江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2008年12月28日説教(マタイ6:1-6、16-18、偽善者のようであってはならない)

投稿日:2008年12月28日 更新日:

1.施しにおける偽善

・毎月第四主日は私水口仁平がマタイ福音書・山上の説教から、主イエス・キリストの御言葉を語らせていただいております。今回は山上の説教の9回目、6章に入ってきました。「山上の説教」ではこの6章1~18節が中心部分になります。この中心部分の更なる中心が「主の祈り」です。山上の説教は「主の祈り」を中心として、その周りに様々な教えが囲むように配置されている構造を持っています。今日はマタイ6:1-6、16-18を取り上げますが、6:7-17の主の祈りが除外されています。何故主の祈りを除いて、今日語るのか。それは6:1-6,16-18が主の祈りを包み込む外の皮のような構造になっているからです。
・中心的な言葉は1節「見てもらおうとして,人の前で善行をしないように注意しなさい」です。「善行」と訳されている言葉は「義」と同じ言葉です。「見てもらおうとして、人の前で義を行わないように」、善行、義なる行いの例として、施し、祈り、断食があげられています。そのどれもに「偽善者のようにしてはならない」という言葉が先立っています。「施しをするときには、偽善者たちが・・・するように・・・してはならない」(6:2)。「祈るときにも・・・偽善者のようであってはならない」(6:5)。「断食するときには・・・偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない」(6:16)。
・偽善者というと、私たちは、心の中では悪いことを考えているのに、表面は善人であるかのように見せかけている人と理解しています。しかしここでの偽善者の意味はそれとは違います。ここで「偽善者」と訳されているギリシャ語・ヒュポクリテスの本来の意味は、俳優です。俳優は、舞台の上で、観客を前にして、様々な役柄になって演技をします。観客がどう見てくれるか、自分の演技をどう評価してくれるかが俳優にとっての勝負です。つまり、常に人の目を気にし、自分が人からどのように見られているかを気にしながら生きている人が、偽善者と呼ばれています。仮に、私たちが、人が自分をどう見ているかを気にしながら生きているなら、私たちもまた偽善者と言われているのです。この箇所を私たちが自分はパリサイ人ではないと思って読む時には何のメッセージも生まれません。自分も偽善者かもしれないと思って読む時に、この言葉は私たちに問いかけ始めます。
・2節に「施しをする偽善者」の姿が語られています。彼らは、施しをする時に、人からほめられようと会堂や街角で、ラッパを吹き鳴らしているとイエスは批判されます。あの人はたくさんの施しをしている、信仰深い立派な人だ、と人々が思うように施しをするのです。神社やお寺では献金額の多さの順番に名前を貼り付けたりします。「見てもらおうとして、人の前で善行を」する人々に答えるためです。しかしあなたがたはそうするなとイエスは言われます。それが3、4節です。「施しをするときには、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである」。自我、自意識からも解放されよとイエスは言われるのです。信仰は自己満足に陥る可能性を秘めているのです。
・私たちが、ある人に親切をしたとします。私たちはそのことを人に吹聴したりはしませんが、その人が、「あの時あの人からこんな親切を受けた」と感謝し、それを周りの人々に語ってくれることをどこかで期待しています。仮に、相手が感謝もせず、親切に知らん顔をしたとすると、私たちは腹を立てたりします。自分のした良いことが誰にも知られず、誰からも評価されなかったら、私たちはがっかりするのです。そういう私たちの思いは、見てもらおうとして人の前で善行をする人や、人からほめられようと会堂や街角で施しをし、ラッパを吹き鳴らす人と、一体どれほど違っているのかとイエスは言われているのです。
・イエスが私たちに示されるのは、天の父からの報いです。会堂や街角で施しをする偽善者たちは「既に報いを受けている」とあります。この報いは、人々からの賞賛、評価です。見てもらおうとして、人の前で善行を行う者たちは、人からの評価、賞賛という報いを既に受けているのです。イエスは人からの報いではなく、神からの報いを求めよと言われます。私たちが、人の目を気にし、人の方ばかりを見ているその目を、天の神の方へと向け変えなさいという戒めです。天の父は、「隠れたことを見ておられる」方です。神は、私たちが人知れずしている良い行いを見ていて下さると同時に、私たちが人には隠している様々な罪、悪いことも見ておられるということです。父なる神は、私たちの良い所も悪い所も、すべてご存知です。その神は、私たちのためにキリストを遣わして下さり、キリストを通して「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」と語りかけて下さいました。神の評価に堪えるようなどんな良いものも自分の中にはない者に「あなたがたは天の国にあずかる者だ」と言って下さった。それが、私たちに対する神の評価です。
・父なる神に目を向けるとは、この神の恵みをわきまえ、この恵みの中で父なる神との交わりに生きることです。良いことをするために施しや献金をするのではなく、自分のような者を顧みて下さった、自分に富を与えてくれた、その感謝としての施しが生まれるのです。その時私たちは、人の目、人の評価を気にする偽善から解放され、人からの報いではなく、天の父からの報いを求めて生きる者となるのです。この報いは、人からの誉れや評価を期待し、人からの報いを求めている間は得られません。しかし私たちが人から目を離し、父なる神様を見つめていく時、そこには、私たちの良い行いによってではなく、神の恵みによって既に与えられているすばらしい報いが見えてくるのです。

