1.三つの種に関するたとえ話
・私たちは今、聖霊降臨節の中にあります。聖霊降臨節では、「聖霊が与えられた後、弟子たちはどのように行為していったのか」を学んでいきます。それは私たちにとって、「この世界で信仰者としてどのように生きていくのか」を考えることでもあります。具体的には「神の国形成」に私たちがどのように関わっていくかを考えることです。今日お読みしますマルコ4章には、イエスが語られた三つの「種に関するたとえ話」が記されています。いずれも「神の国はこのようなものだ」との前置きで語られていますから、神の国についてのイエスの説話です。
・イエスは宣教の初めに言われました「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)。これは福音を信じれば、死んだ後天国に行くと言う約束ではありません。そうではなく、福音を信じればあなたが変えられ、そのことによってあなたの周りの人も変えられていき、その結果、そこに神の国が生まれると言う意味です。神の国、バシレイア・ツウ・セオウ、神の支配の意味です。天は神の支配される平和に満たされていますが、地は罪に満ちています。しかし地に住む私たちが悔い改め、イエスの言葉に従って生きる時、地もまた神の支配されるところになっていくとイエスは言われました。
・今日は三つの種の話を見ながら、この神の国を考えていきます。最初に語られたのは、「種を蒔く人のたとえ」です。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった」(4:3-7)。この種が福音=神の言葉であることは明らかです。種、神の言葉が宣教されました。道端にまかれた種とは、閉ざされた心に語られた言葉で、その種は芽を出しません。岩地に落ちた種とは、イエスの言葉や行いを見て、信じるようになるが、すぐに冷めてしまう人たちのことです。この例えはイエスご自身の伝道体験から語られたものでしょう。御言葉が語られても、ほとんどの人は聞こうとしないし、ある時は熱心に聴いた人も、やがて去ってします。しかし、種=神の言葉は力を持つ事を知っておられる故に、イエスは落胆されません。イエスは言われます「他の種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」(4:8)。種に命があり、その命は成長し、多くの実を結ぶ。父なる神はそう約束されたから、自分はやるべき事をやっていこう。
2.成長する種とからし種のたとえ
・次に、イエスは種がどのように生長していくのかを語られます。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土がひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる」(4:26-28)。地に蒔かれた種はやがて発芽し、成長し、豊かな実を結ぶことを農夫は知っています。しかし何故そうなるのかは知りません。福音の種も同じだとイエスは言われます。御言葉が人の心に蒔かれると、それは信仰として芽生え、成長する。どうしてそうなるのか、伝道者自身も知りません。しかし、そうなることを知る故に、彼は伝道するのだと。イエスは例えを続けられます。
・「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」(4:30-32)。からし種の大きさは1ミリに満たない、種の中で最も小さいものです。その最も小さい種でさえ、成長すると高さ3メートルほどの大きさに育ちます。イエスは「神の国は来た」と繰り返し言われました。しかし誰もそれを認めようとしません。種が小さすぎて目に入らないからです。世は悪に満ちています。どこに神の支配があるのか、この世はサタンに支配されているではないかと人々は反論します。
・今、イエスの目の前には、少数の弟子たちと群集がいます。群衆はイエスが病気の人を癒し、悪霊を追い出される限り、つまり自分たちに利益を与えてくれる限り、イエスと共にいます。しかし、権力者がイエスを捕らえ十字架にかけようとすると、群集は一転してイエスにつばを吐きかけるでしょう。弟子たちはイエスに従いましたが、イエスが捕らえられると、彼らも逃げます。イエスの伝道の業はからし種のような、あるのかないかわからないような小さな種でした。それはイエスが生きておられた時には実を結びませんでした。イエスが十字架で死なれた時、誰もそれを大変な出来事だとは思いませんでした。しかし、その十字架から、多くの芽が発芽し、やがて教会が形成され、今日では世界人口の三分の一が、イエスを「主」と呼びます。神の国は来たのです。
