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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2008年9月20日葛西集会説教(ルカ10:25-37、隣人になる~善きサマリア人の例えから)

投稿日:2008年9月20日 更新日:

1.同胞を見捨てる祭司やレビ人

・今日はルカ10章の「善きサマリア人の例え」について、共に考えて見ます。例えはイエスと律法の専門家の問答から始まります。律法の専門家が「イエスを試そうとして」質問したとルカは語り始めます「律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った『先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか』」(10:25)律法の専門家=律法学者です。彼は専門家として聖書とその解釈に精通しています。彼は「永遠の命」(マルコ福音書では神の国)を受けるためには何をすべきかを当然知っている、知っているのにあえて聞く、イエスの言葉尻をとらえて貶めるためです。ですからイエスは慎重に答えられます「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」。律法の専門家は答えます「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさいとあります」。「主を愛しなさい」という言葉は申命記6:5にあり、「隣人を愛しなさい」という言葉はレビ記19:18にあります。彼は答えを知っているのです。ですからイエスは言われます「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」。「あなたは答えを知っている、あなたに欠けているのはその実行だ、正しい答えを知っているのであれば実行したらどうだ」とイエスは反論されています。
・イエスの反論にたじたじとなった律法の専門家は、「自分を正当化する」ために聞き直します。「私の隣人とはだれですか」。この答えも彼は知っているはずです。隣人への愛を教えるレビ記19章は、隣人とは同胞のユダヤ人であることを前提にしています。レビ記19:17にはこのようにあります「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない」。隣人を愛しなさいとは同胞たるユダヤ人を愛せよと言うのが律法の規定です。律法の専門家は「自分はユダヤ教の教師として同胞のために尽くしている」と誇りたかったのです。そのうぬぼれた彼に、イエスは思いもしない例えを語られます。それが「善きサマリア人の例え」です。サマリア人はユダヤ人ではない、同胞ではない、隣人を愛するとは同胞を愛することなのか、イエスはそのような問いかけを語られます。
・例えの内容に入って行きましょう。イエスは語られます「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った」(10:30-31)。ある人とは当然ユダヤ人でしょう。ユダヤ人がエリコに下る道すがら追いはぎに襲われ、身包みはがれた上に半殺しにされて放置された。そこに祭司が通りかかった。祭司であれば神に仕える聖職者、自分を助けてくれると期待したのに、祭司はその人を見ると道の向こう側を通って行った。何故祭司は倒れている同胞を助けなかったのでしょうか。一つは係わり合いになるのを恐れたのでしょう。もう一つは律法違反を恐れたためと思われます。レビ記21:1は規定します「遺体に触れて身を汚してはならない」。民数記にも同じような規定があります「どのような人の死体であれ、それに触れた者は七日の間汚れる」(民数記19:11)。この男は死んでいるかもしれない、死んでいる男に触れたら律法を破ることになる、そのようなことはしたくないという思いが祭司の胸中にあったかもしれません。つまり、律法の形式的遵守が隣人愛の実行を妨げていた可能性が出てくるのです。
・次にレビ人が来ました。レビ人もまたエルサレム神殿に仕える下級祭司です。当時の神殿には8千人の祭司と1万人のレビ人が働いていたと伝えられています。レビ人も倒れている同胞を見ると、よけて通り過ぎた。例えの登場人物として最初に祭司を、次にレビ人を持って来られたイエスの心中には、当時の神殿制度に対する批判があったのかもしれません。何千人もの祭司やレビ人が神殿に仕え、祭儀を執り行っている。しかし、彼らはそれを職業として、生活の糧を得るために仕えているのであり、民のためではない。そのような祭儀制度を神は喜ばれるだろうか。今日、牧師の離職率の高さが問題になっています。日本バプテスト連盟の調べでは、神学校卒業後5年以内に2割がやめ、10年以内では4割の牧師が離職しています。原因はいろいろあるでしょうが、一つは牧師職を召命(神からの召し)ではなく、職業と考えているからではないかと思われます。職業としてみれば、給与は低いし、苦労が多いし、割に合わないかもしれない。しかし、そこに召命感があるから、教会に仕え、信徒に仕えることを喜びとするから勤まる。その召命感がなくなっているのではないか。祭司やレビ人も召命感をなくしているとイエスは批判されているようです。

