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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2008年6月22日主日礼拝説教(マタイ福音書 5:17−20、律法の完成者イエス)

投稿日:2008年6月22日 更新日:

1.イエスは律法を廃止する為ではなく、完成するために来られた

・毎月、第四主日は、水口が、マタイ福音書・山上の説教から御言葉を語らせていただいております。今日はその三回目、律法についての話です。5章から7章までの長い山上の説教は、ある時に一度に語られたものではないと思われます。イエスが、折々にお語りになったことが、後から集められ、編集されて、一続きの説教として残されたのです。しかし、折々に語られたことが、ただ順不同に並べられているのではありません。山上の説教では、次から次へといろいろな教えが語られていきますが、そこにはしっかりとつながりがあります。本日は5章17~20節を読みますが、ここは、前後の教えとの内容的なつながりを持っています。
・前回学びました5章13~16節では、「あなたがたは地の塩、世の光である」という教えが語られていました。地の塩、世の光は、この世に良い味をつけ、明るく照らすという働きをします。イエスはこの段落の最後に言われました「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(5:16)。イエスに従う信仰者は、人々の前で「立派な行い」をしていくのだと教えられたのです。それを受けて17節以下で「立派な行いとは何か」が語られていきます。
・17節でイエスは言われます「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」。「律法や預言者」とは、旧約聖書を指します。旧約聖書の最初の部分、モーセ五書と呼ばれる部分が「律法」であり、イスラエルの歴史や預言者たちの教えを記した部分が「預言者」です。そこに語られていることに従って生きる、律法を守って生きることこそ、神の前に正しい、立派な行いであると誰もが思っていました。「立派な行いを人々に示せ」という教えを聞いた人々は、当然そのことを思い浮かべたことでしょう。
・当時、律法の教えに精通し、それを守っていると思われていたのが、「律法学者やパリサイ派の人々」でした。彼らは聖書を日夜学び、それを守り、行っていくためにはどのように生活すべきかを研究し、それを実践し人々に教えていました。「立派な行いをしなさい」ということは、あの律法学者やパリサイ派の人々のようになりなさいという意味だと誰もが思いました。ところがイエスは人々がびっくりするようなことを言われます。「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」(5:20)。「義」とは、正しさです。あなたがたの正しさが、律法学者やパリサイ派の人々よりもまさっていなければ、天国には行けないとイエスは言われたのです。律法学者やパリサイ人は律法の専門家です。彼らを超えることが出来るわけはないと人々は思ったに違いありません。その思いに応える形で、21節以下の言葉が語られています。
・21節からの段落では、「殺すな」との戒めに対して、兄弟に対して腹を立てたり、「ばか」とか「愚か者」と人をののしることも、殺すことと同じだと言われます。殺人を犯さなければ、「殺すな」という律法を守っていることになる、それが律法学者やパリサイ派の人々の義ですが、あなたがたは隣人に対する怒りの心をも抑えていくのだ、それが律法学者やパリサイ派の人々にまさる義なのだ、とイエスは語られます。27節から始まる姦淫の戒めもそうです。律法学者は姦淫=不倫を犯さなければかまわないと言う解釈ですが、イエスは「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」(5:28)と言われます。心の中にある思いさえも罪といわれたら、誰がそのような律法を守ることが出来ましょう。しかし、イエスは表に現れた罪だけでなく、心の中にある罪の思いをも神は見られる、それが出来なければ「律法学者やパリサイ派の人々の義にまさる義」とは言えないと断言されています。多くの人々がこのイエスの言葉を聞いて、これは守ることなど出来ない、現実的ではないと批判します。

2.そもそも律法とは何か

・マタイ福音書におけるイエスの律法に対する態度は、一見矛盾しています。先ほど見ましたように、イエスは「律法を廃止するためでなく、完成するために来た」(5:17)、「あなた方の義が律法学者の義に優らなければ天国に入れない」(5:20)として、律法の遵守を求められますが、一方で、安息日に人を癒されたり、安息日に麦の穂を摘んだ弟子たちを擁護されて、「人の子は安息日の主である」として、律法を自ら破られます。この律法に対するイエスの自由な態度はどこから来ているのでしょうか。
・イスラエルの律法は元来、神と民との契約として結ばれた条文です。エジプトから救い出された民はシナイ山で十戒を与えられます。神はイスラエルの民に言われました「今、もし私の声に聞き従い、私の契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって私の宝となる。世界はすべて私のものである。あなたたちは、私にとって、祭司の王国、聖なる国民となる」(出エジプト記19:5-6)。万物を創り、統治される神の意思を示すものとして、神が契約を呼びかけられ、民が応答して契約が結ばれ、その契約の条文が律法でした。律法とは、イスラエルを神の民として生活を秩序づけ、神の共同体として繁栄させるものでした。
・しかし前587年、イスラエルはバビロニヤによって滅ぼされ、契約共同体は滅びました。律法はその前提たる共同体の崩壊により、新しい局面を迎えます。国の滅亡、バビロンへの捕囚を境に、律法は神と民の契約から、安息日・割礼・食物規定等の遵守によるイスラエル民族のアイデンティティを支えるものとなり、個人化していきました。契約という前提から分離した律法は、やがて律法主義を生みだしました。律法学者たちは、本来祭司のみに要求される厳格な祭儀的清浄を一般人にも要求し、ラビたちの律法解釈を口伝律法として成文律法と同じく権威を認め、その遵守を求めました。その結果、食事前に手を洗うとか、安息日に麦の穂を摘むとかの些細な行為さえも、律法に反するものとしてとがめられるようになっていきました。
・イエスはこの形骸化した律法遵守の有様を強く批判されたのです。形だけ律法を守る律法学者やパリサイ人を、「自分の義を見られるために人前で行う」(6:1)、「人に見せるために祈る(6:5)と、その偽善を批判されました。イエスが教えられたのは本来の律法の持っている意味でした。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、私は言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」(5:21-22)。隣人を愛することこそ、神が求めておられることであり、隣人を愛するとは隣人を憎まないことなのだと教えられました。旧約の律法の新しい解釈であり、血が通わなくなって形骸化した律法に新しい命を吹き込む教えだったのです。

