1.イエスの宮清めの真意は何か
・受難節第三主日の今日、ヨハネ2章後半の「イエスの宮清め」の記事がテキストとして与えられました。イエスがエルサレム神殿に行かれ、神殿から牛や羊を売る商人たちや両替をする者を追い出されたという内容です。ヨハネ福音書はこの記事をイエスの宣教の初めに起こった出来事として記していますが、他のマルコ、マタイ、ルカの三福音書では、これを受難直前に起こった出来事として記述します。マルコでは、ガリラヤ伝道を終えられたイエスがエルサレムに日曜日に入城され(この時、民衆が棕櫚を道に敷いて歓迎したため、“棕櫚の主日”と呼ばれます)、翌月曜日に宮清めをされ、そのためにユダヤ当局との対立が激化し、木曜日、最後の晩餐の後に捕らえられ、金曜日に処刑される、その受難週の中の出来事として描きます。この出来事が神殿冒涜罪としてイエス処刑の動機になっていますので、おそらくはマルコのように、受難直前に起こったと考えるほうが自然です。ヨハネは最後に書かれた福音書です(ですから第四福音書と呼ばれます)ので、おそらく三福音書の記事を知っています。知りながら、何故ヨハネはこの宮清めの出来事を宣教の初めの出来事として記述するのか。この疑問を持ちながら、ヨハネの記事を読んでいきます。
・ヨハネは記述します「ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた」(2:13)。ユダヤの春は過越祭りで始まります。春分の日の後の最初の満月が祭りの時で、ユダヤ全土から多くの巡礼者がエルサレム神殿に集まります。イエスも過越祭りを守られるためにエルサレムに上られ、神殿に行かれました。当時のエルサレムの人口は10万人前後だったと推測されますが、祭りの時は人口に倍する巡礼者がエルサレムに来ますので、神殿は巡礼者で混雑し、犠牲の動物を売る屋台の声や両替を求める人の喧騒で満ちていました。イエスはこの喧騒をご覧になられました。
・神殿には、犠牲として捧げるための牛や羊、鳩を売る店がありました。また、ローマやギリシャの貨幣をユダヤ通貨に両替する店がありました。それらの店は必要なものでした。当時のユダヤ教の祭儀は動物犠牲を捧げて、罪の赦しを請うものです。巡礼者は遠くから来て、犠牲の動物を連れてくることは難しく、神殿境内の羊や鳩を売る店で動物を求めました。また神殿に納める献金(神殿税)はユダヤ貨幣(シケム)でなければならないとされていましたので、当時流通していたローマ貨幣からの両替が必要でした。必要でしたが、そのことが神殿を「祈りの家」ではなく、「商売の家」に変えていました。神殿には牛や羊の鳴き声がこだまし、両替を求める客と商人のやり取りの声が祈りの声を掻き消していました。イエスはこのような有様を見て、怒りを発せられ、縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われます。「このような物はここから運び出せ。私の父の家を商売の家としてはならない」(2:16)。
・温和なイエスが何故、このように怒られたのでしょうか。ヨハネはそれを、「あなたの家を思う熱意が私を食い尽くす」という詩篇69:10の言葉を引用して説明します。神殿を商売の家にしているのは実は動物商や両替商ではなく、彼らに神殿で商売をさせてその利益を吸い上げている、大祭司を初めとする神殿貴族たちだったのです。彼らは本来、民の罪を贖うための贖罪制度(動物犠牲を身代わりとして罪を清める)を、お金を払うことで流れ作業のように礼拝が行われる制度に変え、そのことによって経済的利得を得る手段にしてしまっていたのです。当時、エルサレム神殿には7000人の祭司やレビ人(下級祭司)がいたと伝えられます。これだけの祭司たちを養うためには強固な経済基盤を持つ必要があり、そのために神殿税や犠牲動物の売買等が制度化されていったのです。「信仰が人を養う制度になっている。それはおかしいではないか」とイエスは指摘されたのです。この指摘は私たちの問題でもあります。日本の教会の平均では教会経費の70%が牧師給になっています。皆さんがささげる献金の過半が牧師を養うために用いられ、教会本来の活動に向けられるべきお金が不足しています。小さな教会が多い日本ではやむをえないかもしれませんが、そこに現代日本の教会制度の問題点があるのも事実です。
2.受難と復活の象徴としての宮清め
・イエスの行為は通常「宮清め」と呼ばれますが、実はイエスは宮清め=神殿改革を目指されたのではなかったことに留意する必要があります。当時の神殿の中庭は8万平方メートルもあったといわれています。広大な中庭から全ての動物や商人を追い出すことは不可能であり、追い出しても翌日には同じ光景が展開されるでしょう。この出来事の真意は神殿改革ではなく、神殿祭儀そのものの意味を問うものだったのです。それが18節以下の問答に現れています。イエスの行為に怒った祭司たちはイエスに迫って言います「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せるつもりか」(1:18)。神殿を侮辱する行為をして、ただで済むと思っているのかと、祭司たちはイエスに迫ったわけです。イエスは後にローマ総督に告発され、十字架につけられますが、告発理由の一つはこの神殿冒涜罪でした。祭司の言葉に対して、イエスは答えられます「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(2:19)。
