1.姦淫は隣人をむさぼる故に罪である。
・この4月から、第四主日は、私(水口仁平)が、マタイによる福音書の山上の説教から、主要なテーマを順を追って話してきました。今日はその五回目で、主題は「姦淫してはいけない」です。「姦淫」と言う言葉を辞書で引きますと「男女が不倫な肉体関係を結ぶこと、あるいは個人の性的自由を侵害する犯罪」とあります。しかし、イスラエルの律法の基本であります十戒では「姦淫するな」という戒め(第七戒)は、「隣人の妻を貪るな」という戒め(第十戒)と共に読まれてきました。姦淫が罪になるのは相手の女性が人妻の場合だけであり、それは夫の所有物に対する侵害として禁じられたのであり、不倫あるいは自分の妻への不貞として禁じられたわけではありませんでした。つまり、人に対する罪ではなく、財産あるいは所有権に対する罪として禁じられていたのです。
・イエスはそのことの不合理を追求されました。イエスは姦淫を、所有物の侵害行為としてではなく、人間の尊厳に対する罪とされたのです。イエスは言われました「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、私は言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」。新共同訳は「他人の妻」と訳しますが、これは誤訳に近いと思われます。口語訳のように「女」と訳さなければ、イエスの真意は伝わりません。口語訳では次のように訳されています「『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、私はあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」。他人の妻であろうが、独身の女性であろうが、「情欲をいだいて女を見る者」はすべて罪を犯すのです。男性が情欲をいだいて女性を見る時、女性を隣人として、人格ある存在として、愛の対象として見ていません。単に情欲を満たすための道具にしてしまっている。これこそ隣人である女性を貪る行為ではないかとイエスは言われているのです。
・「姦淫の戒め」を考える時、聖書が男女の正常な性的営みを禁止しているのではないことを知る必要があります。それどころか、神は男女が肉体の交わりをすることによって、新しい命を生み出すことを祝福されています。創世記1:27-28は言います「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ』」。男女の性的な営みを通して、命が創造されることを神は祝福しておられるのです。しかし、「情欲をいだいて女を見る」ことによって、そこに罪が生まれます。罪を最初に犯すのは目です。情欲をいだいて女を見る故に、まずその目をえぐり出して捨てよと命じられます。また罪を実行するのは手です。だから、手を切り落とせと命じられています。イエスは言われます「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」(5:29-30)
2.愛を持って姦淫の罪を贖われる主
・ユダヤの歴史の中で最大の王といわれるダビデは、その目でまず罪を犯しました。ダビデは自分の家臣ウリヤの妻バテシバが水浴する姿を見て、彼女に情欲をいだき、王宮に招きいれ、床を共にします。そしてバテシバの夫ウリヤが邪魔になり、はかりごとを用いて彼を殺し、バテシバを自分のものにします。それを聞いた預言者ナタンはダビデを訪れ、このように言います「たくさんの牛と羊を持った男が、たった一匹の雌の子羊しか持っていなかった貧しい男から、その子羊を取り上げてしまった」。ダビデはこの話を聞き激怒して叫びます「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ」(サムエル記下12:5)。ナタンはダビデに迫ります「その男はあなただ」。王の座にある慢心から、ダビデは情欲をいだいて見た女をその夫から奪い、夫の命までも奪ってしまったのです。全ては情欲を持って女を見たことから始まりました。情欲はこのように恐ろしい、人間を死にいたらせる力を持っています。
・イエスは性の営みを禁止されているのではありません。ただ、性の営みが、「情欲を持ってなされる時、それは人を殺すほどの罪になりうる」と言われているのです。ちょうど、兄弟に対して腹を立てる行為が、やがてはその兄弟を殺すにいたる端緒になるようにです。創世記のカインとアベルの物語はそれを示しています。弟が認められ、自分は認められなかった。その怒りがカインに弟殺しをもたらすのです。ただイエスは無意味に厳しいだけの方ではありません。そのような罪の縄目にいる人間を、愛を持って救おうとされているのです。
・ヨハネ8章の「姦淫の女の物語」はその一つの例です。ヨハネ8章の記事を少し読んでみましょう。「律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った『先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか』」(ヨハネ8:3-5)。イエスを罠にかけるために、律法学者たちが、姦通をした女性を連れてきました。ここに男はいません。裁かれるのが女性だけであるのは、ユダヤの律法の特色です。イエスは何も答えずに地面に字を書いておられました。答えを督促する律法学者にイエスは言われます「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。これを聞いた者たちは誰も女に石を投げることが出来なくなりました。何故なら「罪を犯したことのない者はいなかった」からです。みんなが去った後、イエスは女に言われます「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」。そして続けて言われます「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」。イエスは人間の弱さを知っておられ、それゆえに「罪を裁く」のではなく、「悔いる者には赦しを」、そして「赦された者には罪を犯すな」という励ましを与えられます。この女性は、イエスの十字架を目撃し、その墓にまで従っていった、マグダラのマリアではないかと言われています。愛の赦しをいただいた者は、今までと同じように生きることは出来なくなるのです。
3.「姦淫してはならない」から、「愛し合いなさい」へ
・姦淫は弱者を傷つけ、痛めます。故にイエスは理由なく妻を離縁することを禁じられました。5:31以下の言葉です「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、私は言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる」。新共同訳「不法な結婚」の原語はポルネイア、不品行です。新共同訳はカトリックとプロテスタントの統一聖書ですから、離婚を認めないカトリックの立場に配慮して、「不法な結婚」という意味不明な訳になったと思われます。従ってここでも口語訳に従って読んでいきます。口語訳では次のようになります「 また『妻を出す者は離縁状を渡せ』と言われている。しかし、私はあなたがたに言う。だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである。また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである」。
・ユダヤ教の戒めでは、男は離縁状を渡せば妻を離縁できました。妻の料理が下手であれば離婚できましたし、妻が子を産まない場合は新しい妻を迎えることも出来ました。ひどい場合は、より美しい女が現れた時には妻を離婚して再婚することさえ許されました。イエスはこのような男性優位の、女性の人格を無視した規定を改められ、不品行以外の離婚を禁止されたのです。マルコではもっとはっきりと離婚の罪を言われています「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(マルコ10:6-9)。
・姦淫の例えは全て男に向けて語られています。男女それぞれが役割をもって、愛し合って生きよとの神の戒めを、男性中心の律法がゆがめてしまったからです。このイエスの教えを受けて、パウロは神の戒めの本質を次のように表現します。今日の招詞の言葉です「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな、そのほかどんな掟があっても、隣人を自分のように愛しなさいという言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。」(ローマ13:9-10)。情欲は他人の家庭を破壊し、自分の家庭をも破壊します。今日の日本では二組に一組は離婚し、離婚理由のトップは不倫です。離婚は夫婦相互を苦しめるだけでなく、子どもたちも傷つけていきます。私たちはこの情欲を制御する知恵を学ぶ必要があります。情欲を制することが出来るのは愛です。神に愛された者は、人を傷つけることはもう出来ないからです。「姦淫するな」という禁止命令は、「愛し合いなさい」という奨励になることによって、完成されるのです。