江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2008年5月4日説教(使徒言行録1:3-14、聖霊降臨を待望する)

投稿日:2008年5月4日 更新日:

1.弟子たちの再召命

・3月23日のイースターから、ヨハネ福音書を読みながら、復活のイエスの、弟子たちとの出会いを学んできました。イエスがどのようにして弟子たちの前に姿を現されたか、福音書の復活顕現には二つの伝承があります。エルサレムでの顕現とガリラヤでの顕現の二つです。マルコやマタイはイエスがガリラヤで弟子たちに会われたと伝えます。他方、ルカはイエスが現れたのはエルサレムだったと主張します。ヨハネは最初にエルサレムで、次にガリラヤでイエスは現れられたと双方の伝承を伝えています。おそらくヨハネの記事のように、イエスはまずエルサレムで弟子たちの前に姿を現され、次にガリラヤで弟子たちに会われたのではないかと思えます。
・十字架でイエスが殺された時、弟子たちは茫然自失の状態にありました。3年間共に過ごし、イエスの指示のままに行動してきた弟子たちは、イエスがいなくなり、どうしてよいかわからない状況でした。その弟子たちの群れに復活のイエスが現れた、弟子たちは喜びました。しかし、出来事から日が経つと、弟子たちはまた不安になってきました。自分たちは本当に復活のイエスに出会ったのだろうか、あれは幻だったのではないか。弟子たちの多くはガリラヤ出身の漁師たちで、エルサレムには生活基盤もありません。彼らはとりあえずガリラヤに帰り、元の生活を続けることにしました。そのガリラヤで彼らは再びイエスに出会い、弟子として再召命されます。ヨハネ福音書で、復活のイエスが弟子たちの前に現れ、ペテロに「私の羊を飼いなさい」(ヨハネ21:15)と命じられた記事はそれを示しています。更には、マタイ4:19「私についてきなさい。人間をとる漁師にしよう」と言うイエスの言葉も、最初の召命時ではなく、復活後のイエスによる再召命を示唆してものと思われます。
・ガリラヤで再度の召命を受けた弟子たちはエルサレムに戻ってきます。終わりの日に、神の国はエルサレムに建てられると聖書は記していたからです(イザヤ2:2-3)。エルサレムに再度戻った弟子たちへの、イエスの最後の顕現が使徒言行録1章の記事です。ルカはイエスの言葉を伝えています「エルサレムを離れず、前に私から聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる」(使徒言行録1:4-5)。
・弟子たちは尋ねます「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」(1:6)。イスラエル王国の復興は弟子たちにとって終始、重要な関心事でした。最後の晩餐の時、イエスは言われました「あなたがたは、私が種々の試練に遭った時、絶えず私と一緒に踏みとどまってくれた。だから、私の父が私に支配権をゆだねてくださったように、私もあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、私の国で私の食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」(ルカ22:28-30)。イエスはご自身の王国を終わりの日に成就すべき神の国として提示しておられます。イスラエルにおいては、人々の罪のために、神は王国を廃止されました。イスラエルの民は、国を滅ぼされ、捕囚にされ、異民族支配の下に置かれ、離散した民となりました。しかし、神は預言者を通して、王国回復の時が来るとの約束を与え、イスラエルはその約束を待ち望みました。イエスは宣教の始めに言われました「時は満ちた。神の国は来た。悔い改めて福音を信ぜよ」。王国はイエスを王として再建される、キリストが死から復活されたからには、約束の時は来たのではないか。「今こそあなたが王座につかれる時、王国回復の時ではないか」と弟子たちは問うたのです。
・イエスの答えは意外なものでした。イエスは答えられます「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、私の証人となる」(1:7-8)。「神の国がいつ、どのようにして来るかは、父なる神がお決めになることで、あなたがたはそれを待てばよい。今あなたがたの為すべきことは、イスラエルだけではなく、全世界に神の国の福音を伝えていくことだ」と。弟子たちはがっかりしたでしょう。人々がエルサレムに集まり、神の国が建てられて自分たちが支配者になると期待していたのに、逆に自分たちがエルサレムから出て行くことを通して神の国を造って行かなければいけない。しかもその国はイスラエル王国ではない。呆然とする弟子たちの前をイエスは昇天して行かれました。

