江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2008年3月2日礼拝説教(ヨハネ12:1-8、イエスへの油注ぎ)

投稿日:2008年3月2日 更新日:

1.マリアの献げ物

・受難節に入り、ヨハネ福音書を少しずつ、読んでいます。これまで見てきましたように、イエスは多くのしるしと説教をされ、人々は次第にイエスに惹かれていきました。五つのパンで5千人を養われた時、民衆はイエスの力に驚き、イエスを王にしようとします。生まれつきの盲人の目を開けられた時、この人は神から遣わされた人ではとないかとうわさし始めます。圧巻はラザロの復活でした。死んで四日たっていたラザロが墓の中からよみがえったのを見た人々は、イエスこそメシヤだと信じ始めていました(11:45)。イエスの評判が高まるに従い、ユダヤ教指導者たちはイエスを危険視し、イエスを捕らえて殺そうと計画し始めます。ヨハネは書きます「イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された」(11:54)。イエスには既に逮捕状が出ていました(11:57)。そこにラザロ家からの招待状が来ます。ラザロの回復を祝って食事の席を設けるので、来て欲しいとの招待です。イエスは危険を承知で、エルサレム郊外のベタニヤ村に向かわれました。
・ベタニヤ、貧しい者の家の意味です。そこにはマルタ、マリアの姉妹と、その兄弟ラザロが住んでおり、イエスは何度もこの家を訪れておられました。この度はイエスを歓迎する食事会が開かれ、イエスと弟子たちは食事の席についていました。マルタは給仕のために忙しく働き、ラザロはイエスと同じ食卓についていました。そこに、もう一人の姉妹マリアがナルドの香油を持って部屋に入り、香油をイエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐいます。「家は香油の香りで一杯になった」(12:3)とヨハネは記します。
・人々はマリアの行為に唖然としました。何故ならば、香油は高価であり、通常は数滴を頭に塗るものですが、マリアはそれを惜しげもなく、注ぎつくしたのです。香油の価格は300デナリオンもしたとあります。1デナリオンが労働者一日分の賃金ですから、300デナリオンは今日のお金で見れば数百万円の価値があったのでしょう。ナルドの香油は、ナルドというヒマラヤで取れる木の根をオリーブ油に浸して造られますが、貴重なものとして珍重されていました。そういう貴重なものを1リトラ、300グラムも足に注ぐ、弟子たちはこれを見て憤慨しました。弟子の一人イスカリオテのユダは言います「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」(12:5)。ユダは香油をイエスに惜しみなく注ぐ行為を浪費と見たのです。私たちもそう思います。イエスを歓迎するためには、数滴の香油をイエスの頭に注げばよかった。それを全部、しかも足に。何故。常識的に考えれば、愚かな行為です。でも、マリアは何故、このような行為をしたのでしょうか。

2.聖なる浪費

・この話には伏線があります。ヨハネ11章に記されているラザロのよみがえりです。マルタとマリアの兄弟であるラザロが重い病気になった時、姉妹はイエスのもとに人を送って、「来て、いやして下さい」と頼みます。当時イエスはヨルダン川の向こう岸におられ、すぐには動けず、ベタニヤに向かわれたのは使いを受けてから3日目、ベタニヤに着かれた時には、ラザロは死んで4日経っていました。マリアは、イエスの足元にひれ伏し、泣きながら言います「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」(11:32)。もっと早くイエスにお願いすれば、弟は死ななくても済んだかもしれない。マリアを包んでいたのは、深い悲しみと無力感だったのでしょう。死を前にして、私たちは立ちすくむことしか出来ません。
・イエスはマリアの涙を見て深く憐れまれ、涙を流されました。そしてラザロの葬られていた墓に行き、「ラザロ、出てきなさい」と言われました(12:43)。すると、死んで墓に葬られていたラザロが、手と足を布で巻かれたまま出て来ました。マリアはその出来事を目の前に見ました。弟が生き返った、死から回復した。その驚き、その喜び、そして感謝。自分たちはイエスに何をもって応えればよいのだろうか。マルタとマリアの姉妹は感謝の食事会を催すことになり、イエスを招きました。マルタはイエスのために心を込めて料理を作り、給仕して仕えました。マリアは自分の持っている最良の物をイエスにささげようと決心しました。
・彼女は嫁入り道具として、香油を少しずつ購入していたのかもしれません。彼女にとってそれは自分の幸せを約束する大事なものでした。しかし今、彼女はそれを惜しげなくイエスの足に注ぎ、髪の毛で拭きました。当時の女性にとって髪の毛は大切なものであり、足をぬぐうのは想像を絶することでした。しかし、彼女は夢中になって香油でイエスの足を洗い、自分の髪の毛でそれを拭きました。弟ラザロのために涙を流し、彼を死からよみがえらせてくれたイエスに感謝の思いを伝えたい、それだけでした。香油がどれほど高価であろうと、マリアは眼中になかったのです。愛は計算しない。ある人はこの行為を、「聖なる浪費」と呼びます。

