1.十字架刑と死
バプテスト連盟では11月30日から12月7日まで世界祈祷週間として、世界伝道に対して考え、祈り、献金を捧げるための時間を持ちます。世界伝道に対して、私たちはどのように祈り捧げていけばよいのでしょうか。祈りが聞かれ、捧げたものが有効に用いられた場合は互いに喜べるでしょう。しかし、祈りが聞かれず、捧げものが用いられないこともあるかもしれません。そのような時に私たちはどのように考えたらいいのでしょう。今朝、オスカー・ワイルドの「幸福な王子」を通して、復活の信仰に生きて捧げ祈ることを共に考えたいと思います。
イギリスの小説家オスカー・ワイルドの書いた「幸福な王子」は、他者のために全てを捨て、与え、醜くなり、人々によって捨てられてしまう銅像の王子の物語です。銅像の王子は、通りすがったツバメの助けを得て、さまざまな苦労や悲しみの中にある人々に自分の体を覆っている金箔や宝石を分け与えていきます。最後は醜くなって、人々に捨てられ、王子の鉛の心臓と、寒さで凍え死んだツバメの死骸だけが残るという物語です。
オスカー・ワイルドは「幸福な王子」という童話を、イエスの姿の中に描いていると言われています。イエスは貧しい人、罪人、病人など、問題を抱え、苦難の中にあった人々に癒しと救いを与えました。イエスはその人々と共におられ、共に苦しまれたのです。
イエスの教えと行為は、律法を外形的に守ることを求めた伝統的な教えから逸脱していたため、ユダヤ教支配者からは妬みと憎しみを持たれました。また群衆は、ローマの支配からの解放を期待していましたが、イエスがそれを実現しないことに失望しました。その妬みと憎しみと失望からイエスは自分が殺されて死ぬべき運命であることを悟っておられました。死を受け入れる孤独の中で、イエスは共に苦しむ人を求めました。ゲッセマネでイエスは言われています「そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい』」(マルコ14:33-34)
しかしイエスには苦しみを共にする人は一人もいなかったのです。弟子たちは眠り(マルコ14:37)、イエスを捨てて逃げ(マルコ14:50)、群衆、祭司長、律法学者、兵士などはののしり(マルコ15:29)、十字架に共にかけられている者でさえもイエスをののしったのです(マルコ15:32)。イエスの苦しみはさらに極まります。人々だけではなく、父なる神からも見捨てられたと感じておられたからです。イエスの十字架上での叫びがそれを示しています。「三時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」(マルコ15:34)。
私たちがイエスの「十字架の死」までを見た時に、そこに苦しみからの救いはないように思われます。イエスの生き方は、他者に全てを与え、苦しむ人と共に苦しむ生き方でした。しかし、自分が苦しい時に共に苦しむ人はおらず、救いなく、死にいたったのです。人々はイエスのその姿をみて言いました。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」(マルコ15:31-32)イエスは人々を苦しみから救われましたが、自分のためにはその力を用いられませんでした。
2.復活の信仰に生きる
しかし、聖書はイエスが十字架の死だけで終わられなかったことを明らかにしています。イエスは復活されて弟子たちに姿を現わされました。与えた人々から捨てられ、苦しみ、みじめに死に、この世の価値観では敗北をしたイエスを、神は「良し」とされました。死から復活させ、敗北ではなく勝利した生き方としてくださったのです。復活のイエスに出会った弟子たちは、イエスの十字架死の意味をイザヤ53章の預言の中に見ました。「それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった。」(イザヤ53:12)。
オスカー・ワイルドは「幸福な王子」を、このイエスの復活の姿の中に描いています。人々に捨てられた王子を、神は「良し」とし、天に迎えいれます。そのことにより、絶望と皮肉で終わる物語が救済の物語に変えられて行くのです。ワイルドは幸福な王子の最後を次のように書いています。
「『おかしいなあ』鋳造所の労働者の監督が言いました。『この壊れた鉛の心臓は溶鉱炉では溶けないぞ。捨てなくちゃならんな』。心臓は、ごみために捨てられました。そこには死んだツバメも横たわっていたのです。・・・ 神さまが天使たちの一人に『町の中で最も貴いものを二つ持ってきなさい』とおっしゃいました。その天使は、神さまのところに鉛の心臓と死んだ鳥を持ってきました。 神さまは『よく選んできた』とおっしゃいました。『天国の庭園でこの小さな鳥は永遠に歌い、黄金の都でこの幸福の王子は私を賛美するだろう』」。
人々に与えつくして、報いを受けなかった王子とツバメを、神は最も尊いとして天に迎え入れてくださるのです。イエスの復活を信じるとき、幸福な王子の物語のように、私たちも希望を得られるのです。なぜなら、人に与え、苦しみ、神にさえ見捨てられたイエスが、復活されて、いつも私たちと共にいてくださると言っておられるからです。そのことを信じることで私たちは慰めと励ましと感謝を見出します。イエスは共に苦しんでくださり、やがて復活する希望を与えてくださるのです。
3.世界祈祷週間の祈り
イエスを信じた私たちには、その救いと教えを世界に伝えることが使命として与えられています。復活されたイエスは弟子たちに伝道を命じられました。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」(マタイ 28:19-20)
「すべての民をわたしの弟子にしなさい」、その宣教命令に応えて、宣教師になる人もいるでしょう。牧師になる人、献金を捧げる人、祈る人もいます。それぞれの与えられた賜物を用いて、捧げていくことが求められているのです。パウロは言います「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。」(�コリント12:27-28)。
しかし、私たちの奉仕と捧げものはこの世にあっては報いを得ないこともあるかもしれません。宣教に行っても失うことと苦しみばかりかもしれません。存在を忘れ去られるかも知れません。祈ってもこたえがないことや、捧げても無意味に感じることもあるでしょう。祈り捧げた宣教師が挫折してやめてしまう。母教会が内部の問題により崩壊する。祈っていた国の人が戦争で死ぬ。北朝鮮に拉致された横田めぐみさんのお母さん、横田さきえさんのように祈り続けて、活動をしても今もなおめぐみさんは戻っていないという現実もあります。しかし復活の信仰にたつ私たちは、イエスが既に苦しみを受け、復活をして共におられ、現世にて報いがなくとも、来世にて必ず報いが与えられることを知っています。そのことを覚え、希望を持って、この世界祈祷週間に自分に何ができるかを考えて行動していきたいと思います。(佐藤良)