1.犠牲を捧げる祭儀から、自らが犠牲となる祭儀へ
・今日、私たちは、聖書日課に従ってヘブル書を読みます。ヘブル書は、読まれることが少ない書簡ではないかと思います。一つは、ヘブル書は書簡というよりも説教集で、内容が難しいことがあります。次に、ユダヤ教の贖罪の祭儀のとの比較で、キリストの十字架の意味を解き明かしていますので、祭儀を知らない私たちにはなじみにくい面があります。その意味で、私たちがヘブル書を読むのは忍耐を必要としますが、我慢しながら読み進むうちに、そのすばらしさがわかってきます。どのようにすばらしいのか、今日はヘブル書の中核とも言える9章を共に学んでみたいと思います。
・ヘブル書はキリストの為された贖罪の業を旧約聖書の大祭司の行う贖罪祭儀になぞらえて説明しています。旧約=ユダヤ教の礼拝の中心は犠牲の動物を捧げる贖罪儀式でした。自分の罪を犠牲の動物に転嫁することによって赦しを求めます。ヘブル書は述べます「最初の契約にも、礼拝の規定と地上の聖所とがありました。すなわち、第一の幕屋が設けられ、その中には燭台、机、そして供え物のパンが置かれていました。この幕屋が聖所と呼ばれるものです。また、第二の垂れ幕の後ろには、至聖所と呼ばれる幕屋がありました」(9:1-3)。幕屋とはシナイ山でモーセに神が作成を命じられた礼拝の場所、後の神殿の原型となりました。幕屋には第一の幕屋=聖所と第二の幕屋=至聖所があり、その間には大きな垂れ幕がありました。通常の礼拝は聖所で行われ、その奥にある至聖所(神の臨在する場所)には大祭司だけが年に一度入ることが出来ます。贖罪の日に、大祭司は屠った雄牛と雄山羊の血を携えて至聖所に入り、その血を祭壇に捧げます。
・聖所と至聖所は垂れ幕でさえぎられ、人は神の臨在する至聖所には近づけません。著書は言います「第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます。このことによって聖霊は、第一の幕屋がなお存続しているかぎり、聖所への道はまだ開かれていないことを示しておられます」。(9:7-8)。至聖所への道が垂れ幕にふさがれているため、人が神と直接に交わることは不可能だったのです。
・福音書記者マタイはイエスが十字架で死なれた時に、聖所と至聖所を隔てていた垂れ幕が裂かれたと記述します。「イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け(た)」(マタイ27:50-51)。神殿の垂れ幕、聖所と至聖所をさえぎる幕が裂かれた、私たちが神と交わる道が開けたとマタイは記述しているのです。垂れ幕が裂かれた意味をヘブル書著者は次のように言います「キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」(9:11-12)。私たちにはもう犠牲を捧げる必要はない、何故ならばキリストはご自身の血を永遠の犠牲として捧げてくださったからだと著者は言います。
2.他者のために血を流すことによって生まれたもの
・旧い契約では、救われるために犠牲の血を流すことが必要でした。祭儀においては犠牲の動物の血が、現実世界においては殺人者の血が求められます。旧約では、家族を殺された者は殺人者の血を流すことによって、魂のいやしを求めます。今日、犯罪犠牲者の家族の多くが犯人の極刑を求めます。血を求めるのは心情的には理解できますが、信仰的に見ればまだ旧約の世界に留まっていることになります。アメリカが2001年9月11日に行われたテロの報復を求めて、アフガニスタンやイラクに軍事行動を起こしたことも旧約の祭儀、すなわち犠牲の血を流すことによって自らの救いを求める行為と同じです。この旧約の祭儀によっては完全な救いはない。アフガニスタンやイラクへの侵攻がアメリカにとって何の救済にもならなかったことはご承知の通りです。
・しかし、キリストは私たちの救いのためにご自身の血を流されました。ここに初めて旧約を越える出来事が示されたのです。旧約の大祭司は罪を贖うために犠牲の動物の血を持って至聖所に入りましたが、キリストはご自身の血を携えて聖所に入られ、ご自身をいけにえとして捧げられ、神はこれを受入れてくださった。「もう私たちは救いのために犠牲の血を必要としなくなった」。それは私たちの生活に言い換えれば、「殺人者の血を流すことによって、魂のいやしを求める」必要がなくなったことを意味します。ですから仮に私たちの家族が殺されても、私たちは報復として相手の血を求めない。逆に、家族を殺された者はその殺人者の悔い改めと救いを祈ることによって、受けた傷のいやしをいただくようになります。これが新約の世界です。
・ヘブル書は9章15節以下で契約の概念を用いて、何が変わったのかを説明します。「キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません」(9:15)。契約という言葉はヘブル語ベリートで、「切る」という意味です。古代社会では契約を締結する場合、当事者は動物を二つに切って、その間を通り過ぎた。契約=ベリートという言葉は、破ったならばこの動物のように殺されても文句は言わない、死で贖うという重みを持った言葉なのです。その契約がシナイにおいて神と民の間に結ばれました。エジプトから救い出された民は十戒を与えられ、「主が語られた言葉は全て行います」と契約し、そのしるしとしてモースは雄牛をほふってその血を一部は祭壇に、他を民に振りかけて契約を締結しました。しかしこの契約は破れました。
