江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2009年3月22日説教(ヨハネ3:14−21、神が救い主を遣わされる)

投稿日:2009年3月22日 更新日:

1.新しく生まれるとは何か

・受難節第四主日の今日、水口がヨハネ福音書3章から御言葉を語らせていただきます。読んでいただいた聖書箇所ヨハネ3:14-21は「ニコデモとイエスの対話」の後半部分です。最初に前半のニコデモ物語を簡単に見ていきます。ヨハネは書きます「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた」(2:23)。「しるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた」、ユダヤ教の教師で、議員であったニコデモも、「しるし」を見て、イエスを訪ねます。ニコデモは言います「ラビ、私どもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」(3:2)。ニコデモはパリサイ派に属し、イスラエルの教師であり、また最高法院の議員でもありました。彼は熱心に神の道を求め、社会的にも尊敬され、生活にも何不自由は無かったのでしょう。それでも満たされなかった。だから、神の業としか思えない不思議な力を示されたイエスを彼は訪問しました。この人なら、答えを持っているかも知れないと思ったのでしょう。
・しかし、彼がイエスを訪れたのは、昼間ではなく、夜でした。パリサイ派の教師が、若い巡回伝道者を公然と訪れるわけにはいかない。だから、人目を忍んで、夜、イエスを訪ねました。イエスはそのようなニコデモを見て、彼の問題がわかりました。彼はまだ地上の地位や栄誉から解放されていなかったのです。ですからイエスは言われます「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない」(3:3)。ニコデモは反論します「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」(3:4)。「新たに=アノーセン」という言葉は「上から、神から」の意味を持っています。イエスは霊的再生のことを言われましたが、ニコデモは肉的再生のことを考えています。ですから「もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」と疑問を呈します。
・イエスはニコデモの誤解を解くため、霊から生まれることの意味を説明されます「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」(3:5-6)。「肉から生まれる」、人間の側の行為や努力では人間の限界、死を乗り越えることが出来ない。あなたは善行を積み、律法を守るという自分の力で救いを得ようとするから躓くのだ。救いは「霊から」、すなわち命の源である神から生かされることによって、死という限界を超えることが出来るとイエスは言われます。
・ニコデモは理解できません。だからイエスは続けて言われます「 あなたがたは新たに生まれねばならないとあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(3:7-8)。風も霊もギリシャ語では同じ言葉「プニューマ」です。風は見えませんが、風の働きを私たちは音で聞いて、その存在を知ることが出来ます。神の霊も同じで、信じることによって人の心の中に変化と確信が起こるのだとイエスは言われたのです。ニコデモは理解できず、反論します「どうして、そんなことがありえましょうか」(3:9)。

2.イエスの言葉を通したヨハネの信仰告白がここにある

・イエスとニコデモの対話は10節で終わり、11節から物語後半が始まります。後半部分ではイエスの言葉に合わせて、福音書記者ヨハネの教会の信仰告白が為されていることに留意する必要があります。11節から突然、「私」という主語が「私たち」に、「あなた」と言う目的語が「あなたがた」に代わります。「私たちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたは私たちの証しを受入れない」(4:11)。「私たち」とはヨハネの教会であり、「あなた方」とはその教会を迫害し弾圧するユダヤ人共同体です。ヨハネの教会はユダヤ教の迫害の下にありました。ユダヤ人にとって最大の障害は、キリストの教会が、十字架で死んだイエスをキリスト(メシア)とすることでした。申命記は言います「木にかけられた死体は、神に呪われたもの」(申命記21:23)。神に呪われた者がメシアであるはずがないとユダヤ教徒は教会を批判していました。それに対するヨハネ教会の反論が11節以下に為されているのです。ヨハネはイエスの口を借りて言います「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」(3:13-14)。今日の聖書箇所の中心的な言葉「上げる=ヒュプソオー」がここに用いられています。
・「モーセが荒れ野で蛇を上げた」、民数記21章に基づく記述です。エジプトを脱出したイスラエルの民は、荒野での困難な旅に耐えられずつぶやき始めます「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます」(民数記21:5)。民がエジプトで奴隷として苦しめられていたからこそ、神はモーセを遣わしてイスラエルの民を救出されました。エジプト軍が追ってくると紅海の奇跡を通して、彼らを助けられました。水がなくなると水を与え、食べ物が無くなればマナが与えられました。しかし民のつぶやきは終わりません。神は炎の蛇を彼らに送り、多くの者が死にました。民は「助けてください」とモーセに求めます。モーセは主に祈り、主はモーセに命じられます「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る」(民数記21:8)。モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げ、蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得たという物語です。
・蛇は人間を苦しめる罪と悪の象徴です。しかし神はその蛇をして人を救うものにしてくださった。同じように、呪いと死の象徴である十字架もまた、神がそこに御子を上げる(ヒュプソオー)ことによって、十字架が救いの手段となった。人は十字架上に自己の罪が裁かれているのを見て救われるのだとヨハネは言っているのです。復活によって神の子と立てられた方が、地上で十字架に死なれたのは何故か、その意義を証しして世に告げ知らせることこそが、ヨハネの教会にとって最も大事なメッセージだったのです。

