江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2008年7月20日説教(第一コリント11:23-29、主の晩餐を共にいただく意味)

投稿日:2008年7月20日 更新日:

1.コリント教会での間違った主の晩餐式

・ヨハネの手紙の連続講解を終え、今週から、通常の教会暦に従った聖書日課に戻ります。今日、与えられた聖書箇所は第一コリント11章、主の晩餐式についての記述です。教会が主の晩餐式を執り行うようになった経緯については二つの流れがあるといわれています。一つはイエスご自身が弟子たちと取られた最後の晩餐を記念するものです。ルカは記します「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた『これは、あなたがたのために与えられる私の体である。私の記念としてこのように行いなさい』。食事を終えてから、杯も同じようにして言われた『この杯は、あなたがたのために流される、私の血による新しい契約である』」(ルカ22:19-20)。イエスの死後、弟子たちは復活日である日曜日を「主の日」として覚え、礼拝を持つようになりますが、この礼拝の中で、主の晩餐を執り行うようになりました。
・パウロが伝承として受けたものもこの流れの中にあります。パウロは言います「私があなたがたに伝えたことは、私自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのための私の体である。私の記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、私の血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、私の記念としてこのように行いなさい』と言われました」(11:23-25)。ほぼルカの伝える伝承の言葉と同じです。イエスが弟子たちと取られた「最後の晩餐」が、弟子たちがイエスの死と復活を覚えて行った「最初の主の晩餐」になったのです。
・もう一つの流れは、イエスが群集と共に取られた荒野の食事に起源を持ちます。マルコ福音書によれば、イエスは集まった群集が食べるものもないのを憐れまれ、手元にあったパンと魚で5000人を養われたとあります。大勢の者が一つのパンを食する、今日で言えば愛餐の食事が、主の晩餐式になったと考える人もいます。初代教会では、この最後の晩餐と荒野での会食が一つになって、主の晩餐式が執り行われました。人々はそれぞれが食べ物を持って教会に集まり、礼拝の後、共に食事をする、それを主の晩餐として行っていたようです。ところがコリント教会では、その主の晩餐がとんでもない方法で行われていたことが手紙から読み取れます。
・コリントは人口60万人の大都市でしたが、そのうち、自由人は20万人、奴隷は40万人であったといいます。教会には豊かな人もいたでしょうが、多くは奴隷や貧しい人々であり、彼らは日曜日も働かなければなりません。従って、主日礼拝は朝ではなく、みんなが集まることの出来る夕方から持たれ、その中心が『主の晩餐』と呼ばれる共同の食事でした。当時、教会堂はありませんでしたから、大勢が集まることの出来る、裕福な信徒の家で礼拝が持たれました。家の教会です。
・豊かな人々は夕方にはそれぞれの食べ物をもって家の客間に集まり、自分たちだけで祈って、パンを裂き、ぶどう酒を分けて食べました。日が暮れると、貧しい教会員の人々が一日の労働を終え、おなかを空かして礼拝に来ました。しかし、その時にはパンはほとんど残っておらず、先に来た人たちはぶどう酒の酔いで顔を赤くしているという状況でした。そのことをパウロは伝え聞き、怒ります「それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです」(11:20−21)。何故自分たちだけで先に食べて、貧しい人々を除外するようなことを平気で行うのか、それが主の晩餐としてふさわしいのかとパウロは叱責します。
・教会はギリシャ語ではエクレシアといいます。エカレオー、呼び集めるから来た言葉です。教会は神の御名を求める人々が集められ、一つの食卓に集い、主から与えられるパンとぶどう酒に共に与り、一つにさせられる場所です。みんなで一つのパンをいただくから、そこに大勢の人がいても、教会は一つになります。それなのに、コリントでは、金持ちは金持ちで勝手に集まって自分たちの宴会を行い、貧しい人を食事から除外しました。

