1.二度とめぐってこない救いの時
・イエスのエルサレムへの旅はガリラヤに始まり、ヨルダン川を降ってきて、エリコの町まで来ました。エリコはエルサレムの東20キロメートルのところにあり、エルサレムまで歩いて一日のところです。エルサレムへの旅も終わりに近づいています。このエリコでイエスは一人の盲人と出会われます。バルティマイです。今日はこのバルティマイとの出会いの出来事を通して、信仰とは何かをご一緒に考えていきます。
・マルコは記します「一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、『ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください』と言い始めた」(10:46-47)。彼はイエスを「ダビデの子」と呼びます。ダビデはイスラエルを統一した王で、メシアはダビデの子孫から生まれると当時の人々は理解していました。バルティマイはイエスに「メシアよ、私を憐れんでください」と叫んだのです。
・イエスはガリラヤで数々のいやしと不思議な業を為されました。イエスの評判は高まり、イエスがエルサレムを目指して旅立たれた時、多くの群衆が同行するようになります。人々の間からは「この人こそメシア、救い主、エルサレムで王位に就かれるために今急いでおられる」との声が聞こえてきます。弟子たちの期待も高まっています。その時、この物乞いバルティマイの声が聞こえたのです。彼は目が見えないため、物乞いをしていました。他に生きる手段がなかった。障害者は罪人だとして市内に入ることを禁じられていましたので、彼はエリコの城門の外にいて、城門を出てこられるイエス一行と出会いました。
・弟子たちはエルサレム入城を前に興奮状態にあります。彼らは大声で叫ぶ物乞いを叱りつけます「先生はエルサレムに急いでおられる。今は大事な時、おまえにかまっている時間などない」。弟子たちは黙らせようとしますが、効き目はありません。バルティマイは叫び続けます。イエスの為されたいやしの業を彼は人から聞いて知っていいます。「この人ならば病気をいやしてくれるかも知れない、この時を逃したらもういやされる機会はない」と思うから必死なのです。二度とめぐってこない救いの機会を逃すわけにはいかないのです。「ダビデの子イエスよ、私を憐れんで下さい」と彼は叫び続けます。
・もし癒されなければ、目が見えないままであれば、明日からまた道端で物乞いをするしかありません。必死の叫びがイエスに届きました。母親が幼な子の叫びに耳をふさぐことが出来ないように、イエスもまた、求める人の叫びに耳をふさぐことは出来ないのです。イエスは立ち止まって「あの男を呼んで来なさい」と言われます。弟子たちがバルティマイのところに行き、「立ちなさい。先生がお呼びだ」というのを聞いて、バルティマイは「上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに」来ました(10:50)。全ての人がバルティマイを「うるさい、邪魔だ」という中で、「この方は自分に目を留め、自分を呼んでくださった」、そのバルティマイの喜びが私たちにも伝わってくるような記述です。
2.あきらめない信仰
・イエスはバルティマイに聞かれます「何をしてほしいのか」。先に弟子のヤコブとヨハネがイエスに願い事をしたときに言われた言葉と同じです(10:36)。バルティマイは答えます「先生、目が見えるようになりたいのです」(10:51)。この「目が見える」という言葉の原型は「アナ・ブレトウ(再び見える)」です。バルティマイは中途失明者だったのです。現在でも発展途上国では白内障やトラホームによる中途失明が多くあります。イエス時代のパレスチナではもっと多くの中途失明があったと思われます。彼はイエスを「ラボニ」と呼びます。単なる先生(ラビ)ではなく、私の先生(ラボニ)、マグダラのマリヤが復活の朝、園でイエスに出会った時言った言葉がこの「ラボニ」です(ヨハネ20:16)。バルティマイはイエスと初対面ですが、イエスをラボニと呼びます。彼はなんとか視力を回復してもう一度人生を生き直そうと願っていた、この方ならばそれを可能にしてくださる、その切々たる願いが「ラボニ」という呼びかけの中にあります。
・イエスは彼の信仰に感動されました。そして言われます「あなたの信仰があなたを救った」(10:52)。前に長血を患う女性が病から解放されたい一心でイエスの衣に触れた時にも、イエスは「あなたの信仰があなたを救った」と言われています(5:34)。必死の思いは伝わり、その願いは適えられるのです。バルティマイは叱られてもけなされても、「私を憐れんでください」とイエスにすがりました。長血を患う女性は「この方の服にでも触れれば」(5:28)と思い、群集を掻き分けてイエスの服に触れました。「この方なら何とかしてくださる」という必死の思い、あきらめない信仰が救いをもたらすのです。
