江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2009年1月25日説教(マタイ6:5-13、主の祈り)

投稿日:2009年1月25日 更新日:

1.主の祈りの中に、祈りの本質と基本がある

・昨年4月から、月一度の礼拝説教により、主イエスの「山上の説教」を学んでいます。今日はその10回目で、主の祈りです。6章5節からイエスの教えられた祈りについての記事が記されています。イエスはここで、祈る時の心構えと祈りの手本としての「主の祈り」を教えておられます。イエスはまず「偽善者のように祈るな」と言われて、人に見せるための祈りを戒められます。当時のユダヤ人は敬虔なふりをして、人にほめられるための祈りをしていました。神に向かっているふりをして人に向かって祈るから、偽善者の祈りになるのです。次に「くどくどと祈るな」と教えられました。人々は同じ言葉を繰り返し、言葉数が多ければ神に聞き入れられると思っていたのです。イエスはこのように誤った祈りを示された上で、どのように祈ればよいかの手本を示されました。それが「主の祈り」として、イエスが教えて下さった祈りです。今ではこの祈りに頌栄として「国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり。アーメン」を付け加えて祈っています。この祈りは教派を問わず、全世界で祈られています。祈りの基本、本質がこの「主の祈り」の中にあるからです。
・最初にイエスは、「天におられる私たちの父よ」と祈るように言われます。神に向かって「父よ」と呼ぶことは当時の人にとっては驚くべきことでした。人々にとって、神は裁きと怒りの神であり、とても「父よ」と呼びかける存在ではなかったのです。バプテスマのヨハネは言いました「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ・・・斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(マタイ3:7-9)。「斧は既に木の根元に置かれている」、退路を断った言葉で回心を迫っています。ヨハネは神の厳しさを表に出して、脅しとも取れるような激しさで回心を迫っているのです。このように旧約における神は厳しく、とても「父」とは呼べなかったのです。それに対してイエスは言われます「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである、だからこう祈りなさい」と教えられます。神は厳しい父性を持つと同時に、子を養う父としての役割もお持ちだとイエスは言われます。そしてイエスは、十字架でご自身を捧げることによって、神と私たちの間を執り成して下さり、私たちが、神を「父」と呼べるようにして下さったのです。「天におられる私たちの父よ」と言う祈りは、イエスの十字架の犠牲によって初めて実現した、“高価な祈り”なのです。

2.共同の祈り

・「私たちの父」、神が父であるならば、すべての人の父であります。「主の祈り」は「私の父よ」とは祈りません。「私たちの父」と祈ります。主の祈りは個人の祈りではなく、共同の祈りなのです。イエスは言われます「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる・・・どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、私の天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」(マタイ18:18-20)。ですから、教会は主の祈りを共に祈ります。「共に祈るからこそ意味がある」、この祈りこそまさに教会の祈りなのです。
・「御名が崇められますように」、神を讃える言葉です。神の存在を意識し、神の御名の尊さをほめます。それは同時に祈る者自身に誠実な生き方を求めます。1965年のベトナム戦争当時、日本の教会でも反戦の運動が行われ、青年たちは「祈っているだけでは何も変わらない」と言い出し、果てには「祈っても何の意味も無い」と祈ることを止めて、行動に走るようになりました。祈りを捨てて闘争的になった人々は、教会には戻ってきませんでした。祈りを否定することで神との絆が断ち切られ、信仰も失ってしまったのです。イエスは言われました「だれも、二人の主人に仕えることはできない・・・あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(6:24)。「富に仕える」、すなわちこの世のものに絶対の価値を置く者はこの祈りを祈ることが出来ません。私たちが「御名が崇められますように」と祈るとしたら、それは私たちがこの世の出来事よりも神の出来事を大事にしますとの誓約なのです。
・「御国が来ますように、御心が行われますように、天におけるように地にも」。主の祈りを構成している六つの祈りの、最初の三つは、神の栄えの現れることを祈ります。「御国」は神の支配の行われるところ、「御心」は神の意思、そして天において行われることが地でも、つまり人の世界でも行われるようにと祈ります。この世は罪の中にあります。人間の罪、「自分さえ良ければ良い」とのエゴイズムや欲望がこの世を弱肉強食の混沌の世にし、強い者は貪り、弱い者は悲しみと苦しみの中にあります。イエスは悲しみ、苦しみの中にある者たちを祝福されて言われました「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」(5:3-4)。貧しい者、悲しむ者こそ、神は愛して下さる。ですから私たちが「御国が来ますように」と祈る時、私たちは自分を強い者、貪る者とはしないとの誓約であります。主の祈りは祈る者の生き方を変えていく祈りなのです。