2.主の晩餐式をめぐる争い

・コリント教会では分派の争いがあったことが、手紙の最初の部分に記されています。そのような教会内の分派争いが、金持ちだけ集まって先に主の晩餐をいただき、貧しい人々はその食事に与れないという事態を引き起こしたのでしょう。彼らは「教会とは何か、何故主の晩餐をいただくのか」という信仰の基本理解が出来ていませんでした。ですからパウロは言います「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」(11:27-29)。主を覚えて共に食べ、共に飲むことは、信仰の行為であり、宴会ではない。それをわきまえないで主の晩餐を行うことは、自分自身に対する裁きを飲み食いすることだとパウロは言うのです。
・今この第一コリント11:27の言葉「ふさわしくないままで」の解釈をめぐって日本基督教団が揺れています。教団の教会では、これまでも主の晩餐式をオープン=未洗礼者も含めて礼拝出席者全員に施すべきだと言う考えと、クローズ=主の晩餐式は洗礼を受けた者だけが与るべきだという考えの違いがあり、議論されてきました。ところが昨年11月、日本基督教団常議員会は「オープン聖餐」を行っている牧師に対して、「教団の教憲教規に違反する」として「辞職勧告」を決議しました。そしてクローズの論拠として用いられたのが、この11章27節「ふさわしくないままで」という言葉です。「この言葉は、未だ信仰を告白せず、洗礼を受けていない人のことを表す」と教団の常議員会は理解しました。しかし文脈から見ると、この解釈は明らかに無理があります。パウロが述べたのは、コリントの教会で、共同の食事が共同のものとならず、先に来た者が独占するという状況があり、そのような形で自分自身を振り返ることもせず、当然の権利のように「主の晩餐」にあずかろうとする人に対して、パウロは「ふさわしくないままで」と言っているのです。私たちはこの問題を愚かだと笑うことは出来ません。私たちのバプテスト連盟の中にも、主の晩餐式をオープンにする教会が増えてきている現実があるからです。今日、共に考えたいのは、主の晩餐式をオープンにするのが良いのか、クローズにするのが良いかの議論ではありません。教会が反対を押し切って何かを決定する事が教会のあり方としてどうなのかということです。

3.教会を立てるために

・今日の招詞として、第一コリント10:23-24を選びました。次のような言葉です「すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが私たちを造り上げるわけではない。だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」。
・教会は人の集まりですから、そこには必ず意見の違いがあります。経歴も立場も、また信仰の背景も違う者が集められていますから、違いがあるのは当然です。しかし、その違いが争いにならない、それが教会のあり方です。この世では、多数決で決定がされます。しかし、教会では、多数が正義とは限りません。何よりも、多数で決定した場合、少数者のいる場所がなくなります。教会は少数者を含めて、共に生きる場所なのです。キリストは彼らのためにも死んで下さったからです。
・パウロはコリント教会の人々に、「すべてのことが許されているが、すべてのことが私たちを造り上げるわけではない」と述べます。信徒や教会が乱され解体されていく方向ではなく、造り上げられていく決定をしなさいと言うのです。私たちが求めるべきは、私たちの理想の完成ではなく、神の御心の実現なのです。議論を尽くしても一致できない時、それは神の御心ではないとして、決定を見送る勇気もまた教会に求められます。
・日本では、会堂建設をめぐって教会が分裂することがあります。会堂を建てるためには多額のお金が必要であり、信徒それぞれに負担が求められます。生活が苦しい時、負担は重いものになります。多数決で会堂建設が決定され、立派な教会堂が出来上がった時、反対した人たちが教会を出て行くという現実があります。少数者が不幸である時、それはもうキリストの教会ではなくなります。全ての人が賛成できるまで議論を尽くす、一致できない時には待つ。それが教会のあり方です。私たちの教会堂も築35年になります。物理的に建替えが必要な時期になり、また地震対策も考慮しなければいけないため、今年度建築委員会が発足し、先週初めての会合を開きました。会では、5年後に会堂建設を行う夢を語り合いましたが、最初に議論されたことは、「建築で教会が揺らぐことは避けよう」と言うことでした。教会が揺らぐようであれば、会堂を建直す時期を延期しても良いと。
・職場で、学校で、家庭で、違う人たちを受け入れないことによって、争いと憎み合いが起きています。しかし、「あなたがたの間ではそうであってはならない」(マタイ20:26)とイエスは言われます。違う者を受け入れることは難しいことです。キリスト教会は当初はユダヤ教の迫害の下にありましたが、ローマの国教となり支配者になった途端に、ユダヤ人を迫害した歴史も持ちます。アメリカでは白人と黒人が一緒に礼拝をしない現実があります。アメリカのバプテスト教会の分裂は、黒人奴隷をめぐる意見の対立から起こりました。日本の教会の中に、異なる者、特に外国人礼拝者に対する差別と偏見があることも知っています。しかし、「あなたがたの間ではそうであってはならない」というイエスの言葉を私たちは聞き続けます。そして変えられる希望を持ちます。この希望の中で私たちはこの教会を立てあげていきたい。ウィリアム・クラークは「青年よ、大志をいだけ」と言いましたが、彼が言ったのは、「Boys, be ambitious in Christ」、“キリストのために、キリストにあって大志を抱け”という言葉でした。「教会は福音を手に、世に仕えていく」、主が望んでおられることはそうです。教会が宣教の願いで一致できた時、仲間同士での争いは起こりにくくなります。“Be ambitious in Christ”、この言葉こそ、私たちは聴くべきなのです。

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