・今日の招詞として、�コリント3:6-7を選びました。次のような言葉です「私は植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させて下さったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させて下さる神です」。種が芽を出し、成長し、豊かな実を結ぶことを私たちは知っていますが、何故そうなるのか、私たちは知りません。そこには生命の神秘、神の業があります。だから、「大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させて下さる」神です。ただ同時に、種を蒔く人、あるいは苗を植える人がいて、また水を注ぐ人がいてこそ種は成長していきます。私たちも神の為される業に参加することを求められているのです。
3.神が働かれる、その働きに私たちも加わる
・東京バプテスト神学校では毎年テーマを絞って夏期講座を開催しています。今年のテーマは「キリスト教と経済」、すなわち現代の経済社会の中で、私たちはどのように神の国の働きに参加すればよいのかがテーマです。講師として青山学院大学の東方敬信先生をお招きしますが、先生は著書「神の国と経済倫理」の中で次のように述べておられます「近代社会の合理主義は損得計算と言う取引によって人間の自発性を奪ってしまった。しかしイエスの求められた社会関係は見返りを求めない自発的な愛の行為だった。ここには経済活動を通して新しい社会関係を形成する社会政策上の目的が示されている」(神の国と経済倫理、66P)。聖書を通して与えられた真理で、現代社会の病弊を癒す方策を考えることが可能だと先生は主張されます。
・この社会は損得計算で物事を考えます。例えば、企業は労働を費用=コストと考えます。従って労働コストを抑えて、利益の最大化を考えます。その結果、「人間が働くからこそ労働である」という基本が喪失されています。今回の経済不況で多くの非正規労働者が解雇され、社会問題となりました。今回の出来事で明らかになったのは、企業は生産調整のために雇用を用い、不景気になると非正規雇用を切り捨てることによって対応するということです。更に多くの企業では人材派遣を受け入れる部署が人事部ではなく、資材調達部でした。そこでは労働者は人ではなく、モノになってしまい、モノになった労働は人間に喜びを与えません。また生産調整の手段として解雇されてしまうことは人格の否定であり、多くの社会問題を生んでいます。企業が利潤追求だけを行う時、その企業は社会に害を流す存在になりうるのです。聖書は「信仰を持って働き、喜びを持って生きる」ことを勧めます。もう一度、労働を働きがい、生きがいのあるものに戻す必要があります。労働は生活の糧をまかなうためのものであり、働く人の自己実現の場でもあります。しかしそれ以上に、この社会でよい仕事を行う、隣人に役立つ仕事をすることこそが、「グッドワーク=良い仕事」であるとの志をキリスト者は持つべきでしょう。
・このグッドワークを具体化した一人が、ムハマド・ユヌス という人です。彼はバングラデシュで最底辺の生活を送る人々に無担保で小口のお金を貸し付ける「マイクロ・クレジット」という画期的な銀行システムを開発し、ノーベル平和賞を受賞した人です。彼がここ数年、新たに打ち出しているのが「ソーシャル・ビジネス」という新しいビジネスの形態です。市場経済の手法を用いながら、利益を出資者に戻すのではなく、貧困撲滅などの公共的な目的のために使って事業を拡大し、問題の解決をめざすものです。このビジネスは、「慈善事業」や「開発援助」とは一線を画し、時にはグローバル企業とも手を組む柔軟性を持っています。すでに、栄養失調の子どもたちのためのヨーグルトの生産や、貧困者には手術代無料の眼科病院などをスタートさせました。彼は語ります「ソーシャル・ビジネスは利潤の追求だけを目的とし、歴史的な危機に陥っている市場主義経済のシステムを、根本的に救うことができるかもしれない」。
・ユヌスさんの創設したグラミン (ベンガル語で農村の意味) 銀行は、現在の借り手320万人、融資総額42億ドル、返済率98%に達しています。この銀行の働きによって、「借り手の46%は貧困層から脱却した」とユヌスさんは言います。このシステムはアーカンソー州知事時代のクリントン前米大統領によって導入されたのをはじめ、60カ国以上で採用され、「実績」は世界が認めるところとなりました。彼は言います「人間が持つ利己的な部分だけでなく、無私の部分も市場に持ち込めば、資本主義は完成する」。彼はイスラム教徒ですが、同じく神の国実現のために働いています。かつての社会は「道徳と経済」の二つが社会の指導原理であったのに、現代社会は道徳を忘れ、経済だけのいびつな社会になってしまいました。これをあるべき社会に戻そうと私たちが草の根の活動をし始めた時、そこに神の国が生まれていくのです。ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねた時、イエスは答えて言われました「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:20-21)。「神の国はあなたがたの間にあるのだ」、この言葉をいただき、私たちもまた神の業に参加することを決意します。