3.ヨハネの独白が示す福音証言

・16節以下もイエスの言葉ではなく、ヨハネ教会の宣教の言葉です。ヨハネは書きます「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(3:16-17)。「御子を信じる者は一人も滅びない」、何故なら御子は私たちをどこまでも捜し求めてくださるからです。マタイやルカが描く「一匹の羊をどこまでも捜し求める主人の姿」こそ、イエスの姿そのものです。信じる者を救うためにどこまでも私たちを愛された主は、終にはその命を私たちにお与えになりました。
・今日の招詞として�ヨハネ4:9−10を選びました。次のような言葉です「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に示されました。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」。
・ヨハネは十字架のイエスの中に、「愛の極限」を見ています。十字架に愛の極限を見たものはもう前のような生き方をすることは出来ません。ニコデモも「新しく生まれ変わる」ために、イエスの十字架を仰ぐ必要がありました。ニコデモはヨハネ福音書のなかに3回出てきます。最初が今日の個所、2回目は最高法院でのニコデモ(ヨハネ7:45-52)です。イエスの人気が高まり、ユダヤ当局としてもイエスを放置できなくなり、彼らはイエスを捕らえて殺そうと計画を始めますが、この時、ニコデモは「相手の言い分を聞いてからでなければ、逮捕するのは不当だ」とイエスを弁護します。しかし、「あなたはイエスの仲間なのか」と問われて黙り込みます。まだ、ニコデモは新しく生まれていません。
・しかし、三度目に出てくるニコデモは違います(ヨハネ19:38)。最高法院が死刑を宣告し、十字架にかけられて死んだイエスの遺体の引取りを当局に申し入れ、公然とイエスを埋葬しています。彼にはもう、この世の財産や地位に対する執着はありません。彼は長い道のりを歩いて、やっとイエスの言われたことを理解しました。十字架に上げられたイエスを見て、彼は自我から解放されたのです。このニコデモの歩みを見る時、「新生=新しく生まれる」とは、生涯をかけて与えられるものではないかと思えます。
・ヨハネは福音書の中で言いました「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている」(3:18)。この言葉をある人々は、「イエス・キリストを信じない者は地獄で裁かれる」と脅迫の言葉に変えています。しかしそれは聖書の伝える福音ではありません。神の裁きは人間を立ち直らせるためのものなのです。神の福音とは良い知らせ、私たちはもう救いの中にあるという知らせです。その救いのしるしが愛し合うことです。そして信じた者は光の中を歩みます。ヨハネは言います「真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」(3:21)。信じた者の生涯は必然的に証しの生涯になります。
・私たちの教会が次年度の教会標語に選びました「御言葉に根ざした交わり」も、共に証しの生涯を歩めるように励ましあっていく共同体を造りたいという願いから来ています。現実の教会生活は常に喜べる状況ではありません。教会員同士の仲たがいもあるでしょうし、牧師や信徒に躓いて教会にくることが出来なくなる人も出てきます。しかし、その中でも希望を持ち続けるのがキリスト者です。何故なら教会は、「神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになった」ことを共に信じ、「御子のお受けになった傷によって癒された」体験を共有する共同体だからです。

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