1.キリストの体である教会で何故争いが起こるのか
・教会内ではある時、争いが起こり、集められた民が散らされる出来事が起こります。教会はエクレシアと言われます。エクレシアとは「呼び集められる」と言う意味です。キリストの名によって召された者が集められ、神の言葉を聞き、それぞれの場で福音を伝えるために遣わされる場所です。ところがその教会で対立や紛争が生じるのです。争いの多くは、神学や教理をめぐる争いではなく、人間的な結びつきによるもので、この世の争いと変わりません。何故キリストの体である教会でこの世と同じような、人間的な争いが起こるのか。このような争いを私たちはどのように解決したらよいのか、それを私たちに教えるのが、コリント教会の経験です。
・今日、私たちはコリント第一の手紙3章1-9節を聖書日課に従って読みますが、その3章4節には次のような言葉があります「ある人が『私はパウロにつく』と言い、他の人が『私はアポロに』などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか」とパウロは書きます。何があったのでしょうか。手紙全体から推測すると、次のような事情があったようです。
・コリント教会は紀元51年ごろにパウロの開拓伝道により生まれました。巡回伝道者パウロはコリントに1年半滞在して教会の基礎を築き、その後を同僚のアポロに託して、エペソに移ります。アポロはアレキサンドリア出身の雄弁家で、聖書に精通し、その説教は多くの人を魅了したようです。アポロに惹きつけられた人々はこれまでのパウロの路線から、アポロ指導下に新しい方向に導かれることを望むようになっていきました。他方、創設者パウロからじかに教えを受け、導かれた人々は、そのような動きを、教会を誤った方向に導くものだと強く反対していました。アポロは雄弁家で、外見も立派だったと伝えられています。他方、パウロは朴訥でその説教はわかりにくかったようです。コリント教会のある人たちはパウロを、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」(�コリント10:10)と評していたようです。教会の人々は外見や説教で二人を比べ、「私はアポロに」、「私はパウロ」にと争っていました。コリント教会にはその他にもペテロ派と呼ばれるユダヤ人たちもおり、彼らは律法よりも恵みを強調するパウロに違和感を持っていました。そのような教会内部の争いがエペソにいるパウロにも聞こえてくるほどに大きくなり始めていたのです。
・このコリント3章を読む時、いつもため息が出ます。人間はバプテスマを受けても、受ける前と同じことばかりしているのだろうかというため息です。教会の混乱はコリントだけの問題ではありません。今日の教会でも、長い間牧会をされた牧師が引退されて、新しい牧師が招かれた時、新任牧師は自分なりのやり方で教会を導こうとします。その時、前任牧師を慕って来た人々は新しい牧師のやりかたに不満を持ち、「昔は良かった」とつぶやき始めます。他方、新しい牧師からバプテスマを受けた人々は前牧師派を「旧守派」として排撃し始めます。こうして教会内に争いが始まります。私が神学校で学んだ時、牧会学の先生はこのように言っていました「あなたたちが教会に赴任した時、最初の5年は苦労する。赴任した教会の信徒たちは前の牧師によって導かれた人々であり、あなたたちに違和感を持つだろう。あなたたちがバプテスマを授けた、あるいは導いた人々が教会の半数を超えた時、その時、教会はあなたたちの教会になる」。きわめて人間的な言葉ですが、真実をついています。
・真実ですが、それではいけないのだとパウロは言います。教会も人間の集まりであり、意見の対立や争いはやむをえないという考えに対して、パウロは教会はそれではいけないのだと言います。彼はコリント教会に書き送ります。「(あなたがたは)相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか」(3:3)。キリストのバプテスマを受けたあなたがたはもはや肉の人ではなく、霊の人なのだ。あなたがたがバプテスマを受けた時、あなたがたの市民権はこの世から天に移され、あなたがたは天の市民権を持ちながらこの世を生きる者にしていただいたのだ。それなのに、何故いつまで世の人と同じ歩みをしているのですか、それではキリストは何のために十字架につかれたのですかとパウロはコリント教会の人々に迫ります。
2.肉の人から霊の人へ
・パウロは人間には三種類の人がいると指摘します。まず2:14にある「自然の人」です。口語訳では「生まれながらの人」とあります。世の人、肉の人と言う意味でしょう。パウロは言います「(生まれながらの人)は神の霊に属する事柄を受入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです」。前にパウロは、十字架は「ユダヤ人には躓かせるもの、異邦人には愚かなもの、召された者には神の力、神の知恵」と語りました(1:23-24)。生まれながらの人は十字架を救いと受入れることは出来ません。この世の知恵で考えれば、あまりにも愚かしいと思えるからです。
・十字架を救いと受け止めるためには霊の働きが必要です。コリント教会の人々はこの霊を受けてキリスト者となりました。しかし、霊を受けても乳飲み子のままにとどまっている人が多いとパウロは指摘します。「兄弟たち、私はあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。私はあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません」(3:1-2)。教会に導かれたが、まだ自覚的な信仰を持たず、信仰に生かされていない人々です。彼らは、教会はキリストの体であり、アポロもパウロもキリストに仕える僕に過ぎないことを理解していません。だから「私はパウロに」、「私はアポロに」という愚かな争いをするのです。