2.祈りにおける偽善

・祈りについてもイエスは、「あなたがたは偽善者のようであってはならない」といわれます。偽善者の祈りとはどのような祈りなのでしょうか。「偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる」とあります。人が集まる所で、人に見られながら祈ろうとする、それが偽善者の祈りです。それは、当時の社会において、祈ることが立派な行為、信心深さの現れとして尊敬されていたからです。イエスは6節で「祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」と言われました。
・7、8節には、異邦人のように祈るな、と教えられています。異邦人とは、神の民とされていない人々、神のことを知らない人々です。その人々の祈りは、「くどくどと述べる」祈り、「言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる」祈りになります。何故でしょうか。それは祈りを通して神を動かし、自分の願いをかなえてもらいたという思いが根底にあるからです。「お百度参り」と言う言葉があります。願いごとをかなえてもらうには、百度でも繰り返して祈り願う、そのくらい熱心に祈れば、神も聞き入れて下さるだろうと異邦人は期待します。異邦人は、神が自分に恵みを与えて下さるのかどうかわからない。だから繰り返し祈り願い、何とか自分の願いを神に通じさせようとするのです。イエスはこのような異邦人の祈りの姿を描きつつ、弟子たちに、「彼らのまねをしてはならない」とお教えになりました。
・イエスは私たちに、私たちが祈る相手である神とはどのような方であり、その神と私たちとの関係はどのようであるのかを教えて下さいます。それが8節の言葉です。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」。異邦人の神は、自分の方を見ていてくれない、遠くにいる神です。その神の目を、何とか自分の方に向けさせ、自分に関心を持ってもらい願いを分かってもらう、そのために祈りがあるのです。しかし私たちが祈る神は、私たちが願う前から私たちの必要に関心を持っておられる方です。それなら、わざわざ祈る必要などないと思うかもしれません。願いを適えてもらうためには、祈っても祈らなくても同じです。私たちが祈るのは、願いを適えてもらうためではなくて、私たちを愛していて下さる神と対話するためです。神の恵みは、イエスを通して、私たちが願う前から、私たちに注がれています。しかしその神の恵みが私たちの現実となり、私たちがその恵みの中で感謝しつつ神の子として生きることは、祈りによって実現するのです。祈りは、大切なものです。しかしそれは、「祈らなければならない」ということではなくて、「祈ることを許されている」ということです。祈りにおいて、私たちに必要なものを全てご存じであり、それを与えて下さる、天の父なる神との交わりに生きることができるのです。

3.断食における偽善

・16~18節には、断食をする時についての教えが語られています。断食とは、文字通り食を断つことです。つまり苦しみの業、苦行です。断食は、イスラエルでは、悲しみ、嘆きの表現としてとらえられてきました。その悲しみ嘆きとは、自分の罪に対する悲しみであり嘆きです。自分は神の前に罪人である、神のみ心に背き逆らっている、そういう道を歩んでいる者であるということを、心から悲しみ、嘆くのです。実際に断食をするかどうかはともかく、自分の罪を嘆き悲しみ、神の前にそれを悔い改めることは、私たちの信仰において非常に大事なことです。
・ところがその断食が、偽善になってしまうのです。それは、断食が立派な信仰の行為として賞賛されるようになったからです。そうなると、それを「見てもらおうとして、人の前で」することが生じます。自分は断食をしている、ということを、人に見せようとする、そのために、「顔を見苦しくする」ということが始まったのです。イエスが言われたのは「彼らは既に報いを受けている」ということです。それは、人に見せようとして、人からの評価を求めて断食をしている者は、「あの人は熱心に断食をしている信仰深い人だ」と人に誉められることでもう報いを受けてしまっているから、それ以上の神からの報い、神が彼の悲しみ嘆きを受け止めて下さり、罪を赦して下さることなどは求めていないということです。
・今日の招詞にマタイ9:15を選びました。次のような言葉です。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる」。ヨハネの弟子たちの「私たちとパリサイ人は断食をしているのに、何故あなたの弟子たちは断食しないのか」との問いに、イエスが答えられた言葉です。弟子たちが断食をしていないのは、今は花婿、イエスが共にいる婚礼の祝いの時だからです。イエスが共におられる時は信仰者にとって、喜び、祝いの時なのです。そこには、悲しみの印である断食は相応しくないのです。私たちは、自分の罪を嘆き悲しまざるを得ない者です。しかしその私たちに、イエスは、喜び、祝いつつ生きよとお命じになっておられるのです。
・それは、嘆き悲しみを忘れてしまって良いということではありません。その嘆き悲しみの中にある私たちのところに、神の独り子イエス・キリストが来て下さった、そして花婿イエスが、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さった、そのことによって神は私たちの罪を赦して下さった、その喜びと祝いの中に私たちは生き始めるということです。私たちの罪のゆえの嘆き悲しみは、主イエス・キリストが来て下さり、その罪を背負って下さる、その恵みの中に包み込まれています。だから、私たちは主イエス・キリストによって罪の赦しを与えられた喜びと祝いに生きるのです。
・ここに述べられている三つの戒め、「施し・祈り・断食をする時に、偽善者のようにするな」とは、人の方ではなく神の方を向いて生きなさいということです。人の視線を意識するような行為は義ではなく、偽善に他ならない、そうした行為には神は何の報いもなさらないということです。教会も組織の常として、成長と発展を願います。その成長と発展が時には教勢の拡大に集中します。教会が「百名礼拝」とか、「パイプオルガン」とか、「堂々たる礼拝堂」等を求め始めた時、教会は神の教会ではなく、人の教会になる危険性を秘めています。ラッパを吹き鳴らすような教会中心主義ではなく、この地の民への宣教と言う視点を忘れてはいけないと思います。教会は何故宣教するのか、「この町には、私の民が大勢いる」(使徒18:10)のに、まだ「この囲いに入っていないほかの羊もいる」(ヨハネ10:16)からです。人の教会ではなく神の教会になるために、2008年最後の礼拝で「偽善者のようであってはならない」という言葉が与えられたと思います。

-

Copyright© 日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会 , 2024 All Rights Reserved Powered by AFFINGER5.