江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2009年8月2日説教(ヨハネ6:24-35、命のパン)

投稿日:2009年8月2日 更新日:

1.5千人の養いの後で

・私たちはイエスが「五つのパンと二匹の魚で5千人を養われた」出来事を学んでいます。先週はこの出来事をヨハネ6:1-15から学びました。イエスの話を聞くために5千人の人が集まりましたが、夕暮れになって弟子たちは食事の心配をします。しかし手元には五つのパンしかありません。弟子たちは目前の5千人を見て、また手元に5つのパンしかないのを見て、「これではとても役に立たない」とあきらめます。しかしイエスは天を仰いで感謝してパンを分けられ、そのパンは5千人を養います。「必要なものは神が与えてくださる」と言うイエスの信仰が奇跡を起こしたのです。私たちの手の中にあるものが小さく僅かであっても、イエスの前に差し出され、御用のために用いられる時、10倍にも100倍にも増やされていくこと学びました。今日はこのパンの養いの記事を、6:24以降から学んでいきます。
・イエスが五つのパンで5千人を養われた出来事は人々を驚かせました。ヨハネは記します「人々はイエスのなさったしるしを見て『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った」(6:14)。群集は飢えていました。当時は、旱魃等で作物が不作になれば、貧しい人々は餓死する時代でした。人々は食べるものにも事欠く現在を、毎日腹一杯食べることの出来る将来に変えてくれる人を求めていました。その人々の面前で、イエスは奇跡を起こされた。群集は感激して、イエスを王にしようと迫ります。イエスは人々の心の中にそのような思いが芽生えたことを知って、彼らを避けて対岸のカペナウムに戻られますが、群集はイエスを追ってカペナウムまで来ました(6:24)。今日、私たちが読みますヨハネ6章22節からのテキストはそこから始まります。
・人々はイエスを見つけ出して言います「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」(6:25)。「ラビ」とは先生の意味です。「先生、何故私たちを避けてここに来られたのですか」、人々の言葉の中には思い通りにならないイエスに対する苛立ちがあります。その人々にイエスは答えられます「あなたがたが私を捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」(6:26)。「パンを食べて満腹する」、人々はパンを与えたイエスを追いかけてきて、もっとパンが欲しいと求めてきたのです。だからイエスは言われます「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(6:27)。民衆はイエスが行われた奇跡の中に、しるし(神の働き)を見ません。イエスは言われます「あなた方はもっとパンをくれとしてここに来たが、あなた方にパンが必要なことは父なる神はご承知だ。だからこそ五つのパンで大勢を養われるしるしを与えられた。日毎の糧は父が与えてくださるから、それを信じて、あなた方は“永遠の命に至る食べ物”、霊の糧のために働きなさい」とイエスは言われます。
・このイエスの言葉は、私たちにも生き方の見直しを迫ります。人はパンなしでは生きていくことが出来ません。ここで言うパンとは、食べ物を含めた物質的なものを指します。私たちはパンを求めて、毎日働きますが、いつのまにか人生の大半が、「パンを獲得する」ことに費やされ、本当に必要な霊の糧を忘れてしまっているのではないかという問いかけです。人間を人間にするのは、獲得した給料の多さや地位の高さ、あるいは成し遂げた業績ではありません。私たちは多くのお金をかけて子どもたちを教育し、長い年月をかけて住宅ローンの支払いを行います。そして子どもの教育を終え、家を準備し、老後を迎えてしばらくの時を過ごすと、やがて死が迫ります。このような人生で良いのか、何かが欠けているのではないか。「人はパンだけで生きるのではない。物理的なものの充足だけでは人は幸せにはなれないのではないか」と聖書は私たちに問いかけます。

2.命のパンとは何か

・イエスは「永遠の命に至る食べ物」を求めなさいと言われました。原語を直訳しますと「食べてもなくならない永遠の命に至る食べ物」とあります。何のことかわかりません。民衆は問い直します「それは私たちの先祖に与えられた天からのマナのことですか」(6:31)。かつてイスラエルの民はモーセに導かれて、エジプトを脱出し、約束の国へ向かいましたが、その途上で民が導かれたのは荒野でした。荒野だから食べ物が乏しい、苦情を言う民に神は天から、「マナ」と呼ばれる食べ物を与えられました。出エジプト記によりますと、マナは「荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすい」(出エジプト記16:14)であり、人々は「歩き回って拾い集め、臼で粉にひくか、鉢ですりつぶし、鍋で煮て、菓子にした。それは、こくのあるクリームのような味であった」(民数記11:8)とあります。おそらくは荒野における自然の産物であり、それを食べて荒野の旅を生き残った人々は、それを神から与えられたパンとして記憶していました。このようなパンを私たちに下さるのですかと人々はイエスに問いかけたのです。
・それに対してイエスは答えられます「モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、私の父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」(6:32-33)。「あなた方の先祖にパンを与えたのはモーセではなく、父なる神だ。そして神は今マナに勝るパンをあなた方に与えようとしておられる」とイエスは言われました。飢餓に直面していた民衆は感激して言います「主よ、そのパンをいつも私たちにください」(6:34)。イエスがマナに代るパンを毎日与えると約束してくれたと人々は勘違いしたのです。イエスは彼らの勘違いを訂正されます。イエスは言われます「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない」(6:35)。
・人々はがっかりします。彼らが求めたのは見えるパン、彼らを毎日生かすパンだったのに、イエスが与えようとされているのは「見えないパン、霊の糧」です。「そんなものはいらない」、人々は拒絶します。「私が命のパンである」という言葉を原典のギリシャ語を見ると「エゴーエイミー(私は・・・である)、ホ・アルトス(そのパン)、テ・ゾーエー(命の)」です。ここで問題にされている命は「ゾーエー」としての命です。ギリシャ語の命には「ビオス」と「ゾーエー」の二つがあります。ビオスは生物学的命を指し、ゾーエーは魂の命、人格的な命を指します。人間が生きるには生きがいが必要です。誰かに必要とされている、誰かが自分のことを気にかけてくれると思うから生きていけます。老人ホームに入居した人々が、衣食住に不自由がないのに、いつの間にかホームを牢獄のように思うようになることがありますが、それは生きがいの喪失から来ます。「生きていてもしょうがない」という時、動物としての命は生きていても、人格としての命は死んでいるのです。
・私たちはここで、群集が求めるものとイエスが与えようとしているものの間にすれ違いがあることに気づきます。群衆はビオスとしての命を養うために地上のパンを求めました。イエスは地上のパンは父なる神が下さるから、もっと大事なもの、ゾーエーとしての命を求めよと言われました。群集は納得しません。そして、私たちも納得しません。地上のパンは神が与えてくださる、神が養ってくださることを信じていないからです。だから、地上の命を支えるためのパンやお金を自分で獲得するために私たちは忙しく生きています。そして地上のパンだけを追求して生きる時、本当に必要なもの、魂のパンを失うのだとイエスは言われているのです。

