江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2009年3月29日説教(ヨハネ12:20−33、イエスに引き寄せられて)

投稿日:2009年3月29日 更新日:

1.一粒の麦が死ななければ

・受難節第5主日を迎えています。本日は2008年度最後の礼拝であり、また午後から教会総会を開く大事な日です。この大事な日に与えられた聖書箇所がヨハネ12章20節以下です。今日の箇所には中心になる聖句が二つあります。一つは12章24節「一粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ」です。イエスが「自分は十字架で死ぬが、その死によって父は豊かな実をお与えになる」という決意を示された言葉です。もう一つの中心聖句が12章32節です。イエスは言われます「私は地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」。「地上から上げられる」、十字架の上に上げられ、さらには父が天に上げてくださる時、多くの人がイエスのもとに引き寄せられると言う言葉です。この二つの聖句は、共に受難と復活を指しています。今日はこの二つの聖句を中心にヨハネ12章を学んでいきます。
・物語は数人のギリシア人たちがイエスに会いに来るところから始まります。ヨハネは書きます「祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て『お願いです。イエスにお目にかかりたいのです』と頼んだ」(12:20-21)。聖書でギリシア人という時、必ずしも民族や国籍を指すのではなく、広く異邦人の意味に用いられます。ユダヤはかつてはギリシアの支配下にあり(セレウコス朝シリア)、今はローマの支配下にありますから、多くの異邦人が領内に住んでいました。イエスの弟子フィリポはガリラヤのベトサイダの出身で、ベトサイドには多くのギリシア系住民が住んでいましたので、おそらくはイエスの評判を聞いたギリシア人たちが同郷のフィリポにイエスへの面談を依頼したのでしょう。
・異邦人たちの来訪を受けられたイエスは「人の子が栄光を受ける時が来た」(12:23)と言われました。「栄光を受ける」、ご自身が死ぬ時が来たといわれたのです。イエスはこれまでユダヤ人に福音を伝えてこられました。しかし今、神に選ばれたユダヤ人の指導者たちはイエスを殺そうと画策し、民衆の気持ちも支持から憎悪に変り始めています。その中で異邦人たちがイエスに道を求めてきた。そのことにイエスは時のしるしをご覧になりました。ですから、イエスは言われます「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(12:24)。
・「一粒の麦が死ななければ」、麦を地に蒔けば、その麦は地の中で解けて、形を無くして行きます。そのことによって種から芽が生え、育ち、やがて多くの実を結びます。蒔かずに貯蔵しておけば今は死なないでしょうが、やがて死に、後には何も残しません。一人のイエスが死なれる事を通して、多くの人が真実の命に生きるようになるという福音の奥義をイエスは例えで説明されたのです。そしてイエスは言葉を継がれます「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」(12:25)。
・ここで「自分の命」と言われている「命」は、ギリシア語のプシュケー=肉的、自然的命の意味です。それに対して、「永遠の命」と言う場合の命には、「ゾーエー」という言葉が使われています。プシュケー=肉の命を第一にするものは、ゾーエー=霊の命を失うと言われています。「自分の命を愛する」とは、この世の価値、名誉やお金や成功というものに、自分の人生を委ねる生きかたです。その人生においては、その人の肉の命が終わった時、後には何も残りません。アレキサンダーやナポレオンは華やかな脚光をあびて世に君臨し、強大な国家を建設しながら、やがて歴史のかなたに消え去っていきました。「自分の命を愛する」道は、実を結ばないのです。
・それに対して「自分の命を憎む」とは、この世の価値に生きる自分が死ぬことです。イエスは十字架に死なれました。そのイエスの死が弟子たちに衝撃と感動を呼び起こし、その弟子たちの証しを通して教会が生まれ、その教会は迫害の中でも生き続け、今日まで多くの実を結んできました。私たちもその実の一つです。まさに「一粒の麦が死ぬ」ことを通して、多くの実が結ばれるのです。