3.信仰は常識を超える行為に人を導く

・イエスは、マリアの浪費、非常識を受け入れてくださいました。ユダヤにおいて香油を塗ることは二つの意味がありました。一つは王の任職です。ヘブル語メシヤ=救い主とは「油注がれた者」を意味します。また、油は死者の埋葬にも用いられました。人は死ぬと、体に香油を塗られ、布で巻いて埋葬されました。イエスは、マリアのひたむきな行為を、「自分を王として任職し、死ぬ準備として油を塗る」、父なる神からの贈り物として受けられました。だからイエスは言われます「この人のするままにさせておきなさい。私の葬りの日のために、それを取って置いたのだから」(12:7)。そして、マリアに感謝されました「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、私はいつも一緒にいるわけではない」(12:8)。弟子たちはイエスが死を前にした緊張感の中にあることをまるで理解していません。この時、イエスには既に逮捕状が出ていました(11:57)。祭司長たちはイエスの居場所を探していたのです。マリアだけがこの時を満たしてくれた。イエスはそう言われたのです。
・今日の招詞に、ヨハネ12:24-25を選びました。次のような言葉です「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」。
・この言葉は、イエスが過越し祭りにエルサレムに入城された後に、言われた言葉です。その週の木曜日にイエスは捕らえられ、金曜日には十字架で殺されます。イエスは最後の時が迫ったことを知られ、「私は一粒の麦として死ぬ」と言われました。自分が死ぬことを通してあなた方を生かすと言われたのです。命の救いに関わる真理は、命そのものを捧げることによってのみ、人の魂に届きます。自分が死ぬことを通してあなた方を生かす、人間的に見れば非常識の極みの行為です。しかし、イエスはそれを私たちの為になされました。
・イエスが安息日に人々をいやされたのも、非常識な行為です。イエスはベテスダで38年間寝たきりの人をいやされますが、その日が安息日であったため、パリサイ人と論争になります(5:10)。何故、その日でなければいけなかったのか、翌日でもかまわないではないか。しかしイエスはあえて安息日のその日にいやされた。盲人のいやしもそうです。安息日だからパリサイ人と争いが起きた(9:16)。イエスは盲人をいやされる時、言われました「私をお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る」(9:4)。愛は待てない。今でなければいけないのです。マリアが香油を捧げたのは、イエスがエルサレムに入られる前日です。この日を除いて機会はなかった。私が牧師になるために会社を辞めたのは50歳の時でした。周りの人は言いました「60歳の定年まで待てばよいではないか。そうすれば子どもたちも学校を終え、親としての責任は終わっている」。しかし、60歳では遅いのです。今日信じない人は明日になっても信じないし、今日行為しない人は明日もしないのです。決断はその時にしなければ、永遠に機会を逃してしまうのです。
・マリアは自分の持つ最上のものを捧げました。私たちの行為の多くは、「見返り」を求めます。見返りを求めずに生きる時、私たちはそこに愛を見ます。私たちの最上の献げ物は、見返りを求めない、ひたむきな行為です。見返りを求めないひたむきな行為の一つは、収入の十分の一を毎月捧げる、「十分の一献金」です。献金したから救われるわけではありません。イエスも「自分は十分の一を捧げているから救われてしかるべきだ」(ルカ18:12)と考えるパリサイ人を批判されています。献金しても表彰状も感謝状も来ません。この世の人々からみれば、浪費でしょう。しかし、主はその浪費を、「聖なる浪費」として、受け入れてくださるのです(マラキ3:10)。
・らい病者のために生涯を捧げた神経科医の神谷美恵子さんは次のように言いました「何故、私たちではなくてあなたが!あなたは代わってくださったのだ。代わって人としてあらゆるものを奪われ、地獄の責苦を悩みぬいてくださったのだ」(神谷美恵子「癩者に」)。私が担うべき病をあなたが担って下さった、だから私はあなたのために働きますと神谷さんは言います。愚かな言葉です。その人がらい病になったのは、神谷さんのせいではない。それにもかかわらず、彼女はそれを自分の十字架として負っていく。なぜ、らい病のような忌まわしい病気があるのかわかりません。らい病は肉を溶かし、骨を溶かして、最後には死に至る不治の病であり、人々から忌み嫌われました。不信仰者はそれを見て、「神の平安がどこにあるのか」とうそぶきます。にもかかわらず、らい病者のために自分の生涯を捧げる人がいます。この人たちこそ、「キリストにある愚者」です。私たちも、自分が罪人であり、死ぬしかないのに、イエスが代わりに死んでくださったことに気づいた時に告白します「何故、私たちではなくてあなたが!あなたは代わってくださったのだ。だから私たちはあなたに従います」と。「聖なる浪費」、「キリストにある愚かさ」、に動かされる人生を歩みたいと祈ります。

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