・イエスはあきらめない信仰の見本として、「不正な裁判官とやもめの例え」を話されています。このような例えです「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、私を守ってください』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、私をさんざんな目に遭わすにちがいない』」(ルカ18:2-5)。不思議な例えです。この例えを話された後でイエスは言われます。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている、選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか」(ルカ18:6-7)。
・盲人バルティマイの粘り強い、しつこいとも思える信仰の態度は、やもめと似ています。バルティマイは周囲にいくら止められても「イエスよ、憐れんでください」と叫び続け、その叫びがイエスに届き、「何をしてほしいのか」という言葉を引き出しました。弟子のヤコブとヨハネがイエスに「先生、お願いがあります」と近づいて来た時と比べてみてください。その時も「何をしてほしいのか」というイエスの言葉を引き出しましたが、弟子たちの願いはバルティマイのように必死なものではありませんでした。ここに聞かれる願いと聞かれない願いの区分があります。
3.どこまでも求めていく信仰
・今日の招詞にマタイ7:7-8を選びました。次のような言葉です。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」。
・私たちはバルティマイのように直接イエスにお目にかかって願い事をするわけにはいきません。しかし毎日の祈りで求め続けることは出来ます。イエスの言葉は「どのような困難に出会ってもあきらめずに求め続ければ、必ず求めるものに到達できる」という励ましになっています。同時に「誰でも」という言葉に着目する必要があります。この世の求めはそれを受けるに値する資格や条件が必要です。良い地位につくには、相応の学歴や資格が求められます。有名大学に入るには厳しい受験競争を勝ち抜くことが必要ですし、成功を望むならその分野に必要な才能や体力を必要とします。しかしイエスは「誰でも」と言われます。この「誰でも」故に、何も持たない無資格のバルティマイが救われたのです。イエスがバルティマイに求められたのは信仰だけでした。ここに福音があります。また「求めなさい。そうすれば、与えられる」という言葉は求めない者には何も与えられないことをも意味しています。どこまでもあきらめない、希望を持ち続ける、それが信仰なのです。
・バルティマイは癒しにより、目が見えるようになりました。彼はイエスが「家に帰りなさい」と言われたのにも関らず、イエスに従ってエルサレムに行きます。先に金持ちの青年は「全てを捨てて従いなさい」とイエスに言われましたが、従うことが出来ませんでした(マルコ10:22)。あまりにもたくさんのものを持っていたからです。バルティマイは従いました。何も持たなかったからです。ここに「持つことこそ幸せだ」とするこの世の価値観に対する一つの警告があるような気がします。
・エルサレムで彼が見たのはイエスを歓呼して迎える人々の群れだったでしょう。マルコはイエスのエルサレム入城を次のように描きます「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」(11:9-10)。人々はイエスをメシアとして歓迎したのです。しかし、やがてイエスは捕えられて裁判を受け、十字架につけられます。歓呼して迎えた群衆は、イエスが彼らの求めるようなメシアではなかったことを知り、「十字架につけよ」と叫びます。目が見えるようになったバルティマイも、このイエスの十字架刑を見たことでしょう。
・イエスは多くの人々をいやされましたが、福音書に名前が記されている人は少数です。バルティマイがその後どのような生涯を送ったのか、私たちは知りません。しかし彼がマルコの教会で名前が知られていたのは事実でしょう。そのため、福音書に名前が残りました。イエスはバルティマイがこれまでどれほど苦しんできたかを理解されました。その彼が目を開けられ、イエスの弟子になることが許され、十字架と復活の証人とされていきます。彼は繰り返し、イエスが自分に何をしてくださったかを語ったのでしょう。彼の叫び「イエスよ、憐れんでください」が、有名な祈祷の言葉「キリエ・エレイソン(主よ憐れみたまえ)」として記憶されるようになります。
・私たちは言います「私は目が見える。私は自分一人で生きていくことが出来る。私は満ち足りており、何一つ不自由なものはない」。しかし、私たちの生活は危ういバランスのもとにあります。祝福されて結婚をし、子が与えられても、仮にその子が障害者であれば家族の幸せは揺さぶられます。良い大学に入り、良い勤め先に就職しても、病気になり闘病生活が長引けば誰も振り返ってくれない世界に生きています。誰かに起こる不幸が私たちに起こっても不思議ではないのです。ある時恵みを取り去られて始めて、それまでの自分の生活が「主の恵みの中にあったからこそ平安であった」ことがわかります。その時、私たちは見えるようになり、「自分が惨めなもの、哀れなもの、貧しいもの、裸のもの」であることを知ります。バルティマイが中途失明者であったことは印象的です。私たちこそバルティマイであることが、苦しみを通して明らかにされます、その時私たちは叫びます「主よ、憐れんで下さい(キリエ・エレイソン)」。そして叫びは聞かれます。私たちもまたバルティマイのような救われた経験を持つゆえに、今日、この教会に来ているのです。