江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2008年2月10日説教(マタイ4:1-11、人生における試練の意味)

投稿日:2008年2月10日 更新日:

1.荒野の試み

・先週の2月6日「灰の水曜日」から、私たちは受難節に入りました。今年の受難節は2月6日から3月23日「復活日」までの40日間(除く日曜日)です。英語では受難節のことをLent=断食と言います。ラテン語では「四十」を表す言葉が用いられます。いずれも、キリストが荒野で40日間断食され、苦しみを受けられたから、私たちもこの時を覚えていこうというものです。そして今日は、受難節第一主日ですので、聖書日課に従って、荒野の試練の物語を共に読みたいと思います。
・イエスは宣教の始めにバプテスマを受けられましたが、この時、天から声が聞こえたとマタイは記します「これは私の愛する子、私の心にかなう者」(3:17)。イエスが、ご自分が神の子として世に遣わされたことを自覚されたのは、この時であったと思われます。「神の子、メシヤとして何をすれば良いのか」、それを聞くためにイエスは荒野に導かれました。
・最初の試練は、40日間の断食の後に来ました。40は聖書では試練を示す象徴的な数字です。モーセがシナイ山で十戒を受け取る時、40日間断食しました。エリヤが神と出会うために荒野を歩いた日数も40日です。そしてイエスも40日間断食された。断食して空腹になられたイエスの耳に、声が聞こえました「神の子なら、石がパンになるように命じたらどうだ」。声はささやきます「多くの人が、パンがなく飢えている。石をパンに変えれば、みんなが食べられるではないか。それが神の子の使命ではないのか」。「神の子なら」、イエスには石をパンに変える力が与えられています。しかし、イエスは言われます「人はパンだけで生きるものではない」(4:4)。
・二番目の誘惑は、「神の子なら、神殿の屋根から飛び降りたらどうだ」というものでした。奇跡を起こして、神の子であるしるしを人々に見せよと言う誘惑です。イエスは奇跡を行う力を持っておられました。後に、イエスは多くの病人をいやされています。その力を自分のために用いればよいのです。神の子なら力を用いよという誘惑に、イエスの心は動いたでしょう。しかし、イエスは答えられます「あなたの神である主を試してはならない」(4:7)。
・三番目の誘惑は、「私を拝むならば、世の栄光をお前に上げよう」という誘いでした。当時の人々が求めていたのは、イスラエルをローマの支配から解放する栄光のメシヤでした。国の独立を人々は求めている、お前は人々を束ねる力を持っている、それこそメシヤの為すべきことではないかとサタンは誘います。イエスがガリラヤで5千人を養われた時、人々はイエスの力に驚き、イエスを王にしようとします(ヨハネ6:15)。しかし、イエスは人々を避け、一人山に登って祈られます。イエスは、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と言われて、この誘惑を退けられました。

2.荒野の試みの背景にあるもの~申命記を読む

・イエスが体験された荒野の試練は、いずれも「神の子なら」という問いかけで始まります。「神の子なら」、救い主として何をすべきかをイエスが模索された物語です。従って、直接的にはイエスの物語であり、私たちには無縁です。何故なら、石をパンに変えたり、奇跡を起こしたりは、私たちには誘惑にならないからです。それでも、この物語は私たちの物語です。イエスは誘惑に対して、いずれも申命記の言葉を引用して答えられました「人はパンだけで生きるものではない」(申命記8:3)、「あなたの神である主を試してはならない」(申命記6:16)、「ただ主に仕えよ」(申命記6:13)。マタイは、この物語を理解するために申命記を読めと私たちに命じています。ですから、私たちも申命記をひもときます。今日の招詞に申命記8:3を選びました。次のような言葉です「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」。
・申命記の背景にあるのは、イスラエルの出エジプトの体験です。エジプトで奴隷だった民はモーセに導かれてエジプトを出ますが、彼らが導かれたのは約束の地ではなく、荒野でした。荒野だから、食べ物に乏しい。食べ物がなくなると民は神を呪い、エジプトを出るのではなかったとつぶやきます「我々はエジプトの国で、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられた」(出エジプト記16:2-3)。その不平を言う民に、神は天からマナを与えて養われました。
・民が約束の地、カナンに導き入れられたのは、40年後でした。エジプトとカナンは隣の国、徒歩で2週間の距離なのに、民は40年間も荒野を歩かされたのです。イスラエルの人々は思ったでしょう。「最初にエジプトを出た仲間の多くは荒野で死んでしまった、これが救いなのか、神は私たちを愛しておられるのか」と。しかし40年間を振り返った時、彼らは神に感謝します「この40年間、まとう着物は古びず、足がはれることもなかった。神は荒野に共にいてくださったのだ」。
・エジプトを出たばかりの民は、恵みが与えられれば讃美しますが、困難が来れば神を呪う存在でした。あてにならない神の約束よりも、パンをくれるならエジプトの奴隷が良いとする存在でした。彼らはまだ理想も信仰もない烏合の衆でした。だから神は彼らを荒野に導かれ、十戒を与え、神の戒めに生きる民に育てようとされたのです。その試練を経て、彼らは、「人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出るすべての言葉によって生きる」と信仰を告白するまでになりました。これはパンが無くて飢え、神に叫び、神から養われた経験をした者でなければ、告白できない言葉です。試練を通して、初めてパンのありがたさがわかり、パンを与えてくださる神への感謝が生まれるのです。