2.イエスの祈りに応えられる父

・しかし神の子であっても、また人の子でもあられたイエスは、死を前に心が揺さぶられます。ヨハネはイエスが死を前に心を騒がされたことを隠すことなく記述します「今、私は心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、私をこの時から救ってください』と言おうか」(12:27)。「心が騒ぐ」、肉の命を持つものとして、イエスも死の前に震えられました。しかしイエスはその心の動揺をそのまま父なる神に打ち明けられます。ヨハネ12:27以下の箇所はヨハネ福音書の「ゲッセマネの祈り」と呼ばれています。ゲッセマネでイエスは「父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください。しかし、私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコ14:36)と祈られましたが、ヨハネはその言葉を「父よ、御名の栄光を現してください」(12:28)と記録します。「この苦しみを取り除いてください、しかし、あなたが必要だと思えば、そのままにして下さい、私は担いますから」と祈られたのです。
・ここに祈りの核心があります。私たちはいつも、自分の救いを、今ここにある苦しみや病からの解放を祈ります。そう祈っている間は、苦しみは取り除かれないでしょう。何故ならば、私たちの根本問題は私たちに病気や苦しみがあることではなく、私たちがその重荷に負けてしまっていることだからです。ですから私たちが「この苦しみが必要であれば、取り除かないで下さい。御心であれば担いますから」と祈り始めた時、私たちを取り巻く状況は変らなくとも、重荷が重荷のままで、いやされていきます。
・イエスの祈りに対して神は答えられます「私は既に栄光を現した。再び栄光を現そう」(12:28)。神はイエスにしるしを行う力を与えられました。目の見えない人の目が開かれ、耳の聞こえない人の耳が聞こえるようになりました。死んだラザロさえも生き返りました。神はその栄光を既に示されたのです。今度は今までにも勝る栄光、十字架の死と言う栄光が、イエスに与えられようとしています。その栄光が与えられる時に、「全ての人が私に引き寄せられていくだろう」とイエスは言われます(12:32)。「地上から上げられる時」、イエスが地上から十字架に上げられる受難の時と、イエスが天に上げられる復活の時を通して、新しい命が生まれていくのです。

3.ゾーエーのためにプシュケーを捨てよ

・今日の招詞にヨハネ3:3を選びました。次のような言葉です「イエスは答えて言われた『はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない』」。先週水口先生が説教された箇所で、イエスがニコデモとの対話の中で話された言葉です。ニコデモはパリサイ派に属し、イスラエルの教師であり、また最高法院の議員でもありました。彼は熱心に神の道を求め、社会的にも尊敬され、生活にも不自由は無かった。しかし満たされなかった。だから、不思議な力を示されたイエスを訪問しました。しかし、彼がイエスを訪れたのは、昼間ではなく、夜でした。社会的地位のある長老が、若い巡回伝道者を公然と訪れるわけにはいかない。イエスはそのニコデモを見て、彼の問題がわかりました。彼はまだ地上の地位や栄誉、すなわち肉の命から解放されていなかったのです。ですからイエスは言われます「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない」
・ニコデモは反論します「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」(3:4)。イエスは霊的再生のことを言われましたが、ニコデモは肉的再生のことを考えています。イエスはニコデモの誤解を解くため、霊から生まれることの意味を説明されます「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」(3:5-6)。「肉から生まれる」、肉の命(プシュケー)は死ぬ命です。救いは「霊から」、命の源である神から生かされる命(ゾーエー)をいただくことによって来る。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」、新しく生きるためには、現在の命に死ななければ生けないとイエスは言われたのです
・昭和45(1970)年3月、羽田発福岡行きの日航機がハイジャックされた「よど号」事件で、人質となった乗客のなかに、聖路加国際病院理事長の日野原重明さんがいたことはよく知られています。日野原さんは、ピョンヤンの空港に人質として連れていかれますが、この時、犯人たちが、空港で書物を差し入れてくれたそうです。その書物の中に、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」が入っていました。「カラマーゾフの兄弟」は冒頭に「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」と書かれていました。ヨハネ12:24-25の言葉です。日野原さんはハイジャック事件に巻き込まれ、死ぬかもしれないと言う状況の中で、この御言葉に接しました。そしてもし自分の命が失われることなく、生き長らえることができたなら、それを人のために用いようと決心したと言います。やがて、日野原さんは人質から解放され、新しい人生を歩み始めます。日野原さんはこの時に、現在の命に死んで、新しく生きる命を与えられたのです。
・この世の常識に従えば、イエスの受難や十字架を、「栄光」と見ることは出来ないでしょう。この世の「栄光」とはオリンピックで金メダルを取るとか、社会的に成功するとかです。しかしこの世の栄光を極めたアレキサンダーやナポレオンは最終的には何も残しませんでした。自己の栄光を求める生き方は「一粒の麦」のままの生き方であり、多くの実を結ぶことはないのです。他方、イエスは自らの命を十字架に捧げられました。ナポレオンは晩年次のように言ったそうです「アレキサンダー、シーザー、そして神聖ローマ帝国を作ったシャルマーニュ。そうした人々は皆、大帝国を作ったけれども、何を土台として、それを造ってきたのか。力ずくでやってきた。私もそうだ。しかし、何世紀も前に、あのイエスという人は、愛に根ざす帝国を作り始めた。そして今に至るまで、何百万もの人々が、このイエスのために喜んで死に続けている。しかし、私のために死ぬものはいない」。イエスの生き方を選ぶのか、ナポレオンの生き方を選ぶのかが今問われています。教会の壮年会は、イースターの祝会で、ドストエフスキー「罪と罰」の朗読劇を行います。ナポレオンのように人を押しのけてでも生きようとして挫折した主人公が、イエスへの信仰に救われていく物語です。受難節に十字架を仰ぐとは、自己のために生きるか、神によって生かされるか、そのことを考える時なのです。

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