・パウロが求めるのは「信仰に成熟した人」(2:6)です。固い食物を食べることの出来る人、パウロが植え、アプロが水を注いだかもしれないが、成長させて下さるのは神であることを理解できる人です。彼は言います「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。私は植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」(3:5-6)。教会を立て上げるのは、パウロでもアポロでもなく、神なのだ。それをわかって欲しいとパウロは訴えています。人間的な好き嫌いの感情の下に、「私はアポロに」、「私はパウロに」、という争いをするために教会に集められたのではないのだと。信仰の未熟者から成熟者になれとパウロは言います。
3.全てはキリストのために
・今日の招詞に第二コリント5:19を選びました。次のような言葉です。「神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちにゆだねられたのです」。
・今、東京バプテスト神学校では、10月から始まります後期に向けての準備を進めています。後期開講の目玉の一つが連続公開講座「信徒の神学」です。「教会において信徒はどのような役割を果たすべきか」を、15人の講師にそれぞれの専門分野から語っていただく講座です。その共通理解のテキストとして与えられましたのが、ヘンドリック・クレーマーの書いた「信徒の神学」(新教出版社刊)です。著書の中でクレーマーは次のように述べます「初代教会においては、信仰と生活は一致していた。しかし、現代においては、信徒は世俗的関心に忙殺され、真に信仰者として生きることが難しくなっている。神は世と関わりを持たれる方であるゆえに、教会もまた世のために存在する。しかし、現実には、教会の関心は、教会自身の増大と福祉に注がれてきた。教会は教会中心、自己中心的に思考し、世に対する関心は二次的であった。しかし、教会は宣教のための器として立てられた。宣教に専念し、世に向けて、御言葉を発信している教会では、分派や論争はおきにくい。主目的においての一致があるからだ。教会はキリストに仕え、世に仕えていく。そこでは牧師と共に信徒も宣教の業を担う。信徒こそが世に離散した教会である。教会は信徒を通じて、この世にキリストのメッセージを伝えていく使命を持つ」。
・教会が教会としての本来使命を果たしていないから、内輪もめばかりしていて、世に出て行く力がないのだとクレーマーは指摘します。この本は50年前に書かれましたが、その内容は少しも旧くなっていません。2000年前のコリント教会の経験が今日の私たちにも貴重な証言となっているように、です。クレーマーは47年前に日本に来ましたが、その帰国に当たって、次のようなメッセージを発信しています「諸君の間では教会生活と日常生活とが分離している。教会生活は日常生活のただ中にあってこそ生きる。パウロは『私は律法の下にある人には律法の下にある者のようになった。律法のない人には律法のない人のようになった。弱い人には弱い者になった。私は福音のためにはどんなことでもする』(�コリント9:19~23)と言った。相手の目線に合わせる姿勢が必要だ」。また、「日本のクリスチャン人口はわずか1%しかいないのに、どうして仲良く出来ないのか、私には解らない。内輪げんかばかりしている。イエスは『私たちが一つであるように、彼等も一つになるため』(ヨハネ17:11)と祈られたではないか」。クレーマーは、生活の中で証しする伝道こそキリストが私たちにお命じになったことだと言います。パウロもコリント教会への手紙の中で言います。「パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです」(3:22-23)。教会は牧師と信徒が共に形成するものです。宣教の最前線に立つのは信徒であり、牧師の役割は信徒が「奉仕の業に適した者となるように」教育し、励ますことです(エペソ4:12)。その牧師が教会の中心になった時、人々はキリストを忘れる。それがコリント教会で起こったことです。だからパウロは「私はパウロに」、「私はアポロに」、と争うコリントの人々に言います「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか」(1:13)。教会の真の牧者は牧師ではなく、キリストなのです。
・「一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のもの」、私たちの教会もこのような理想を持ちたい。私たちには「神と世の和解の言葉」が委ねられています。私たちには世を救う「福音」が委ねられているのです。パウロはコリント教会を「神の教会」、その信徒を「召されて聖なる者とされた人々」と呼びます(1:1-2)。争いばかり繰り返している教会の人々を、パウロは聖徒と呼びます。神に召された故に聖なる者とされたのです。私たちも「キリストの名によって召され、神の言葉を聞き、それぞれの場で福音を伝えるために」集められている、仲間割れや分派争いをしている時ではない。教会には違う者が集められています。しかし、主から使命を委ねられているという理解は一致している。この一致を持って教会を形成し、世に出て行くのです。「世にあって、世から自由であり、世に仕えていく」者として、私たちは今日ここに集められたのです。