江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2009年11月15日説教(マルコ13:24-32、主イエスよ、来たりませ)

投稿日:2009年11月15日 更新日:

1.終末についてのメッセージ

・この1年間、聖書日課に従ってマルコ福音書を読んできましたが、マルコの学びは今日の13章をもって最終になり、次週からは主にルカ福音書を通してクリスマスの福音を聞いていきます。クリスマスとは暗い夜空に明るい光の出現を望む時です。光を待望する者はまず闇、この世の現実を見なければいけない。今日のマルコ13章は闇の世界の物語、終末についての話です。
・今日の箇所は、マルコ13章5節に始まり37節まで続く長い説教の一部です。13章の始めにこの説教が語られた状況が記されています「イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った『先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう』」(13:1)。ガリラヤから出てきた弟子たちはエルサレムの都の壮麗な神殿の建物を見て圧倒されます。彼らはこれこそ確かなものだと思ったのでしょう。それに対してイエスは言われます「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(13:2)。この神殿は崩壊するだろうとイエスは言われたのです。当時、人々の信仰の中心はエルサレム神殿でした。その神殿が崩壊するとは信じられない、また仮にそのようなことが起きれば、それは世の終わりだと弟子たちは思いました。だから弟子たちはイエスに尋ねます「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか」(13:4)。それに対してイエスが語られた長い説話が、今日の終末預言です。
・最初に戦争や地震、飢餓が起こり、各地が騒然となると預言され、その中でキリスト者が信仰ゆえに迫害され、またエルサレム神殿が敵の手によって崩壊することが預言されます。その後に終末の出来事が起こるとの預言が続きます。「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる」(13:24-25)、「天地が揺り動かされる」、この記述はイザヤ13:10からの引用で、決定的な神の裁きの日の到来を表すしるしです。また次の「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来る」(13:26)という記述はダニエル書に基づいています。ダニエル書は記します「夜の幻をなお見ていると、見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り、『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない」(ダニエル7:13-14)。本来、「人の子」という言葉は人間一般を指す言葉でしたが、この箇所から特別な意味を持つようになりました。「神が最終的に遣わす審判者」という意味です。この箇所でマルコは、栄光のうちに再び来られるキリスト(再臨のキリスト)を「人の子」と呼んでいるのです。

2.どのような背景の中で、この終末預言は語られたのか

・聖書で「世の終わり」についてのメッセージが語られる背景には、「迫害」という厳しい現実がありました。紀元前2世紀に書かれたダニエル書はその典型です。この時代はギリシアから起こったヘレニズム王朝がパレスチナを支配していました。特にセレウコス朝シリアのアンティオコス4世エピファネス王の時代に、ユダヤ人に対する厳しい宗教迫害が起こりました。神殿にはギリシアの神々の像が持ち込まれ、ユダヤ人は先祖伝来の律法に従って生活することを禁じられました。熱心なユダヤ教徒の中には殉教する人もいました。それは神に忠実であればあるほどこの世で苦しみを受けるという時代でした。その中で、「この悪の世は過ぎ去る。神の支配が到来し、正しい者は救われる」と語り、迫害の中にいる信仰者を励まそうとしたのがダニエル書です。
・終末のメッセージは希望のメッセージです。たとえ現実がどんなに不条理で悲惨であっても、その時代は過ぎ去り、最終的に神の御心が実現する。イエスが予告された「偽キリストの出現、戦争や天災、弟子たちへの迫害、神殿の崩壊」などという出来事は、マルコ福音書が書かれた時代には、もうすでに実際に起こっていることでした。その中で、実は救いの日は近づいているのだ、とイエスは語られるのです。それを示すのが次のいちじくの木の例えです。「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」(13:28-29)。
・他方32節には、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」という言葉があり、続く33節には「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである」とあります。ここでは終末がいつであるかは分からないという面が強調されていて、むしろ警告のメッセージになっています。世の終わりはまだ先のことだと思い、生き方がなまぬるくなり、自分の利益や目先の快楽に振り回されているとき、「そうではない。神の決定的な裁きは突然やってくる」と語ることによって、神のみ心にかなう生き方をするように、と警告するのです。イエスはこの中で「私の言葉は決して滅びない」(13:31)と語ります。13章の始めで弟子たちは、目に見える神殿こそが確かなものだと思い、そこに信頼を置こうとしました。しかしイエスは、それはいつか滅び去るもので頼りにならないと説きます。だからこそ決して滅びないものに、弟子たちの目を向けさせているのです。

