江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2008年8月24日夏季修養会奨励(ルカ15:1-7、失われた羊をどこまでも探される主)

投稿日:2008年8月24日 更新日:

1.ルカによる「失われた羊の例え」

・昨日はマタイ18:12-14から「迷い出た羊の例え」を学びました。教会でつまずいて、あるいは自分の問題が重くなりすぎて、教会に戻れない人をどこまでも探しに行くのが主の御心であり、教会は「去るものは日々に疎し」という世の慣習には従わないことを学びました。今日は同じ例えの裏返し、ルカ「失われた羊の例え」から聞いていきます。ルカ版では次のような内容になっています。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(15:4-7)。
・ルカはこの例えを、徴税人や罪人がイエスの話を聞こうとして来た時に、パリサイ派の人々や律法学者が「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」(15:2)と批判したことへの反論としてイエスが語られたと言う文脈の中で紹介しています。ここで「悔い改める必要のない九十九人の正しい人」とは、明らかにパリサイ人や律法学者を指しています。「自分たちは正しい」、「自分たちは既に救われている」と考える人々は、イエスの呼びかけを拒否し、悔い改めようとしません。そのようなあなた方よりも、「悔い改める罪人=失われた羊」を父なる神は喜ばれるのだと言っておられるのです。ですからイエスは「九十九匹を野原に残して」、九十九匹を危険にさらしても、失われた羊を探しに行くと言われています。
・このことから、私たちは、この物語を、「一匹を見殺しにして九十九匹の繁栄を図る」社会への、イエスからの警告として読むことが出来ます。塩野七生(ななみ)さんは「ローマ人の物語」他を書いた著名な作家ですが、この箇所について次のように語っておられます「迷える一匹の羊を探すのは宗教の問題であり、九十九匹の安全をまず考えるのが政治の課題である」。まさにその通りだと思います。この世は多数、九十九匹を大事にする。民主主義とはそういうものであり、政治の目標は全ての人に機会を開き、幸福追求の自由を保障することです。しかし、その過程で切り捨てられる人がいる。全ての人に成功の機会があることは、全ての人に失敗の機会もまたあることを意味します。そして成功者を称える社会では失敗者は省みられない現実があります。

2.教会は失われた一匹を大事にする

・しかし、イエスはこのような考えを否定されます。イエスは宣教の始めに故郷ナザレの会堂でイザヤ書を読まれました。「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである」(4:18)。律法学者の批判に答えて言われます「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(5:31-32)。「神の国の宴会」の例えでは主人からの招きを断った人々の代わりに「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい」(14:21)と言われています。イエスは神の招きを拒否するパリサイ人や律法学者ではなく、自分の罪を認め、神の憐れみを求める者こそ、神の国に入ることを明言されます。
・イエスにとって神の国に招かれるのは、正しい九十九人ではなく、失われた一人なのです。どの教会にも、生活上、精神上の課題を抱えた方がおられ、場合によっては毎日電話されたり、何時間も話し込まれる人もいます。その時、負担に感じる時があります。しかしルカが私たちに語りますことは、一人を見つけることの喜びです「見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう」(15:5-6)。マタイでは自分を九十九匹の側において、迷い出た一人をどのように探せばよいかを考えれば済みますが、ルカではそういきません。九十九匹は救いの対象外なのです。ルカを読む時は、自分をその失われた一人の立場に立って読むことが求められます。その時、一人のために、私のために来てくださるイエスがどれほどうれしかったか、この人のためならば死んでもよいと思ったほどです。
・ザアカイのようにです。ザアカイはローマ帝国の徴税請負人で金持ちでしたが、異邦人のために働く者として、また不正を行う者として社会から疎外されていました。今までザアカイに声をかけたラビはいませんでした。徴税人は罪人であり、交わると汚れるとされていたからです。しかしイエスは偏見から自由であり、ザアカイに心を開かれました。このイエスの心の開きがザアカイを変えます。彼は言います「主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(ルカ19:8)。イエスはこのザアカイに言われます「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」(ルカ19:10-11)。教会はこの悔い改めを喜ぶ場所です。

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