2.同胞でないのにユダヤ人を助けるサマリア人

・例えの三番目の登場人物がサマリア人です。イエスは異邦人であるサマリア人が、ユダヤ人である祭司とレビ人が見捨てた旅人を見て「憐れに思い」、手を差し伸べたと言われます。「旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います』」(10:33-35)。サマリア人は何故助けの手を差し伸べたのか。「憐れに思った」からです。憐れに思う=ギリシャ語スプラングニゾマイという言葉はスプランクノン(内臓)から来ています。「内臓が痛むほど動かされる」という意味です。異邦人であるサマリア人が、民族的には敵になるユダヤ人を介抱したのは、内臓が痛むほど、心が揺り動かされたためだとイエスは言われました。ルカは「スプラングニゾマイ」という言葉を放蕩息子の例えでも用いています。落ちぶれて悄然として帰ってくる放蕩息子を見て、父親が走り寄る場面です「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」。「憐れに思い」、心を揺り動かされて、父親は走り寄った。人に自分の境界線を越えて行為するものをもたらすもの、それが愛だとイエスは言われています。
・サマリア人は元々はイスラエル民族の一部でしたが、アッシリアによって北イスラエルが滅ぼされた後、移民してきた異邦人と混血し、ために半イスラエル・半異邦人としてユダヤ人とは争いを繰り返してきた民族です。ユダヤ人は半異邦人になったサマリア人は汚れているとして一切の交際を絶っていました。そのサマリア人が隣人になった。イエスは律法の専門家に尋ねられます「この三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」。律法の専門家は「誰が隣人ですか」と聞いてきました。彼にとって隣人とは同胞のユダヤ人でした。しかし、今イエスは「隣人とは民族を超えるのではないか」と聞き直されます。律法の専門家はやむなく答えます「(隣人になったのは)その人を助けた人です」。彼はサマリア人とは答えず、その人と言います。彼は隣人になることが出来なかった、何故ならば、彼は自分の正しさだけを考え、「他者のために心を揺り動かされ」なかったためです。

3.この例えは私たちに何を語るのか

・私たちはこの物語から何を聞くのでしょうか。隣人愛の教訓を聞くのか。そうではない。イエスが律法の専門家に言われたのは「あなたは何をすべきかを知っているのに、しようとはしないではないか」と言うことです。ヤコブも私たちに言います「もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」(ヤコブ2:15-17)。愛とは「誰が隣人か」と問うことではありません。「あなたも同じようにしなさい」(ルカ10:37)。私が行為すればその人は隣人となり、行為しなければ隣人にならない。その行為を導くものは「心を揺り動かされる」思いです。
・多くの人がこのイエスの話しに心を動かされて行為しました。自殺予防機関として「いのちの電話」が全国にありますが、元々はイギリスの教会の「Samaritans」から始まりました。増加する自殺に心を痛めた英国のクリスチャンたちが、教会の地下室に電話を引き、相談を受けるようになったのです。その動きがドイツにも、そして日本にも広がっていった。日本では1971年に始まりましたが、開設趣意書には次のように書かれています「いのちの電話は、苦悩の多いこの時代に生きるものが、互いに良い隣人になりたいという願いから生まれた運動です。キリスト者の有志が始めた仕事ですが、誰でもこの運動を理解する人々の協力を求めます」。開始から30数年が経ち、今では教会色が薄められて来ました。ノンクリスチャンの人々が継承してくださるのであれば、教会の役割は終わったのかもしれません。教会は教会にしか出来ない新しい業を始めていけばよいのです。
・教会にしか出来ない業、それはイエスの十字架に「心を揺り動かされて行う」業です。何をなすべきか、何が出来るのか、それぞれが自分の置かれた状況の中で考えるべき問題でしょう。ただ「隣人になることを通して関係性が生まれる」ことは事実です。助けられた旅人はもはやサマリア人は汚れているから交際しないとは言わないでしょう。もしかすると異民族の人を助けるかもしれない。その時「キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(エペソ2:14-16)というパウロの言葉が実現します。「受けるよりも与える方が幸いである」(使徒言行録20:35)とイエスは言われました。与えることによって、関係性が広がっていくからです。聖書を私たちに語られた物語として聞く時に、それは私たちに行為を迫ることを、今日は覚えたいと思います。

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