3.イエスの業の応答としての律法の遵守

・イエスは「殺すな」との戒めは、心で兄弟を怒ることをも含むといわれます。「姦淫するな」との戒めは、「みだらな思いで他人の妻を見る者は姦淫したのだ」(5:28)と言われます。心の中にある思いさえも罪といわれたら、誰がそのような律法を守ることが出来ましょう。何故イエスは人が守ることの出来ない律法を弟子たちに教えられたのでしょうか。この問題を解決しない限り、山上の説教は、私たちにとって何の意味もないものになります。
・今日の招詞としてエレミヤ31:33-34を選びました。次のような言葉です「しかし、来るべき日に、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、主を知れと言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者も私を知るからである、と主は言われる。私は彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」。
・イスラエルは紀元前前587年に国を滅ぼされました。神の都と呼ばれたエルサレムは破壊され、その支配はとこしえにと約束されたダビデ王家は断絶し、私が住むと主が言われた神殿も破壊されました。「あなた方を私の民、聖なる国民とする」という旧い契約は破棄されました。その時、エレミヤは新しい契約の約束を聞きました。主はエレミヤに言われました「私がイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る」(エレミヤ33:31)。その契約は、旧い契約の更新ではありえません。旧い契約を更新しても何の意味もない。何故なら、「人の心はとらえ難く病んでおり」(エレミヤ17:9)、「クシュ人がその皮膚を、豹がその皮を変えることが出来ないように」(同13:23)、人間は契約を守ることが出来ないからです。契約を更新しても、また人間の側から破るでしょう。救済は神の恩恵以外にはありえません。新しい契約においては、「神が語りかけ、人が聞く」と言うこと自体が廃止され、神の意志は直接人の心に置かれます。その時、服従さえなくなります。服従とは人間の意思と異質な意思とが出会う故に生じるものであり、神がその意思を人間の心に置く時には、このような対決はもはや起こらないからです。人間は心の中に神の意思を担い、神の意思のみを欲するようになるからです。
・イスラエルは「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:5)と命じられ、「今日私が命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、・・・これを語り聞かせなさい」(申命記6:6-7)と言われました。その結果がこの破滅です。もはや、人間の側からの救いはない。ですから「神がその律法を人間の中におき、心に記す」ことが起きます。バビロンの捕囚の民は、このエレミヤの預言を受け止め、捕囚地において新しい共同体を形成しました。国を失った捕囚民が信仰共同体として再生した背景には、エレミヤの影響が大きかったと言われています。この新しい契約はそれから何百年も忘れられたかのようでした。この契約がよみがえったのはイエスの時です。イエスは最後の晩餐の席上で弟子たちに言われました「この杯は、あなたがたのために流される、私の血による新しい契約である」(ルカ22:20)。新しい契約はイエスの血によって調印されたのです。
・姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな、等は代表的な律法の規定です。この規定は日本語では禁止命令ですが、原語のヘブル語では異なります。ヘブル語を直訳すると「姦淫しないであろう、殺さないであろう、盗まないであろう」となるそうです。神の恵みの共同体に入れられた者が殺しあうことはないし、姦淫することはありえない。何故ならば神は全ての人を愛されており、お互いは兄弟姉妹だからです。神に愛された者は力の限りに神を愛し、神を愛する者は隣人に悪を行わない。だから盗むことも殺すこともしないのです。本来の律法とはこのようなものなのです。イエスは自らの死を通して、私たちを神の国の共同体に入れて下さった、私たちを新しい契約の民にして下さった、だから私たちは一生懸命にイエスに従っていくのです。その時、罪多き存在が清められ、変えられていきます。その時、とても守れない、不可能だと思われたイエスの戒めが福音になっていくのです。何故なら、愛は隣人に悪を行わないからです。最後にパウロの言葉を聞きましょう「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」(ローマ13:8-10)。

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