江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2009年11月29日説教(ルカ21:25−36、救い主を待ち望む)

投稿日:2009年11月29日 更新日:

1.終末は救いの時

・今日から、教会ではアドベント、待降節の時を迎えます。キリストは2000年前にユダヤのベツレヘムに来られました。私たちはこの出来事をクリスマスとして記念し、その降誕を待ちます。それがアドベントの時です。同時にこのアドベント(ラテン語=来る)は、「私はまた来る」と言われたキリストの再臨を待つ時でもあります。聖書では終わりの時にキリストが再び来られ、神の国が実現すると記します。ですから、教会はこのアドベントの時に、終末のことを考えます。
・しかし、終末は理解することが難しい事柄です。私たちはキリストがかって来られたことは知っています。キリストが十字架で死なれた意味も知っています。キリストが死の中から復活されたことも信じます。しかし、キリストがまた来られる、再臨されるという聖書の言葉は良くわかりませんし、それが私たちにとってどういう意味を持つのかも知りません。しかし聖書は、歴史は完成に向かって進んでおり、終末の時が来ると繰り返し語ります。それは私たちにとって、十字架と復活と並ぶ大事な出来事なのです。今日は、クリスマスを前に、「終末」について、ルカ福音書21章から学びたいと思います。
・ルカ21章は終末の到来を預言したものとして知られています。終末を世の終わり、世の滅亡の時として、この聖書個所を読む人たちがいます。カルトと呼ばれる人たちです。彼らは世の終わりを滅亡の日、恐怖の日と理解し、それを繰り返し唱えて、世の人々を脅そうとします。しかし、聖書が明らかにするのは、終末は滅びの時ではなく、救いの時、完成の時であるということです。ルカ21章では7節から終末のしるしが述べてあります。戦争があり、疫病や飢饉があり、天変地異が起こるとありますから、人々が終末を滅びの時と誤解する要素はあります。イエスは言われます「太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである」(21:25-26)。これは天候不順、旱魃、嵐、地震等の大自然の大きな力に押しつぶされ、苦しむ人間の姿と受け取っても良いでしょう。しかし大自然以上に恐ろしいのが、人間の作り出す悪の世界です。今日のテキストの直前には次のような言葉が語られます「人々は剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる。異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる」(21:24)。この世には人間のエゴイズムがもたらす、戦争や暴力や犯罪が満ちています。人間は有史以来殺し合いを重ね、現在でも戦争や暴力をなくすことが出来ません。また人間は己の罪によって、人間関係を破壊します。いじめや裏切り、家庭生活の崩壊等に直面した時、私たちは「なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ恐ろしさのあまり気を失う」状態になります。
・しかし、そのような状態がいつまでも続くのではありません。イエスは言われます「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」(21:27-28)。この世界の悪の現実、戦争や暴力や裏切りという現実を見れば見るほど、どこにも救いはないと思えてきます。しかし神はこの現実の中で私たちを救われるために行動されるとイエスは言われます。

2.救いの約束

・聖書は、終末は既に始まっていると言います。それは人間が誕生し、死んでいくと同じくらいに確かなことだと言います。先日(11月23日)、放映されたNHKスペシャル「癌~生と死の謎に挑む」を見ました。作家の立花隆さんが膀胱癌になり、再発するかもしれないという状況の中で、癌とは何かをいろいろな研究者にインタービューしていった番組でした。その結果、わかったことは、人間は生まれた瞬間に、将来癌細胞になる遺伝子がインプットされているということでした。人体の組織を形成するIPS細胞は4つの遺伝子から構成されていますが、そのうち二つはやがて癌になる遺伝子だということです。つまり、人間を含めた生物は生まれた時から死ぬための細胞を保持している、突き詰めれば、人は誕生と同時に死への道を歩き始める存在なのだということです。
・同じように、終末も既に始まっています。キリストの復活は、終末の日に起こる「死者の復活の初穂」(1コリント15:20)です。キリストの復活によって終末は既に始まり、キリストの再臨によってそれは完成し、私たちはキリストの復活と再臨との間の中間の時、終わりの始まりの時にいるのです。その終わりの時を生きる私たちは、既に罪が赦され、永遠の命が約束されていますが、その約束はまだ成就していない。だから、罪を赦された者として、それに相応しく生きる。だから、私たちは教会に来て神の言葉を聞いていきます。教会とは既に生起した神の国の前線基地だからです。
・この終末が始まっていることを知ることによって、私たちの生き方は変わってきます。私たちはこの世で悪を為しながら栄える人がいることを知っています。また、誠実に生きながら報われない人生をおくる人がいることも知っています。しかし、それで良いのです。矛盾に満ちた現実は必ず終るからです。キリストが来られ、十字架につけられ、その死から甦られたことは、この世がやがて終ることのしるしです。そのしるしを見つめなさいと聖書は言います。29節からの無花果の例えはそれを示しています。寒い冬の時に無花果はすべての葉を落としますが、春が来ると葉が出てつぼみが現れ、夏が来てそれが熟して美味しい実となります。冬に裸の無花果の木を見る人は、夏の収穫が見えません。しかし、無花果の木は寒い冬の間に芽を出す準備をし、春になれば実をつけ、夏になれば豊かに成熟するのです。
・無花果さえ季節になれば実をつけ、熟していくのに、神の言葉が成就しないことがあろうかとイエスは言われます「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」(21:33)。終末を生きるとはこの約束を覚えて生きることです。世の人々は、今の状態が何時までも続くと思い込んでいます。だから、この世から取れるものは何でも取ろうと貪欲に生きます。しかし、キリスト者は自分の生が終るように、この世も終ることを知っていますから、世と世の出来事に執着しません。お金よりも大切なものがあることを知っていますから、天に宝を積みます。天に宝を積むとは、この世では損をすることです。返すあてのない人にお金を貸し、感謝を受けることなしに人に尽くすことです。世界では多くの人が食べるものに事欠き、戦争の中で死んでいる現実があることを知りながら、自分一人は大きな家で快適に暮らし、贅沢な食べ物を食べ、立派な車に乗っている人は眠っている人です。イエスは彼に言われます「目を覚まして祈りなさい」(21:36)。

