1.裁きの上になされる赦し
・先週、私たちは、ヨハネ福音書21章前半を学びました。ヨハネ福音書は20章で一旦閉じられましたが、その閉じられた福音書が改めて書き始められています。それは復活の主がエルサレムだけでなく、ガリラヤでも弟子たちの前に現れて下さり、励まして下さった、そのことをぜひ教会の人々に知って欲しいとヨハネが考えたからです。そのイエスは、食事の後、ペテロに向かって「私の羊を飼いなさい」と教会の群れを委託されます。その次第を伝えるものが、ヨハネ21章後半です。今日はその箇所を通じて、教会とは何かを考えていきます。
・復活のイエスはガリラヤで弟子たちに現れ、共に食事をされました。食事の後で、イエスはペテロに聞かれます「あなたは私を愛するか」(21:15)。ここで、愛すると言う言葉に「アガパオー」が用いられています。「アガペー」の動詞形です。ギリシャ語の「愛」には、アガペーとフィリアがあります。アガペーとは神が人を愛する時に用いられる絶対的な愛、フィリアとは人間相互の相対的な愛を指します。イエスはペテロに「私があなたを愛したように、あなたも私を愛するか」と聞かれているのです。それに対してペテロは「私があなたを愛していることはあなたがご存知です」と答えます。ここでペテロは「フィレオー」と答えています。フィリアの動詞形です。「私は人間の限界内でしかあなたを愛することは出来ません」とペテロは答えています。
・イエスは最後の晩餐の時に弟子たちに言われました「私はこれから十字架につく。あなた方は私の行く所についてくることは出来ない」(13:33)。その言葉に対してペテロは答えます「主よ、何故ついていけないのですか。あなたのためなら命を捨てます」。そのペテロに対してイエスは答えられました「鶏が鳴くまでに、あなたは三度私のことを知らないと言うだろう」(13:38)。イエスの言葉通りに、ペテロは自分が捕らえられそうになった時、三度イエスを否認しました。このイエスを裏切った出来事は、ペテロの心の中に重い罪責として残りました。人間の限界を知ったペテロは、「どんなことがあってもあなたを愛します」と答えることは出来ません。ですから「アガパオー」と問われるイエスに、「フィレオー」としか答えることが出来ません。
・二度目にイエスは問われます「私を愛しているか」。依然として、「アガパオーとして愛するか」と問われています。そのイエスにペテロは「フィレオーとしてしか愛することは出来ません」と答えます。三度目にイエスはたずねられます「私を愛しているか」、ここで「愛する」は、「アガパオー」から「フィレオー」に変えられています。「あなたのできる範囲で愛すれば良い」とイエスが譲歩されました。このイエスのやさしさにペテロは崩れ落ちます「主よ、あなたは何もかもご存知です。私があなたを愛していることをあなたはご存知です」(21:17)。「私が弱さゆえにあなたを裏切ったことをあなたはご存知です」とペテロは罪を認め、告白しています。
・三度、イエスは「私を愛しているか」と問われました。ペテロは悲しくなり、また情けなくなりました。イエスは私の言うことを信じてくださらないのか。その悲しみの中でペテロは告白します「私はあなたを裏切りました」。大祭司の屋敷で、怖くなって、三度「イエスを知らない」と言ったペテロ、そのペテロに「私を愛するか」と三度迫られるイエス、ここに裁きがあります。その裁きがペテロを罪の告白と悔い改めへと導きました。罪は罪として裁かれなければいけない、その裁きの上にこそ赦しがあります。イエスは私たちを罰するためではなく生かすために裁かれます。罪は無条件に赦されてはいけない。罪を罪として認める、そこに初めて赦しが成立します。ですからイエスはペテロに言われます「私の羊を飼いなさい」。
・人は挫折を通して神に出会います。挫折し、罪を告白し、悔い改めた者が始めて、神の委託に応えることが出来ます。ですからイエスは悔い改めたペテロにご自分の群れ、教会を委託されました。ここに牧者の要件があります。牧者、現代の牧師の資格は、神学の勉強をした、聖書に精通している、指導力がある、人格的に優れていることではありません。自分の弱さを知り、その弱さを赦された体験を持つ者だけが、牧者として召されます。自分の弱さを知る故に他者の弱さを責めず、赦された故に他者を赦すことが出来るからです。
2.赦しの上になされる従順
・ペテロに教会を委託された後で、イエスは言われました「あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(21:18)。他の人に帯を締められ=逮捕されて、両手を伸ばして=十字架に両手をはりつけにされて、ペテロが殉教の中で死ぬであろうことをイエスは預言されています。ペテロは30年後の紀元63年、ローマ皇帝ネロのキリスト教徒迫害時に捕らえられ、十字架で殺されたと伝えられています。それを暗示するのが21:19の言葉です「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである」。