3.私たちはこの終末預言をどのように聞くのか

・今日の招詞として1コリント13:13を選びました。次のような言葉です「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」。先に見ましたように、マルコ13章はイエスが神殿崩壊とそれに続く終末預言を為される内容になっていますが、その内容はイエスの言葉をマルコが編集したものです。マルコ福音書は紀元70年のエルサレム崩壊時の混乱の中で書かれています。イエスの時代、既に、ローマに対する民族主義的反乱が各地に頻発し、世情は騒然としていました。イエスもまたローマに対する反乱者、偽メシアとして逮捕され、処刑されたのです。そのローマに対する民族主義的騒乱は、やがて紀元66年には植民地解放闘争として、ローマに対する戦争(ユダヤ戦争)にまで拡大して行きます。
・「武器の力を持ってローマを制圧し、エルサレムの神殿を全世界の中心となし、イスラエルに世界支配を許す神の奇跡に信頼しよう。その時、天からマナが降るであろう」との独立主義者の言葉に、イスラエル全土が熱狂的に反乱に加わり、一時はエルサレムからローマ軍を追放し独立政府を作りますが、結局はローマに制圧され、紀元70年にエルサレムは破壊され、神殿も燃えて、国は滅びます。マルコ13:14「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら・・・ユダヤにいる人々は山に逃げなさい」とは、ローマ軍がエルサレムを包囲し、神殿に入ろうとしている状況下で、マルコが教会の信徒に「エルサレムから逃げよ。混乱に巻き込まれるな」と叫んでいる言葉です。並行箇所のルカはもっと直接的に紀元70年の出来事を語ります「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい」(ルカ21:20-21)。誤った熱狂主義に巻き込まれるな、神殿崩壊は不信仰のイスラエルに対する神の裁きだとマルコは見ているのです。
・13:21節以下の言葉「そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。だから、あなたがたは気をつけていなさい」とは、エルサレムに留まって共に戦えというユダヤ人同胞の誘いに乗るな、今は終末の時ではない、惑わされるな、死ぬなとのマルコの訴えなのです。マルコは国家存亡の危機にある信徒たちに、自分の編集したイエスの言葉を伝え、「道を誤るな」と伝えているのです。エルサレムにいたキリスト者たちはこの勧めに従い、戦乱の都を逃れて、ヨルダン川東岸のペラに逃れ、滅亡をまぬかれました。「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26:52)、このイエスの教えに従い、民族滅亡の迫る中で、卑怯者、裏切り者と同胞に言われながらエルサレムを去ったキリスト者によって、福音は守られ、保持されたのです。イエスの言葉が彼らを救った、まさに「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」(13:31)という出来事が起こりました。福音書はイエスの伝記ではなく、福音書記者がイエスの言葉を、「今、どのように聞くか」を示した釈義、信仰告白の書なのです。
・信仰告白の言葉であれば、私たちも自分の置かれた状況の中で、イエスの言葉を聞いていく必要があります。癌の末期を宣告され、残された命がいくばくもないことを知らされた人は、「まだ世の終わりではない」(13:7)という言葉を慰めの使信として聞きます。事業に失敗して破産し、債務者に責めたてられている人は、「これらは産みの苦しみの始まりである」(13:8)とのイエスの言葉を励ましとして聞きます。そして慰められ、励まされて立ち上がった人々は、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(13:13)との救済宣言を聞くのです。
・終末信仰とは、何年何月に「世の終わりが来る」と言うものではありません。「天地は滅びる」、この世の権威や地位や制度が滅びることはありうる、だからこの世の出来事を絶対化しない。事業の失敗や破産、失業、離婚による家族の崩壊、重篤な末期癌も、あるいは心の病さえも終末のしるしではなく、「産みの苦しみの始まり」なのです。そして私たちは「私の言葉は決して滅びない」というイエスの宣言を聞きます。主により頼む者は主の憐れみを受けます。「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」。イエスの愛に留まることの出来る者は、どのような状況下でも決して絶望せず、希望を持ち続けることが出来る、それを信じることこそが「終末の信仰」です。

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