江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2008年8月10日説教(ローマ7:15-25、罪に死に、恵みに生きる)

投稿日:2008年8月10日 更新日:

1.パウロの経験した限界状況

・最近、通り魔殺人事件が多発しています。今年の3月にはJR常磐線の駅構内で8人が殺傷されました。25歳の犯人は「死のうと思ったが死ねなかった。誰かを殺せば死刑になると思い、殺した。誰でもよかった」と供述しているそうです。6月には秋葉原で17人が死傷するという事件が起こりました。彼もまた25歳で、「社会に怒りを感じ、人を殺したかった。誰でもよかった」と言っています。7月には八王子の駅ビルで死傷事件がありました。犯人は33歳、「仕事がうまくいかず、むしゃくしゃしていた」と言っています。これらの通り魔殺人事件に共通しているキーワードは、「誰でもよかった」、「むしゃくしゃしていた」という言葉です。犯人がいずれも無職や派遣という不安定な職業状況にあったことから、その不満が背景にあるのではと指摘する声もあります。
・格差社会の進行が若い世代を苦しめています。労働の規制緩和により、学校を出ても新卒雇用をされない限り、派遣やアルバイト等の不安定労働にしかつけない人が増えています。現代日本では、雇用労働者の三分の一、1700万人はパート、アルバイト、派遣等の非正規雇用の形で働いています。その結果、収入が増えず、20-24歳層では、年収200万円以下の人が30%、25-29歳世代は14%もいます。30歳代になっても10%弱の人は年収200万以下です。200万円以下の収入では結婚して家庭を持つことは難しい。働いても当たり前の生活が出来ない、そのような若者が200万人を超え、彼らの中に、どうにもならない現状に対する怒りが鬱積しています。その怒りが人を社会への攻撃に向かわせます。社会に怒りをぶつけたい、しかし社会の姿が見えない。そこで通りかかった人に怒りをぶつける。そういう形でしか、怒りを解消できない人々の姿がそこにあるような気がします。
・人生にはどうにもならない不条理、自力では解決の方向が見えない苦しみがあります。病や貧困や死、あるいは罪という限界状況にぶつかった時、私たちはどうすれば良いのか。それを考えるヒントがローマ書の中にあるように思います。ローマ書の著者パウロもまた苦しみの声を上げていました。彼は言います「私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(ローマ7:15)。彼は続けます「私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」(7:18-19)。そして彼はうめきの叫びを上げます「私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか」(7:24)。何がパウロにこのようなうめきを上げさせ、そしてパウロはどのようにして、この地獄から解放されていったのでしょうか。
・パウロはキリキヤのタルソで生まれたユダヤ人でパリサイ派に属していました。裕福な家庭の出身で、著名なラビ・ガマリエルのもとで律法を学び、律法学者として立ちます。彼は、「同年輩の多くの者たちに比べ,はるかにユダヤ教に進んでおり,先祖からの伝承に人一倍熱心」であったと自らを語ります(ガラテヤ1:14)。その律法への熱心がパウロに、律法を軽視するキリスト教徒の迫害に走らせました。彼にとって、十字架で殺されたイエスを救い主として仰ぎ、律法を軽視するキリスト教徒は許しがたい存在でした。彼は「家々に押し入って、男や女を引きずり出し、次々に獄に送って、教会を荒らし回った」(使徒8:3)とあります。その彼がキリスト教徒を捕縛するためにダマスコに向かう途中で、突然の回心を経験します。天からの光に打ちのめされ、「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」という声を聞きます。彼は問います「主よ、あなたはどなたですか」。それに対して答えがありました「私は、あなたが迫害しているイエスである」(使徒9:5)。
・使徒言行録9章にその次第が詳しく書いてありますが、具体的に何が起こったのかはわかりません。わかることは、パウロが復活のキリストに会い、キリストの迫害者から伝道者に変えられたという事実です。そのパウロがキリストに出会う前にどのような状況に置かれていたかを記すのが、このローマ7章だと思われます。律法に熱心な者として戒めの一点一画までも守ろうとした時、彼が見出したのは、「律法を守ることの出来ない自分、神の前に罪を指摘される自分」でした。だからパウロは言います「内なる人としては神の律法を喜んでいますが、私の五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります」(7:22-23)。律法によって、自分の力によって、救いを得ようとした時、パウロが出会ったのは裁きの神でした。律法を通してパウロが見出したものは自分が罪人であり、その罪から解放されていない事実でした。だからパウロはうめきの声を上げました。その声に応えて復活のキリストが彼に現れました。キリストに出会ったパウロは言います「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」(8:2-3)。パウロは苦しみを通して、あるいは限界状況に直面して、自己の有限性を知り、神に出会ったのです。

