江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2008年9月15日告別式説教(ヨハネ11:38-44、信じるなら神の栄光を見る)

投稿日:2008年9月16日 更新日:

・私たちは姉妹をお送りするためにここに集められました。姉妹は15歳の時に洗礼を受けられました。中学の先生に勧められて教会に行き、キリストと共に生きていくという決意をされたのです。その決意が多くの人を動かし、与えられた二人のお子さんは共に洗礼を受けられ、ご主人も結婚当初はクリスチャンではありませんでしたが、姉妹の熱意により、1991年に洗礼を受けられました。実に結婚後28年目の出来事でした。姉妹のキリストに従って生きようという15歳の時の決意が多くの実を結んだのです。
・姉妹の生涯を考えた時、まさに使徒ペテロの言葉が実現した生涯であったような気がします。ペテロは述べました「妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです」(�ペテロ3:1-5)。
・私たち、姉妹も私も、「人は死んでも生きる」と信じています。何故ならば、主イエスが復活されたからです。ですから、私たちは死を悲しい出来事とはとらえません。私たちは神に造られ、この地上の時を与えられ、時が来れば天に召されていきます。地上の生涯は死で終わりますが、天で新しい生涯が始まるというのが、私たちの信仰です。ベタニヤ村のラザロが死んだ時、イエスは言われました「私はよみがえりであり、命である。私を信じる者は、たとい死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ11:15-26)。
・ラザロの姉マルタは、「はい」と答えましたが、実は信じることができません。ラザロは死んでもう4日も経っているのです。葬儀や埋葬の時、私たちは亡くなった人をしのんで泣きます。死んだ人が、もう私たちの手の届かない世界に行ってしまったからです。イエスは「泣く必要はない」と言われました。しかし、マルタが泣き、その妹マリアもまた悲しみに打ち負かされている様を見られ、イエスは心に憤りを覚えられました。死が依然として人々を支配しているのを見て、憤られたのです。そしてマルタに言われました「墓の石を取り除きなさい」。マルタは答えます「四日も経っていますからもうにおいます」。イエスはマルタを叱責されます「もし信じるなら神の栄光が見られると言ったではないか」(11:40)。人々が石を取り除いたのを見ると、イエスは墓に向かって呼ばれました「ラザロ、出てきなさい」。死んで葬られたラザロが、手と足を布で巻かれたままの姿で出てきました。
・当時の人々は、人は死んだら陰府に行くと考えていました。陰府は沈黙の国、忘却の地です。死んだ人とはもう会えない。だから人が死ねば、みな泣く。私たちは死んだらどうなるのでしょうか。誰もわからない。わからないから、考えることをやめる。そして、「食べたり、飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」(1コリント15:32)として、過ごします。しかし、死を考えないようにして、現在を楽しもうとしても、何の意味もありません。今日の招詞にルカ22:42を選びました。「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください」。この杯、死は確実に訪れます。今日、私たちは姉妹の葬儀を執り行っていますが、次は私たちの番かもしれない。私たちもまた死に備えることが大事です。この人生は死で終わりなのか、それとも死を超えた命があるのか。真剣に求めるべき問いです。
・多くの人はベタニヤ村で起こった出来事を、歴史的出来事と信じることが出来ません。近代合理主義の影響を受けた私たちには、復活は信じることが難しくなっています。聖書学者の大半は、やがて起こったイエスの十字架死からの復活について「イエスの十字架の上での刑死は史実だが、復活はその史実としてのイエスの十字架の意味を、当時の神話的象徴で表現したものだ」と理解します。また、カトリック作家の遠藤周作でさえも「復活は歴史的事実であるというよりも、弟子たちの宗教体験と考えるべきだ」と言います。
・復活を信じることが難しい理由の一つは命についての理解に混乱があるかです。イエスは言われます「私を信じる者は死んでも生きる」。ここで言われている命は肉体的な命のことではありません。ギリシャ語の命には「ビオス」と「ゾーエー」の二つがあります。ビオスとは生物学的命、ゾーエーは人格的な命を指します。復活をビオス、生物学的命の問題と考えるゆえに、人は混乱します。ラザロが生物学的によみがえってもたいした問題ではありません。彼は再び死ぬからです。しかし、大事なことはラザロが生き返ったことではなく、ラザロのよみがえりを通じて、マルタが命である神に出会ったことです。復活はゾーエー、人格的な命の問題です。私たちはこの地上を「生ける者の地」、あの世を「死せる者の地」と考えていますが、真実は違います。全ての人が死にますから、この地上は「死につつある者の地」なのです。しかし、イエスを信じる時、状況は変わります。何故ならば、死んだラザロがよみがえったことを通して、神は死者をも生かされることが示されました。私たちもまた死んでも生きる存在に変えられる希望を持つことが許されました。イエスを信じる時、この地上が「生ける者の地、死に支配されない者の地」に変わるのです。そして信じた時、死は地上の生を終えた後の休息の場、新しい人生の始まりと変わるのです。
・姉妹はこの信仰をお持ちでした。肉体は滅びます。「すべての肉は共に滅び、人は塵に帰るであろう」(ヨブ記34:15)と聖書は言います。この後、私たちは姉妹のご遺体を火葬しますが、火葬の後では骨だけが残ります。その骨も砕かれれば、塵になります。人は塵ですから塵に帰ります。死はビオス、生物学的命を滅ぼします。しかしゾーエー、人格的な命を滅ぼすことはありません。イエスは言われました「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10:28)。
・この後、私たちは棺を開けて姉妹に献花しますが、ぜひ姉妹のお顔を見ていただきたい。安らかな、眠るようなお顔で姉妹は昇天されています。信仰ゆえに姉妹は安らかに死んでいかれた。姉妹は死を恐れてはおられなかった。ただ魂を滅ぼすことのできる者、生と死を支配される方を畏れられた。72歳になり、身体が弱ってきて、何度か死を考えられたと思います。しかし、死ぬことの不安はなかったのではないかと思います。不安はご自分のことよりも、二人のお子さんが教会から離れておられることにあった。姉妹は生前、「息子たちにもう一度、信仰に戻って欲しい、生と死を支配される方に信頼して生きる人生を歩んで欲しい」と願っておられました。ここに来られた方々が姉妹の死を通して、「命とは何か」、「死は全ての終わりなのか、それとも始まりなのか」を共に考えていただければ、姉妹も喜ばれることと思います。

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