・しかし、ペテロにはまだ人間としての迷いがあります。だから彼は聞きます「ここにいるヨハネはどうなるのですか」(21:21)。ヨハネも殉教するのかどうかをペテロは聞いています。しかし、イエスは言われます「ヨハネの行く末はあなたには関係がない。あなたは私に従いなさい」。イエスの弟子になるとは、イエスに従うことです。従う時、ペテロのように殉教の道を歩む人もあるかもしれないし、他の人は別な道を歩みます。ヨハネは、その後エペソに行き、そこで天寿を全うして死んだと言われています。そのヨハネの弟子の一人が、師から聞いたことを福音書にまとめた、それが、今読んでいるヨハネ福音書であると考えられています。21:24がそれを暗示しています「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている」。イエスから愛された弟子、ゼベダイの子ヨハネがイエスの思い出を語り、それを後代の私たちがまとめたとヨハネ(使徒ヨハネと区別するために、長老ヨハネと呼ばれる)は述べています。
・「あなたは私に従いなさい」、ある人はキリストのために死ぬことを通して神の栄光を現し、別の人はキリストを証する福音書を書くことで神の業を担います。人はそれぞれの賜物と使命を与えられ、それぞれの場で神の栄光を現します。「ヨハネにはヨハネの道があり、あなたにはあなたの道がある。それで良いではないか、あなたは私に従いなさい」とイエスは言われます。現代の私たちもある人は才能に恵まれ、他の人は奉仕の心にあふれています。それぞれの人が自分の出来ることを精一杯していけば良い、そこに共同体としての教会が生まれます。
3.赦しの上に立てられた教会
・今日の招詞にエゼキエル18:30−31を選びました。次のような言葉です「それゆえ、イスラエルの家よ。私はお前たち一人一人をその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか」。
・エゼキエルは捕囚地バビロンに立てられた預言者です。イスラエルは紀元前587年にバビロニヤ帝国に国を滅ぼされ、民は捕虜としてバビロンに連れてこられました。それから数十年経った時、捕囚民の中に、「主の裁きは不公平だ、何故、父祖の罪を我々が負うのか」と言う不満が出ました。バビロンで生まれた新しい世代は、自分たちは罪を犯していないのに、今でも捕囚でいることに不満を持ったのです。それに対してエゼキエルは言います「イスラエルの家よ。私はお前たち一人一人をその道に従って裁くと主なる神は言われる」。親の罪を子が負うことはない、親が罪を犯したから、お前たちが今このバビロンにいるのではない、お前たちの罪がこの苦難をもたらしていることを認めよとエゼキエルは迫ります。
・自分たちが受けている苦難の責任は自分たちより前の世代が罪を犯したためだ、自分たちは何も悪いことをしていないと考える時、私たちは責任を他者に転嫁しています。「私が悪いのではない」、そればかりを主張する時、そこには悔い改めは生じず、また赦しも生じません。同時に、自分たちは不運の中にあるという悲観主義を生み出します。自分は悪くない、何故私が苦しみを受けなければいけないのかと言う時、そこからは良いものは生まれないのです。この苦しみは主が与えられた、その意味を求めていく時に、救いが開かれます。
・エゼキエルは主の言葉を伝えます「お前たちは、『主の道は正しくない』と言う。聞け、イスラエルの家よ。私の道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか」(18:25)。あなたが罪を犯したのだ、あなたがそれを認める時、あなたは赦されていく。しかし罪を認めない限り赦しはない。エゼキエルは続けます「悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ」と。自分の罪を認めよ、その時に赦しが来る、その時始めて、捕囚の縄目から解放される、悲観し、無気力になって死ぬなとエゼキエルは励ましています。
・イエスは「あなたは私を愛するか」と問われます。イエスは挫折した者を捨てられない。むしろ挫折によって自分の無力を知った者にこそ、神の業を託されます。この赦しと委託から、悔い改めが生じ、その悔い改めが罪責感からの立ち直りをもたらします。ペテロも「私の羊を飼いなさい」という言葉により赦され、「従いなさい」という言葉により、新しい役割を担って立ち上がりました。全ての人は罪人であり、その中に弱さと愚かさを持ちます。自分がそういう存在であることを知って泣き、それでも神は受容して下さることを知って、人は新しく生きる者になります。キリストの愛は、もう一度やり直すことを認める愛です。教会はそのような失敗者が集まる場所です。教会は罪の赦しと委託の上に立てられています。赦されたのだから、赦しなさい。赦しのない社会の中にあって、私たちは赦し合える共同体を形成するのです。そこが教会です。