・「三日で建て直してみせる」と新共同訳は訳しますが、口語訳は「私は三日の内にそれを起こすだろう」とあります。原語では「エゲイロウ」と言う言葉が使われ、この言葉は「起きる、目を覚ます」という意味ですので、口語訳の方が原意に近いと思われます。そして聖書の中では、この「エゲイロウ」という言葉は復活の意味に用いられます。復活は「神がイエスを死から起こされた」行為だからです。そうしますと、イエスがここで言われていることは、「あなたがたは私を殺すだろう。しかし父なる神は私を三日のうちに起こして=よみがえらせて下さる」という意味です。「あなた方は罪を清めるために動物犠牲が必要だとして祭儀制度を造り、神殿維持のために必要だとして神殿税を集めている。しかし私が人々のための贖いとして死ぬのだから、もう犠牲は不要であり、神殿も不要だ」としてイエスは神殿崩壊を預言されます。事実、エルサレム神殿はこの出来事の40年後、紀元70年にローマの軍隊により破壊され、その後再建されることはありませんでした。
・ここまで来て、ヨハネが何故この物語を福音書の最初に持ってきたのかがわかり始めます。ヨハネ福音書が書かれたのは紀元90年頃ですが、当時の教会はユダヤ教からの迫害に苦しんでいました。その教会にヨハネは、「祭儀と律法を中心とするユダヤ教はもう役割を終えた。イエスの受難と復活を通してイエスが生きた神殿となられた。だからユダヤ教からの迫害にくじけるな。真理は私たちにある。主は復活して私たちと共におられる」ことを伝えたくて、福音書の初めにこの宮清めの記事を持ってきたのです。そして受難と復活と言う視点からヨハネ2章全体を見たとき、2章前半の「カナの婚礼の物語」も、違った意味を持ってきます。カナでイエスは水をぶどう酒に変えられますが、この水は「清めに用いる」水です(2:6)。祭儀のための水が、イエスによってぶどう酒に、すなわち十字架の血に変えられて、もう祭儀の水は不要になったとヨハネは言っているのです。イエスが贖いとして死んで下さったので、私たちはもう祭儀の水は不要であり、神殿での犠牲奉献もいらないのだとヨハネは教会の人々に伝えているのです。
3.清められた存在として生きる
・今日の招詞として、�コリント1:23−25を選びました。次のような言葉です「私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」。
・今年はキリスト教伝来150年の記念年ですが、150年間の宣教努力にもかかわらず、日本のクリスチャン人口は依然1%を下回っています。他方、新宗教と言われる創価学会や幸福の科学等はそれぞれ数百万人の信徒を擁しています。何がこの差を生み出したのでしょうか。それは、新宗教と呼ばれる教団は、人々の求める幸福の追求に応えているからです。人は病気の癒しや苦しみからの解放を求めます。しかし聖書は「病気のままで、苦難の中でこそ、あなた方は平安を得なさい」と言います。人々は生きるためのパンを求めますが、聖書は「パンより大事なもの、永遠の命を求めなさい」と言います。そして「永遠の命は御子イエスの受難と復活を通してあなた方に与えられた」と主張します。十字架にかかったイエスこそ神の御子であり、その復活を通して私たちも永遠の命が与えられたという聖書の言葉は、現代人には受入れがたいものです。そのため教会の中にも、受難と復活を言わないで、神の愛やイエスの優しさを強調する傾向があります。イースターよりもクリスマスを大事にするのもその一つです。ヨハネはそんな私たちに、「それは邪道だ。神の子が十字架で死なれ、神がそれを死から起こしてくださった。そのことの中にこそ救いがあることを忘れるな」と私たちに呼びかけているのです。聖書がイースター、すなわち受難と復活の出来事こそもっとも大事なものだと伝えることを私たちは留意する必要があります。
・「十字架につけられたキリストはユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」であり、「現代の日本人にも伝えることが難しい」使信ですが、私たちはそれを伝えていきます。何故ならば、それこそが「召された者には、神の力、神の知恵」だからです。神の知恵は人には見えません。だから先に召された私たちの生き方を通して、それを世の人々に示していく必要があります。伝道とは、私たちが「地の塩」、「世の光」として生きることです。それは道徳学者のような窮屈な生き方、「これをしてはいけない」、「あれをしてはいけない」という生き方ではありません。イエスが私たちに教えてくださったのは、喜びと祝福の中に生きることです。だから清めの水をぶどう酒に変えて、それを楽しめと言われます。禁酒禁煙と言う日本の教会の伝統はアメリカのピューリタニズムから来るものであり、聖書の教えるものではありません。
・禁欲と言う犠牲を捧げる事を止めて、喜びをもって礼拝するようにヨハネは教えます。義務として教会に来るのではなく、教会に来ることが喜びだから、教会に来て礼拝をささげる。その時、イエスの受難が、苦しみの象徴から、感謝と喜びのしるしになります。受難は復活への道を開く喜ばしい出来事なのです。ですから、英語圏の人々は、受難日を「Good Friday」と呼びます。十字架につけられた救い主と言う概念はわかりにくいと思います。しかしわかりにくくとも、受難のイエスを伝え、私たちの生き方でそれを証ししていきましょう。その時、「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」ことを私たちは見るでしょう。