2.ルターも同じ苦闘を経験している

・宗教改革者マルティン・ルターもパウロと同じ経験をしています。彼は、若い時には、厳格な修道院生活を送っていました。沈黙を守り、毎日を労働と祈りで過ごしていました。聖堂内部では厳しい監督と統制のもとで告悔が進められ、罪についての話し合いが行われました。修道士たちは床にひれ伏し、悔い改めます。このような沈黙と苦行の中で、神に近づくことが可能になると教えられていたのです。しかし、ルターには平安は与えられませんでした。ルターは激しい罪意識を抱くようになります。彼にとって神は、怒りに満ちた、裁きの神でした。しかし、そのルターに、突然、光が与えられます。大学の塔の中にあった図書室で示されたゆえに、「塔の体験」と呼ばれています。その不思議な体験を通して、彼は「人間は苦行や努力による善行によってではなく、ただ信仰によってのみ救われる。人間を義とするのは神の恵みである」という理解に達し、ようやく心の平安を得ることができました。パウロと同じように、律法や行いを通して救いを求めた時、神は怒りの神、裁きの神として立ちふさがりましたが、すべてを放棄して神の名を呼び求めた時、世を救おうとされる恵みの神に出会ったのです。この新しい光のもとで聖書を読み直したルターの福音理解が宗教改革を導いていきました。
・ルターは著書・ローマ書講解の中で次のようにのべます「神はその力を示すためにパウロを立たせられた。なぜなら、神はその選んだ者に、彼らの無力を示し、そのことによって、彼らが自己本来の力を誇ることのないようにするために、み力を隠される」。神は私たちの目には隠されている。私たちが人間の努力で救いを見出そうとする時、私たちは怒りの神に出会い、絶望せざるをえない。その絶望の中で神の名を呼び始めた時に、私たちを救うためにその一人子を犠牲にされた愛の神に出会う。この愛の神との出会い、福音を通して人は始めて平安を得ることが出来るのだと。
・パウロとルターの経験が教えますことは、生まれながらの人は自分の限界を知らず、自分の力で何でも出来ると思う故に、その人に砕きが、あるいは限界状況が、与えられるという事実です。ある人には、失業や事業の失敗という形で、別の人には病気や近親者の死という形で、あるいは夫婦や親子の不和が与えられる人もあります。そのような限界状況、あるいは不条理の中に置かれて、人は初めて自分の限界を知り、自分を超えた者の名を呼び、神に出会い、平安を与えられるのです。他方、私たちがこの苦しみや怒りを他者にぶつけた時、「むしゃくしゃしていた、怒りを感じ、人を殺したかった。誰でもよかった」と言う行為にさえなります。この怒りを人ではなく神に向けるべきだとパウロやルターは教えます。神がこの不条理を与えられた、何故私をこんなに苦しめるのですかと怒りをぶつけた時に、初めて人は愛の神に出会うのだと。

3. 罪に死に、恵みに生きる

・今日の招詞に、�コリント7:10を選びました。次のような言葉です「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」。コリント教会はパウロの伝道によって生まれ、成長してきました。しかし、いつの間にか、人々の気持ちが、パウロから離れて行きました。パウロはコリントを再訪しましたが、事情は好転せず、逆に非難を浴び傷ついて、エペソに戻って来ます。そのエペソから、パウロは「涙の手紙」と呼ばれる問責の手紙を書きました。パウロに対して侮辱を加えた人物に対し、教会からの除名を求める激しさを持っていたようです。パウロは教会員を責めるような手紙を出したことを後悔し苦しみますが、やがて手紙を見たコリントの人々が、パウロに謝罪し、悔い改めた事を知り、一転して喜びに満たされます。
・その経験から生まれた言葉が、招詞の言葉です。厳しい叱責の手紙を書いて、あなたがたを悲しませたが、それは必要な悲しみだった。その悲しみはあなたがたに悔い改めをもたらし、悔い改めが和解の申し出となった。悲しみには、人に悔い改めを迫る「御心に適った悲しみ」と、死に至る「世の悲しみ」がある。今あなた方が経験した悲しみは「御心に適った悲しみだった」のだとパウロは言います。私たちの人生の中で悲しみは、次から次へと襲ってきます。それを神が与えて下さったと受け止める時新しい道が開かれ、それを不幸なことだと嘆く時悲しみは私たちを押しつぶしてします。二つの悲しみがあるのではなく、私たちが悲しみをどのように受け止めるかによって、悲しみの内容が変わってくるのです。そして、悲しみから逃げて、それを他者や社会のせいにした時、その悲しみは人を通り魔殺人者にもするのです。もし通り魔殺人を犯した人たちが、このパウロの言葉に出会っていれば、状況は変わったかもしれません。
・パウロもルターも、自分の力で救いを見出そうとしていた時は、怒りの神、裁きの神にしか出会えませんでした。しかし、自己を棄て、神の憐れみを求めた時、愛の神に出会いました。これはパウロやルターのような偉人だけが経験する出来事ではありません。太平洋放送教会の月刊誌「PBA便り2008年6月号」を見ていましたところ、一人の男性の手記が掲載されていました。彼は書きます「手段を選ばず結果だけを求め、背伸びし、奢り、高ぶり、自力で生きていると錯覚し続けた私の人生・・・結果は過重労働からうつ病を発症。家庭からは笑いが消え、長女は不登校となり、妻は度重なる苦労の中で家を出る決心をしていました。ちょうどその時、両足の股関節が壊死する難病も発症、長期の失業となり、経済的にも破綻をきたし、父が脳梗塞で倒れ認知症となり・・・数多くの苦難が降りかかり、自暴自棄になっていた昨年夏の日曜日の朝、たまたま見たテレビ番組が“ライフライン”でした。何故、番組を見て感動したのかわからないままに太平洋放送教会に連絡し、教会を紹介していただき、翌週から教会に通い始めました。・・・何の役にも立たない人間と思っていた私が、神に愛される存在と信じることが出来るようになり、些細なことにも感謝できるようになりました」。
・この人もまたパウロやルターと同じ経験をしたのです。“テレビを見た”、“電話した”、“教会に行った”、求めた故に、悲しみから逃げなかった故に、彼は愛の神に出会ったのです。聖書の言葉が、例えばローマ7章の言葉、あるいは今日の招詞の言葉が自分に無縁だと思うとき、それは単なる言葉です。しかし、それはパウロが体験し、ルターが体験し、私たちもまた体験した事柄であることを知る時、それは神の言葉になっていきます。今、私たちは罪に死に、恵みの中にいます。この良き知らせを携えて、私たちは世に遣わされて行くのです。

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