異教徒ローマに対するテロ行為を活発化させ、イエス死後、武装蜂起派はローマに対する独立運動を起こします(66年ユダヤ戦争)。
・その結果、エルサレムはローマの軍隊により占領され、破壊され、イスラエルは滅びます。人々は「イエスかバラバか」の選択を迫られた時、バラバを選びました。バラバは力の原理を象徴する人です。目的を達成するためには、流血も盗みもためらいません。人々がバラバを選んだことは力によって問題を解決する方向を選択したのです。この選択が国を滅ぼしました。
・ローマはイエスを処刑しました。地の国が神の国を飲み込んでしまったように見えました。しかし、イエスを裁いたピラトはこの6年後に失脚し、流刑地で自死したと伝えられています。またローマ帝国も、300年後に滅んでいきます。しかしイエスの教えは死にませんでした。ローマが抹殺したはずの神の国は滅びず、逆に地の国ローマを滅ぼしたのです。アメリカも現在のような「力の支配」を推し進めれば、やがて国力は衰退し、滅んでいくでしょう。既にアメリカは、全世界に軍隊を配備し、武力で世界を支配するだけの国力を失いつつあるのです。それに気がついたからこそ、オバマ大統領は冷戦時代の遺物である「核兵器」の削減を推し進めています。「神の国」、あるいはその「指導原理である真理」とは、抽象的な事柄ではなく、まさに現在の政治や経済の問題、私たちの生活の問題であるのです。

3.真理はあなたを自由にする

・神の国の指導原理は真理です。「真理とは何か」、それを考えるために、今日の招詞にヨハネ8:31-32を選びました。次のような言葉です「私の言葉にとどまるならば、あなたたちは本当に私の弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。ここで自由として使われている「エレウセロス」は、自由人という意味で、奴隷(ドウーロス)に対応する言葉です。真理を知れば「あなたたちも奴隷ではなく、自由人になる」とイエスは言われます。人々は反論します「私たちは自由人です。誰の奴隷でもない」(8:33)。彼らは確かに社会的には自由人であり、誰の奴隷ではありません。でも「あなたたちは本当に自由なのか。あなたたちは罪の奴隷ではないのか」とイエスは問われているのです。
・「真理が我らを自由にする」、国立国会図書館に掲げられている標語です。学問や科学的真理を探究する営みは近世以降飛躍的に発展し、人間を無知や偏見、迷信から解放してきました。それにもかかわらず、人間の本質は何も変わっていません。人間は相変わらず殺し合い、戦争を無くすことも出来ませんでした。「真理は本当に私たちを自由にしたのか」、戦後の日本は自由になりました。私たちは、その自由を「何でもして良い自由」だと誤解し、その結果起こったことは、みんなが勝手にやりたいことを行い、社会においては地域が崩壊し、隣に誰が住んでいるのかも知らない社会になってしまいました。家庭においてもみんなが勝手に行為するために、家族はばらばらになり、離婚が増え、子供たちの犯罪が増えました。私たちは行動の自由を得たかもしれませんが、精神は不自由になっています。「あなたたちは自分が自由だと思っているが、実はまだ罪の縄目の中に閉じ込められているのではないのか」とのイエス問いに私たちは下を向くしかありません。
・罪=ギリシャ語ハマルテイアは「的から外れる」ことを意味しています。中心である神から離れることが罪なのです。神なき世界では、人間は人間しか見えません。他者が自分より良いものを持っていればそれが欲しくなり(=貪り)、他者が自分より高く評価されれば妬ましくなり(=妬み)、他者が自分に危害を加えれば恨みます(=怒り、恨み)。神のいない世界では、この貪りや妬み、恨みという人間の本性がむき出しになり、それが他者との争いを生み、争いが死を招き、死がさらに罪を生んでいきます。神なき世界では、この罪―死―罪という悪循環を断ち切ることが出来ないのです。
・イエスは十字架につけられた時、自分を殺そうとする人々の赦しを祈って言われました「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)。イエスは、十字架の苦しみの中で、自分を苦しめる者たちの赦しを神に祈られました。ここに罪−死−罪の終わりなき循環を打ち切る神の業が為されたのです。赦すことにより、敵との和解が可能になり、私たちもこの十字架の言葉を聞くことによって、心の中の思い=罪から解放されるのです。「真理はあなたを自由にする」とは、キリストの十字架という真理が、あなたを罪の縄目から解放して、他者を憎まない、他者の悪を数えない自由人にするということなのです。真理とは「キリスト」であり、自由とは「キリストにある自由」であり、その文脈を離れて「科学的真理、人間の自由」だけを言っても、そこには何も生まれないのです。
・アウグスティヌスは二つの国があると言います。「二つの愛が二つの国を造った。神を軽蔑する自己愛が地的な国を造り、自己を軽蔑するに至る神への愛が神の国を造った。前者は自分を誇り、後者は主を誇る」(アウグスティヌス「神の国」から)。神の国はどこか遠くにある憧れの国ではなく、今ここにあります。今日、筑波教会から武林兄が私たちと礼拝を共にするために来られました。筑波の教会堂建築の経験から学んだことを、会堂建築を計画する私たちの教会に語るために、片道二時間の道のりをかけて来られました。地の国の論理からすれば愚かな行為です。何の経済的利益も栄誉もそこにない。しかし彼は「お役に立てれば」という思いで来られた、ここに神の国に生かされている現実があります。私たちの教会では単純多数決で物事を決めない、仮に反対する人がいれば話し合いを行い、それでも説得できない場合は決定せずに時を待ちます。私たちの家庭生活においては、例え夫が不倫しても、彼が悔い改めればそれを赦していきます。イエスは言われました「真理に属する人は皆、私の声を聞く」。私たちはバプテスマを通してイエスに従っていくという誓約をします。私たちはもう神の国の現実を生きているのです。

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