3.弱さの中にある者の祈り

・後半の四つの祈りは人間の限界を知る者の祈りです。最初の願い「私たちに必要な糧を今日もお与え下さい」は、ルカでは「私たちに必要な糧を毎日与えてください」(ルカ11:3)となっています。マタイもルカも今日の糧であり、明日も明後日もと願っているわけではありません。この祈りは、毎日の食べ物さえ得られなかった、当時の貧しい人々の祈りだったのです。かつての日本、敗戦直後は食べるものが無く、この祈りは切実な祈りでした。しかし今日の日本では飢餓は遠い存在であり、食べることの出来ない明日を想像できません。しかし現在でも、世界人口の1割、8億の人は飢えています。世界の穀物生産高は人口の2倍あるのに8億人が飢える、富の偏在の故です。「私たちに必要な糧を今日もお与え下さい」と私たちが祈る時、「飢えている8億の人は“私たちに”入るのか」が問われます。もし入るのであれば私たちは何らかの行動が迫られます。もし入らないと私たちが思い自分だけで食べている時には、最後の審判でイエスは言われるでしょう「お前たちは、私が飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかった」(マタイ25:42-43)。
・「私たちの負い目を赦して下さい。私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように」。神の赦しを願う者は、自らの赦しを願う前に他者を赦さなければなりません。他者を赦さない者は、赦される資格がないとイエスは言われるのです。最後に「私たちを誘惑にあわせず、悪しき者から救って下さい」と祈られます。私たちは自分でも気が付かない弱さを本質的に持っています。医者から「癌」との宣告を受けた時、動揺しない人はいないでしょう。会社から「解雇」を告げられた時、私たちの目の前は真っ暗になるでしょう。愛する人に裏切られることもあります。ある人はその傷に耐えることが出来なくなって死を選ぶかもしれません。試練に会い、誘惑に会った時に、冷静に対処できる人はほとんどいないのです。だから「私たちを誘惑にあわせず、悪しき者から救って下さい」と祈ります。主の祈りは弱者の祈り、自分の限界を知る者の祈りなのです。
・三浦綾子さんは普通の主婦でしたが、1964年に朝日新聞の懸賞小説に応募するために「氷点」を書きました。人の心の真ん中に「氷点」、溶かされない暗い闇、聖書でいう原罪があることを、物語化しました。これが入選し、その後彼女は多くのベストセラーを書くようになり、彼女の本を読んで、多くの人が教会の門をたたくようになりました。三浦綾子さんが何故このような働きが出来たのか、彼女が弱かったからです。彼女は病気のデパートと呼ばれるほどの闘病体験をしています。人生の三分の一を入院して過ごしています。この病気が彼女に人生とは何かを教え、彼女を偉大な作家にしました。ここに試みの意味があるのです。

4.赦し赦される祈り

・今日の招詞としてマタイ6:14-15を選びました。「 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」。
・武田清子さんの「わたしたちと世界」をご紹介したいと思います。武田清子さんは、近代日本思想史を専門にしておられるクリスチャンの学者で、この本は、中高生向けに書かれた岩波ジュニア新書シリーズの一冊です。彼女が若い頃、1951年9月、ヨーロッパからの飛行機がエンジン不調でフィリッピンのマニラに不時着し、修理が終わるまで、数日をマニラのホテルに泊まったことがあるそうです。敗戦後6年、当時は日本の若いクリスチャン女性が外国に来ることは珍しかった時代であり、教会のお世話で武田さんは多くのクリスチャン家庭から招かれました。以下は武田さんの言葉です「お訪ねしたどの家庭でも、話題は全て、日本軍占領下で自分たちがどのように苦しめられたかという話でした。自分たちの娘がどれほどひどい目にあって殺されたか。自分たちの息子が顔にあざが残るほど軍靴で蹴られ、奴隷のように働かされたか。まだ赤ん坊だった孫がボールのように投げられて落ちてくるところを銃剣に刺されて死んだ。自分の家も隣の家も日本兵によって焼かれてしまった・・・私は黙って聞き、ただ『申し訳ありませんでした』と謝る以外にはありませんでした。人々のなめた苦しい思い出が、日本の女性に出会い、堰が切れたように、口からあふれ出たのでした」。
・彼女は続けます「マニラに滞在中、こうした苦しい日が続きました。そしてある日のこと、フィリッピンの人たちが次のように語りました『よく毎日、私たちの恨みに満ちた話を聞いて下さいました。本当のことを言うと、私たちもこの苦しみから早く解き放たれたいのです。もうこれ以上、日本兵について恨み言を言うことも、日本人を憎むこともやめたいと思います』。赦しがたい日本兵、日本人に対して『自分たちも人を憎む苦しみから解放されたい。だからもう憎しみは持つまい』と言う言葉の中に、日本人を憎んで苦しむ自分たちも、日本人と共に神に赦しを乞いたいと願っているのだと言う意味が、私にもよく理解できました」と武田さんは結びます。
・何故私たちは赦さなければいけないのか、赦さないことによって、相手ばかりではなく自分もまた苦しむからです。赦すことにより赦される。アッシジのフランシスコの祈りを思い起こしてください。彼はこのように祈っています「ああ、主よ、慰められるよりも慰めるものとして下さい。理解されるよりも理解する者に、愛されるよりも愛する者に。それは、私たちが、自ら与えることによって受け、許すことによって赦され、自分のからだをささげて死ぬことによって、とこしえの命を得ることができるからです」。「与えることによって受け、許すことによって赦され」ていく、そのことを祈るたびに思い起こしていく祈りこそ、主の祈りなのです。

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