3.救い主を待望して生きる

・今日の招詞にヨハネ黙示録22:20を選びました。次のような言葉です「以上すべてを証しする方が、言われる。『然り、私はすぐに来る』。アーメン、主イエスよ、来てください」。ヨハネ黙示録は迫害に苦しむ教会に宛てて書かれた手紙です。紀元95年ごろ、アジア州の諸教会はローマ帝国の迫害に苦しんでいました。皇帝ドミティアヌスは自身の像を作って町々に置き、「神として拝め、拝まない者は殺す」という政策を取りました。国の統一のために皇帝礼拝を強制し、従わない者を排除していく国策を取ったのです。キリスト者たちは、神以外のものは拝まないという態度を取ったため、多くの者が投獄され、ある者は殺され、黙示録の著者ヨハネもパトモスという孤島に流されています。キリスト者たちは「神は何をしておられるのか。何故私たちを助けてくれないのか」と叫び、その信仰が揺らぎ始めていました。その時、ヨハネは神の幻に接し、その幻を手紙に書き記し、迫害にあえぐ諸教会に送りました。それがヨハネ黙示録です。ヨハネは主の言葉を記します「私はすぐに来る」、キリストが来られる、この苦しみはいつまでも続かないとヨハネは叫んでいます。
・「私はすぐに来る」、現在の苦難はやがて過ぎ去る、多くの人々がその言葉に希望を持ってきました。本日の説教後に歌います讃美歌560番「夜は更けゆき」もそのような信仰を示しています。この歌を作詞したのは、ドイツの詩人、ヨッヘン・クレッパーで、1937年の作詞です。1937年はドイツではナチスの暴力的な支配がいよいよ強まり、ユダヤ人迫害が始まった頃です。クレッパーは著名な作家でしたが、ハンニという名前のユダヤ人女性と結婚していました。彼女は離婚した前夫との間に二人の子どもがいましたが、彼はこの親子三人を心から愛し、ベルリンに自分たちの家庭を築きました。しかしヒトラーは、ユダヤ人追放を加速し、クレッパー自身もユダヤ人と結婚しているという理由で、帝国著作家協会から除名されます。この頃から、クレッパーは讃美歌の作詞に心を傾け、苦難の中で神に委ねる信仰を歌うようになります。その代表的な歌がこの賛美歌です。「夜は更けゆきやみは迫り、行く手は見えず暗きに泣く、されど友らよ朝は近し、ひかる明星望みて待たん」(1節)、現在どのように闇が深くともその闇を破って朝が来ると彼は歌います。
・それから4年、ナチスはクレッパーにユダヤ人妻を離婚せよと迫りますが彼は拒否します。最後には妻と子は強制収容所に送られることになり、その前夜、クレッパーと家族は自宅で、ガスの元栓を開き、死んでいきます。1942年のアドベント、12月10日の夜でした。クレッパーは最後の夜の日記にこう書きました。「午後、国家安全局と交渉。私たちはこれから死ぬ ああ、このことも神のみむねの中にある。私たちは、今夜、一緒に死ぬ。この最後の時、私たちのために闘ってくださるキリストの祝福する像が私たちの頭上に立っている。その眼差しの中で私たちの生は終わるのだ」。クレッパーは絶望して死んだのではありません。彼は妻と子の尊厳を守るために、死を選び取っていったのです。彼は書きます(4節)「悩み苦しみ襲い来とも、星は輝き朝は来る、神に向かいて顔を上げよ、救いの光汝を照らさん」。
・クリスマスの夜、その闇の中に御子は光として降臨されました。その闇の中に歩み入り、御自身が闇に飲まれるようにして、飼い葉桶に生まれ、十字架の死を遂げられます。ヘブル書の著者は言います「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」(ヘブル5:7)。ご自身も肉の弱さを身にまとっておられた故に私たちの弱さを赦してくださる方が今天におられ、私たちを救うために「私はすぐに来る」と約束しておられます。その約束を信じて「アーメン、主イエスよ、来てください」と告白する時こそ、アドベントの時なのです。

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