2.弟子たちが最初に行ったのは祈ることだった

・弟子たちはぼんやり天を見つめていました。その弟子たちに天から声がありました「なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(1:11)。天に帰られたイエスは再びおいでになる、そのことを準備するために、あなた方は為すべき事をしなさいと天からの声は促します。この声に促されて、弟子たちはエルサレムに戻ります。為すべき事をする、現実を見つめ、何を為すべきかを知ることです。自分たちはまだサマリア人や異邦人に伝道する準備は出来ていない。弟子たちが始めたことは、エルサレムに戻り、仲間と心を合わせて祈ることでした。
・弟子たちは、集まって祈り、約束された聖霊の降臨を待ちました。その場所はおそらく最後の晩餐が開かれた家の二階、イエスの隠れた弟子の一人の家だったでしょう。そこには、11人の弟子の他に、イエスに従ってきた男性や女性たち、イエスの母や兄弟もいました。イエスの肉親たちは、イエス在世中はイエスを神の子と信じていませんでしたが、復活のイエスに出会い、今は群れに加えられています。中心にペテロがいます。イエス裁判の時に「その人を知らない」と裏切った弟子です。トマスもいました。復活のイエスの話を聞いて「私は自分の手をわき腹の傷に入れるまで信じない」と疑った弟子です。キリストを信じなかった者、キリストを裏切った者、キリストを疑った者たちが、今ここに集められています。みな不完全な、弱い者たちです。教会は、罪人の集まりです。その罪人の集まりに、イエスの地上の業を継承することが委ねられています。
・教会が行った二番目の事は、欠けた十二弟子の一人を補充することでした。弟子の一人、イスカリオテのユダはイエスを裏切って死に、使徒は11人になっていました。ペテロは言います「イエスによって選ばれ、任命された、仲間の一人がイエスを裏切り、死んでいきました。私たちはユダに代わる使徒を選ぶべきです」(1:21-22)。ペテロはユダを非難していません。ユダの行為は彼一人の問題ではなく、自分たちも同じことをしたのだとペテロは認識しています。使徒たちは自分たちが今11人であることを、痛みを持って覚えています。ユダの問題はキリストを裏切ったことではありません。そうではなく、キリストのところに戻ることが出来なかった、この群れに戻れなかった。過ちを犯したユダが群れに戻れず死んでしまったのは、自分たちがユダを受け入れず、ユダに必要な配慮をしなかったためだとペテロは自分を責めています。
・ここに教会の原点があります。私たちの教会は30人ほどの小さな群れですので、誰かが礼拝を休まれればすぐにわかります。そして私たちはその方が礼拝の場にいないことに心を痛めます。そして今日はいないその兄弟姉妹が来週は共に礼拝を守れるように祈ります。その人がいないと、礼拝が満たされないからです。また、いろいろな行き違いから、私たちの群れを離れて行った人々がいることを、痛みを持って覚えます。その痛みの中で、教会は約束された聖霊を待ちます。

3.聖霊降臨~共にキリストの体を形成する

・今日の招詞として、使徒言行録2:1-4を選びました。次のような言葉です「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」。
・イエスは弟子たちに、聖霊が与えられるまで、エルサレムで待ちなさいと命じられました。弟子たちは共に集まり、祈って、待ちました。10日後、五旬祭の日に不思議な出来事が起きます。一同が集まっていた時、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」とルカは記述します。「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえた」、風は見ることは出来ませんが、存在を感じることは出来ます。聖霊=神の息吹も見えないが確かに弟子たちの上に降った、そのことを、ルカは「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえた」と表現しているのです。神の息吹は、「炎のような舌の形で弟子たちに降った」。炎は神の臨在を示し、舌は言葉を指します。霊の賜物として言葉が与えられ、弟子たちが語り始めたことを、ルカは「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」と表現しています。「一同は霊が語らせるままに、他の国の言葉で話し出した」、物音を聞いて、人々が通りに集まって来ました。その人々に向かって、弟子たちは、それぞれの国の言葉で、福音を語り始めます。
・ペンテコステで起こった出来事は、語ることの出来なかった弟子たちが、語る者に変えられていったことです。イエスの十字架から50日、弟子たちが、霊に動かされるまま、語り始めます。語る内容は、「あなた方が殺したイエスこそ神の子である」と言う、驚くべき内容です。弟子たちを取り巻く状況は同じです。50日前にイエスを処刑した、大祭司や律法学者は依然としてエルサレムの支配者です。群集は弟子たちをカルト集団であるかのような不信の目で見ています。その人々にペテロは語り始めます。語れば捕らえられ、処刑されるかもしれないが、それでも語ります。聖霊に押し出されて語らざるを得ないからです。
・聖霊に押し出されて語られた言葉は、多くの人々の心を動かしました。人々はペテロの話に心を打たれ、「兄弟たち、私たちはどうしたら良いですか」と問いかけました(2:37)。聖霊が語らせる言葉は人々に伝わり、「どうしたら救われますか」と言う悔い改めを促しました。聖霊の働きは聞く者にそれが真実であることを悟らせることでもあります。聖霊が働いて弟子たちに言葉を語らせ、聖霊が働いて人々にそれが真実であることを悟らせました。信仰を与えられた者が召され、宣べ伝えることを通して、人は聞き、信じ、呼び求めるようになります。
・聖霊に促された言葉は傍観者であった群集を変え、回心者が与えられました。この回心者がまた祈り求めて、やがて語る者に変えられていきます。皆さんもかつて聞いて回心し、バプテスマを受けました。今、皆さんに求められているのは、聞く者から語る者へと変わることです。牧師一人が語っても、その言葉は広がりを持ちません。皆さんが語ることが必要です。聖霊は求める者には与えられます。聖霊を共にいただき、この教会を、「地上におけるキリストの体」として形成していく役割が私たちに与えられています。
・バプテスマを受けていない人は、バプテスマを受けてほしい。バプテスマを受けるとは、傍観者から参加者になることです。まだ私たちの教会に属していない人は、教会に加わっていただきたい。この教会を通して為される神の業に、共に参加してほしいからです。教会員の方には、この教会を通して神は働かれるとの信仰に固く立ち、迷わないでほしい。つまずくこともあるでしょうが、そのつまずきを超えて、この教会の礎になっていただきたい。教会は死んだイエスを記念するために集まる場所ではありません。生きて、世界を支配されるイエスから、聖霊をいただいて、この世に出て行く力を与えられる場所なのです。

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