江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2008年2月24日説教(�ペテロ1:13-23、聖なる者となりなさい)

投稿日:2008年2月24日 更新日:

1.聖なる者となる

・今日、私たちは、礼拝の中で婚約式を執り行いました。その婚約式にあたり、私たちは、ペテロの手紙を読みます。ペテロの手紙には、夫と妻とのあり方が説かれています。3章1節は記します「妻たちよ、自分の夫に従いなさい」。以下、妻のあり方について6節を用いて、「夫に従う」ことをペテロは勧めています。他方、夫に対しては、たった1節だけです「夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい」(3:7)。妻には夫に従えと繰り返し命じるのに、夫には妻を大事にしなさいというだけです。今日の私たちから見れば、不公平な記述のように見えます。ペテロは何故、このような手紙を書いたのでしょうか。それを知るために、今日はペテロ1の手紙全体を学んでみたいと思います。
・ペテロの手紙は、ペテロが弟子シラスに口述筆記させて、アジア州(今日のトルコ)の教会にあてて書いた手紙だと言われています。当時、アジア州の信徒たちは、キリスト者になったために迫害され、苦しんでいました。その彼らに、ペテロは書きます「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」(1:6-7)。
・ペテロは「主が救ってくださるから、しばらくの間忍耐しなさい」とは言いません。試練は続くだろう、しかし、その試練が天に宝を積むのだと激励します。キリスト者は天を目指して生きますから、地上の栄光を求める世の人々とは生き方が異なってくる。だから、迫害を受けます。そのような異教社会にあってどのように生きるのか。ペテロは言います「無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい」(1:14-15)。
・「聖なる者となる」、とはどういうことでしょうか。ペテロは言います「あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです」(1:17)。あなたがたは神の子とされたのだから、それにふさわしく生きよとペテロは言います。彼は続けます「あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、傷や汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです」(1:18−19)。キリストがあなたたちのために死んで下さったのだから、キリストの愛に応えるような生活をする。それが聖なる者となることです。
・この世は支配・従属の関係で動きます。しかし、あなた方を規律するものは愛であるべきだとペテロは言います「あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい」(1:22)。愛するとは捨てることです。親は子どもために、見返りを求めないで多くのものを与えます。その結果、多くのものを失いますが、それを喜んでいきます。キリストが私たちのために自己を捨てて下さったから、私たちも他者のために自己を捨てていくのです。キリスト者の愛とは受ける愛ではなく、与えていく愛です。自分が得をするのではなく、相手が得をするような生きかたです。

2.キリスト者の生活のあり方

・ペテロは2章後半から、当時の社会的弱者であった奴隷や妻たちの生きかたについて述べます。教会は教えました「バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3:27-28)。この教えを聞いて、社会的差別の中にあった奴隷や婦人たちが教会に集まってきました。しかし、社会の現実は教えとは違いました。奴隷と主人は教会の中では平等でも、一歩外に出れば、主人は主人、奴隷は奴隷でした。妻は教会の中では「男も女もない」という教えを聞きましたが、現実の生活の中では、夫に従属する者として、何の法的権利も持ちませんでした。「神の前に平等であっても人の前では平等ではない」、妻や奴隷は不満を抱きました。人々の不満が教会の中に混乱を引き起こすようになりました。だからペテロは奴隷や婦人たちに語ります。
・ペテロはまず奴隷たちに、奴隷であると言う現実を受け入れ、その現実の中で信仰者として生きよと勧めます。「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい」(2:18)。ペテロは言います「罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです」(2:20-21)。無慈悲な主人に心から仕えてこそ、信仰者なのだ。何故ならば、「キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」(2:21)。ペテロは続けます「(この方は)ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました」(2:23-24)。キリストが私たちのために十字架を負ってくださったから、私たちも与えられた十字架を負っていく。その時、無慈悲な主人を愛していく生きかたが生まれるのです。

3.キリスト者の結婚

・奴隷への呼びかけの後に、妻たちへの呼びかけが来ます。当時の妻たちは、夫の所有物であり、奴隷のような存在でした。その妻たちに、ペテロは、夫に従うように勧めます「妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです」(3:1-2)。ペテロは妻たちに、夫が不信仰であれば夫の下を去れとは言いません。不信仰な夫が与えられたことを神の召しと受け止め、夫に心から従えと命じます。「あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです」(3:3-4)。妻が信仰生活をすることを嫌う夫は、日本にも多いでしょう。しかし、妻の信仰生活が真摯なものであれば、それは夫を喜ばせるはずです。何故ならば、信仰者の妻は外面を飾るのではく、内面を飾るようになる。それは生活の中では、忍耐となり、従順となるからです。
・妻は、この世では弱者であり、家庭内でも従属を求められます。だから彼女は悲しみを知る、だからキリストに出会った。経済力のある夫は、自分は強い、自分は一人で生きていると思い込んでいるから、神を求めにくい立場にあります。妻は夫を愛するが故に、夫が救われることが最大の願いになります。それは夫に言葉で説得するのではなく、自己の忍耐・従順を通して、神を信じる者の生き方を夫に示すのです。妻を通して、夫が信仰に導かれて行くことをペテロは期待しているのです。
・他方、夫に対しては妻をいたわりなさいとペテロは勧めます「夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません」(3:7)。ペテロは夫に対して、妻はあなたの付属物ではなく、共に命の恵みを受け継ぐ同労者だと教えます。私は牧師になる前の27年間、会社勤めをしていました。その時、妻を同労者とは考えませんでした。私は外で働き、妻は家庭で働く。家庭のことは、子育てを含めて、すべて妻に任せていました。しかし、8年前に牧師になって、初めて、同労者の意味がわかりました。妻なしには、教会の働きはできないのです。ペテロの手紙では、妻に対する教えは6節、夫に対しては1節のみです。小さくされた妻の方が神に近い、妻にクリスチャンホームを作る使命をより多く、ペテロは期待しています。
・今日の招詞にエペソ5:22-25を選びました。次のような言葉です。「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい」。
・妻たちに「夫に仕えるように」命じられていますが、「教会がキリストに仕えるように」、仕えなさいと言われています。信仰の行為として夫に仕えるのです。また夫に対しても、「妻を愛しなさい」と勧められていますが、「キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をお与えになったように」、「妻を愛しなさい」と言われています。キリストは教会のために死なれました。夫は妻のため死ぬ、家庭の責任を引き受ける故に、妻から愛され、仕えられるのです。パウロは言います「私たちは、キリストの体の一部なのです。それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。この神秘は偉大です。私は、キリストと教会について述べているのです」(5:30-32)。結婚はキリストの体としての男女の結合なのです。
・この世では、男女がふさわしいと思う相手を求めて結婚し、家族が形成されます。結婚したけれど、ふさわしくないと思えば離婚して、新しい相手を求めます。しかし、聖書はそれを否定します。聖書において結婚とは、バプテスマや聖餐式に等しい信仰の行為なのです。ですから、夫が妻を代える行為、すなわち離婚や不貞は妻を傷つけるだけでなく、自分の信仰をも否定する行為なのです。現実の私たちはクリスチャンになっても、離婚したり、相手を裏切ったりします。肉の弱さを持つからです。それにもかかわらず、結婚とは信仰の行為であることを知る必要があります。妻が夫に従うだけでなく、互いに仕え合う、そういう相互依存の関係が結婚なのです。若いお二人が、今日、神と証人の前で、婚約の誓いをされた。そのお二人が、キリストの体としての結婚に進まれるよう、お祈りいたします。

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