・前587年イスラエルは滅亡します。旧い契約は破棄されました。その時、エレミヤは新しい契約の約束を聞きました「私がイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る」(エレミヤ31:33)。その契約は、旧い契約の更新ではありえません。旧い契約を更新しても何の意味もない。何故なら、人間は契約を守ることが出来ないからです。救済は神の恩恵以外にはありえません。この新しい契約はイエスの十字架の血によって調印されたと聖書は証言します。イエスは最後の晩餐の席上で弟子たちに言われました「この杯は、あなたがたのために流される、私の血による新しい契約である」(ルカ22:20)。
3.新しい契約に生きる
・今日の招詞として�コリント3:6を選びました。次のような言葉です「神は私たちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします」。パウロは、「新しい契約」に仕えると言います。「旧い契約」は文字=律法による契約であり、それは人間が律法を守ることによって神との関係が成立することを意味します。しかし、人間は律法-=契約を守ることが出来ない。そのために、罪の赦しとして犠牲の血を必要としていました。旧約においては、律法と贖罪祭儀は一体なのです。それに対して、キリストが建てられた「新しい契約」は霊による契約であり、人間が律法を行うかどうかは問われません。パウロはこの「新しい契約」という言葉を「主の晩餐」(�コリント11:25)でも用います。主の晩餐=キリストの十字架の血こそが、新しい契約の血なのです。新しい契約の下に生きる者はもう犠牲を捧げる必要はない。キリストの血を通して、神の戒めは石の板ではなく心の板に書かれ(�コリント3:3)、私たちの人格が根本的に変えられたからです。旧約の「競争と報復の世界」から、新約の「赦しと共存の世界」が生まれました
・今、日本の社会は「生きづらい」社会になっているように思えます。自殺者は年間3万人を超え、うつ病など心を病む人が増えています。「生きづらさについて」という光文社新書を読みましたが、その中で、著者・萱野稔人(かやの・としひと)さんは次のように言います「精神的な『生きづらさ』のなかに、すでに社会的な『生きづらさ』の要素がある。たとえば貧困や不安定労働における『生きづらさ』は、たんにお金がないから生きづらい、ということだけにとどまらず、社会からまともに扱われない、居場所がないといった生きづらさも含まれています」。
・生きづらさもたらす要因の一つが社会における市場経済化の進展です。国や地域を越えた企業間競争が強まり、企業は生き残るため、人件費を圧縮し、臨時や派遣社員を増やしています。臨時や派遣では生計を営むに足る収入を得ることが出来ませんが、生き残るためには不安定な雇用を強いられる人が増えてもかまわないという考えです。また数が減った正社員は長時間労働を強いられ、ストレスでうつになる人が増えています。生産性に寄与しない中高年者はリストラの名の下で退職を強制され、生活基盤が崩壊しています。社会の働き手である男性が追い詰められてくると、その影響は家族全体に及び、男も女も子どもも「生きづらい」社会になっています。そして、経済的にも精神的にも追い詰められた人たちの一部が、「生きるのがいやになった」として自殺したり、犯罪を犯したりしているのです。
・敗者を追い詰める社会、犠牲の血を流すことによって自らの救いを全うする社会、現代社会はまだ旧約の世界にあります。キリストが死なれて2000年が経つのに、この社会は今だ十字架の贖罪の意味を知らない。その中で、キリストの贖いを通して新約の世界を知った私たちの生き方が問われてきます。いろいろな生き方があります。「人として生まれる人生」、「人として生きる人生」もあります。自己実現のために生きる生涯です。しかし自己実現、競争に勝つためには常に敗者が、犠牲が必要であることを忘れてはいけません。新約を知った私たちは新しい生き方、「人を生かす人生」、「人を生む人生」を歩むように招かれています。勝つことを求めない、他者と共存する生き方です。それは人生をあきらめた生き方ではなく、最も良い人生を歩むために他者に仕えていく人生です。
・私たちはいつも「人から愛されたい、人から認められたい、自分の存在価値を示したい」と願っています。そこに不幸の原因があります。人から愛されることが難しければ人を愛していく。人から認められることが難しいならば人の良い点を見出し認めていく。イエスが言われたように「受けるよりも与えるほうが幸い」(使徒20:35)なのです。イエスはそのためにご自分の命を捧げられた、そしてあなたを清めてくださったではないかヘブル書は言います「イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです。だから、私たちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか」(13:12−13)。旧約の、弱肉強食の世界において、イエスにより贖われた命を他者のために用いていく。そのような決心に招かれているのです。