3.神が養われることを知ることこそ福音だ

・今日の招詞に申命記8:3を選びました。次のような言葉です「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」。
・申命記はエジプトを出て40年の荒野放浪の後に、約束の地カナンに入ろうとしている民にモーセが語った告別説教です。モーセは40年間民を導いて来ましたが、今その役割を終え、死の床に在ります。彼は民を集め、神が何をして下さったかを覚えて、新しい地での生活を始めるように、民に言います「主が何故、あなたたちを40年間も荒野に導かれたのか。それは『主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった』」とモーセは言います。パンは人が生きるために必要ですが、そのパンは父なる神から来ることを知るために、あなたたちは荒野に導かれたのだとモーセは言います。そして主は「あなたたちを養う」という約束を40年間守られた、だからその主に信頼して新しい生活を始めよと。
・荒野を旅するイスラエルの民は、どのような思いを胸に抱いて、40年を過ごしたのでしょうか。今を我慢すれば、「乳と蜜の流れる地に暮らすことが出来る」ことを目指して、荒野を歩いたのでしょうか。最初はそうであったでしょう。エジプトでの奴隷生活から、自由な生活に脱出することが、彼らの願いでした。しかし、主が民を約束の地に導きいれたのは、40年の荒野放浪の後でした。エジプトでは過酷な奴隷労働があったかもしれませんが、水も食べ物もありました。約束の地に入ることが救いであるとすれば、そこに至ることの出来ない荒野の40年間は地獄の生活であったでしょう。
・しかし、水とパンがあれば、奴隷の生活でも良いのでしょうか。主がイスラエルの民を救われたのは、彼らがエジプトでの過酷な生活の中で苦しみの声を上げて救いを求めたからです。地上の命を生かす「水とパン」があっても人は幸せにはなれないことを彼らは経験したのです。私たちもそうです。衣食住に困らなくなったのに、それ以上の物質的な保証ばかりを求めています。今年8月に行われる衆議院選挙の争点は社会保障です。私たちは必要な医療をいつも受けられる医療保険の充実を求めています。老後を憂いなく暮らすことの出来る十分な額の年金支給を求めています。この私たちのあり方は「主よ、そのパンをいつも私たちにください」(6:34)と求めた群集と同じように思えますがいかがでしょうか。おそらく年金や医療等の社会保障が完備されても私たちは幸せにはなれないでしょう。何故ならば「人はパンだけで生きるのではない」からです。
・皆さんは約束の地に入った人々がどうなったかご存知でしょうか。彼らは救われて神の戒めに従った生活をしたのでしょうか。イスラエルの民は約束の地に入ると、定住して農耕生活を始めます。そうすると人は倉を建てて、作物を蓄えるようになります。その時、自分の蓄えに頼り、神を忘れ始め、偶像崇拝を始めます。神がいなくとも生きられるからです。やがて、豊かな人はますます豊かになり、貧しい人はますますに貧しくなるという社会的不公平が生じてきます。そこから振り返った時、人々は、「荒野の方が良かったのではないか。そこには神との生き生きした交わりがあり、人と人が助け合う生活があった」ことに気づき始めます。物質的な豊かさが人を幸福にしないことに気づいたのです。
・今私たちに必要な命のパンとは何でしょうか。それは「神が養ってくださる」との信仰だと思います。神が養ってくださるのであれば、私たちが苦難にある時も、神は共にいてくださる。失業して不安を感じている人の傍らに神は共にいてくださる。病気に苦しむ人の傍らにも神はいてくださる。絶望して泣いている人の涙を神は知っておられる。何故私たちはそれを信じることが出来るのか、神から派遣されたイエスがそうされたからです。マルコ福音書はらい病を患う人に対し、イエスは「深く憐れみ」、「手を差し伸べてその人に触れ」、「清くなれ」と宣言し、癒されたことを伝えます(マルコ1:40-45)。ルカ福音書は一人息子の死を悲しむ母親をイエスは「憐れに思い」、「棺に手を触れ」、彼を生き返らせたと伝えます(ルカ7:11-17)。私たちはイエスを通して神と出会うことが出来ます。「神のパンは天から降ってきて世に命を与える」(6:33)とヨハネが書くのは、命のパンであるイエスが来られたことこそ恵みであり、それを信じることが許されていることこそ救いであることを、指し示します。今日はそのことを思い起こしたいと思います。

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