3.荒野の試みは私たちも経験する

・荒野を歩くイスラエルの民は、私たちです。私は20歳の時に洗礼を受け、50歳で会社を辞めるまで、27年間、サラリーマンとして過ごしました。その27年を振り返って見れば、肉のパンを求める生活でした。決算で忙しい時は日曜日でも仕事に行き、大雪の日も、電車がストライキで止まっている時も、会社に行きました。他方、教会は、会社のゴルフコンペがあれば休み、家族と旅行する時も休みました。礼拝を休んでもペナルテイーはありませんが、会社を休むと出世に差し支えます。聖書の言葉で言えば、霊の糧よりも日毎のパンの方が大事でした。
・その自分が変えられたのは、45歳の時に経験した長男とのいさかいでした。些細なことで、高校一年生だった長男と喧嘩になり、持っていたグラスを長男に投げつけました。グラスは長男の膝に当たって粉々に砕け、彼の足からは、血があふれ出るように流れ出しました。救急車を呼び、病院に搬送しましたが、破片は深いところまで食い込んで、一部は膝関節にまで達していました。長男は翌日から私と口をきかなくなり、食卓も同じにしませんでした。そして、「クリスチャンのくせに」と私をののしりました。長男と毎日顔を合わせる苦痛の中で、自分は本当にクリスチャンなのだろうかと問いかける声が聞こえました。25年間も教会生活をしながら、何も変えられていないことがわかりました。この出来事を通して、自分の罪が明らかになったのです。その苦しさの中で46歳の時、夜間神学校に入り、4年間学びました。その学びの中で、本当に大事なものは会社、すなわちパンではないことに気づかされていきました。
・夜間神学校の学びを終えた時、勤務先が人員削減を行うことになり、希望退職の募集を始めました。50歳でした。時が来たとの思いで、会社をやめ、神学の学びを続けるために東京神学大学に入りました。その時、長男は大学生、長女は高校生でした。退職金で当面の生活のめどはつきましたが、その後どうなるかはわかりませんでした。「神は養ってくれるのだろうか」との不安がいつもありました。神学大を卒業した時、篠崎キリスト教会が牧師として招聘してくれました。1年後、東京バプテスト神学校の事務長の職にも招かれました。それから6年が経ち、今では長男も長女も大学を終え、それぞれの職についています。私たち家族も、イスラエルの民が経験したように、荒野の旅を経験しました。ですから、今は何のためらいもなく言えます「人はパンだけで生きるのではない」。何故なら、「パンは神が与えて下さる、だから神に身を委ねて生きよ」とイエスは言われたのです。

4.試練の意味

・申命記をもう少し読んでいきますと、約束の地に入った民がどうなったのかが書かれています。イスラエルの民は約束の地に入ると、定住して農耕生活を始めます。そうすると人は倉を建てて、作物を蓄えるようになります。その時、自分の蓄えに頼り、神を忘れ始め、偶像崇拝を始めます。神がいなくとも生きられるからです。やがて、豊かな人はますます豊かになり、貧しい人はますますに貧しくなるという社会的不公平が生じてきます。そこから振り返った時、人々は、「荒野の方が良かったのではないか。そこには神との生き生きした交わりがあり、人と人が助け合う生活があった」ことに気づき始めます。物質的な豊かさが人を幸福にしないことに気づいたのです。
・マタイは、「(イエスは)霊に導かれて荒野に行かれた」と記します(4:1)。イエスを荒野に導いたのは神の霊でした。つまり神がイエスに試練を与えられたのです。試練は神から来る。そしてこの試練は、私たちを滅ぼすためではなく、私たちを育てるために与えられる。イエスは石をパンに変えられませんでした。変えてはいけないのだと思います。苦労なしに与えられたパンは、人を養う力を持たないのです。パンがないことを通して、荒野の厳しさの中で、私たちは神と出会うのです。十字架の苦難を経なければ、復活の喜びはないです。人生における試練を神からの恵みと受け取る時、その試練は祝福になっていくのです。

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