江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2008年10月26日説教(マタイ5:38-42、復讐してはならない)

投稿日:2008年10月26日 更新日:

1.当然の権利を捨てよと言われるイエスの教え

・毎月第四主日は私(水口仁平)が、山上の説教から、主イエスの御言葉を語らせていただいております。今日はその七回目で、「復讐してはならない」です。イエスは言われました「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、私は言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」。「右の頬を打たれたら左の頬を向けなさい」とは、イエスの教えの中でも特に有名で、聖書を読んだことない人にも良く知られています。私がクリスチャンになって間もない頃、職場で「今右のほっぺを叩いてやるから、ついでに左も叩かせろ」と迫られました。試されているなと思いました。そんなことを言っても多分出来ないだろうということでしょう。実際右でも叩かれたら、「何をする」と叩き返すか、別な方法で仕返しをするか、その場を立ち去るかで、決して反対の頬を打って下さいと相手に差し出すことはしないでしょう。
・戦争中の軍事訓練の時、軍人から拳固で頬を打たれたことがあります。力任せに打たれたので、床に転倒し、打たれた頬は激しく痛み、屈辱的な出来事でした。頬を打たれる、大変なことです。しかも、「右の頬」という言葉に注目した時、この言葉は単に頬を打たれる以上の意味を持っていることがわかります。人を平手打ちする時、普通は利き腕の右で打ちますから、当たるのは相手の左頬です。相手の右頬を打つとは、手の甲で打つことを意味しています。ユダヤ人社会において、手の甲で相手を打つことは侮辱を意味しており、右の頬を打たれることは、侮辱を加えられたことを意味しています。イエスはここで侮辱されたら、さらにその侮辱を追加で受けよと言われているのです。
・イエスがこの教えを語られたのは、「目には目を、歯には歯を」という旧約聖書の律法の教えに対しでした。その教えはレビ記24:19-20に語られています。「人に傷害を加えた者は、それと同一の傷害を受けねばならない。骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない」。私たちの感覚から見れば、残酷な教えであるように感じますが、この教えが意味しているのは、私的な恨みで復讐をしてはならないということです。人から損害や苦しみを受けた、それに対して個人的な恨みや憎しみによって復讐していくならば、その復讐は決して「目には目、歯には歯」で止まるものではありません。私が子どもの頃、喧嘩して叩かれて帰ると、父は「一つ叩かれたら二つ叩き返せ」と叱ったものです。復讐は復讐を生み、エスカレートしていく。「目には目を、歯には歯を」という掟は、制限のない私的な復讐を禁じて、裁判において傷害の程度を認定し、それ以上のことをしてはならないという制限を加える法律、同害報復法なのです。
・当時の律法では打たれたら打ち返すことが許されていた、しかしイエスはその権利を用いるな。打たれても、侮辱されても耐えなさいと教えられました。何故イエスは私たちにそこまでの忍従を求められるのでしょうか。「復讐は復讐を生み、際限なく悪は増殖する」、その悪の連鎖を止めるには、最初の復讐を思いとどまることしかない。それが神の国に生きる者のあり方だとイエスは言われています。しかし、このような生き方でこの世を生きていけるものなのでしょうか。

2.積極的従属の教え 

・次にイエスは言われます「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」(5:40)。「訴えて下着を取る」というのは、借金の差し押さえの訴えです。お金を借りて返せない人は、持っているものを差し押さえられるのです。「下着を」というのは、借りている人が貧しく、財産など持っていないことを示しています。その日暮らしの貧しい人が、わずかな金を借りて、返せないので下着を抵当に取られようとしているのです。イエスはその人に「上着をも取らせなさい」と言われます。上着は当時の貧しい人の寝具でした。「もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか」(出エジプト記22:25-26)。どんなに貧しくて借金が返せない人であっても、夜を過ごすための上着まで取り上げてはならない、その人が生きるための最低限の権利として保証されていると律法は定めているのです。ところがイエスは、「上着をも取らせなさい」と言われます。それは、貧しい人に対して、認められている最低限の権利さえも放棄しなさいということです。そこまでする必要があるのだろうかを思わせられる教えです。
・次の41節「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい」という教えは国家から徴用された時のことを意味しています。1ミリオンは1450メートルです。当時のユダヤはローマ帝国の支配下にあり、ローマ軍が通過する時、兵士の荷物を背負って一緒に行軍させられることがありました。これは選民意識の強いユダヤ人にとって耐え難い屈辱でした。ローマ兵の荷物を背負うことさえ屈辱であるのに、1ミリオン行けと命じられたら2ミリオン行くようにイエスは言われているのです。これも私たちには理解しがたい教えです。
・これらのことを通してイエスが語っておられるのは、人から受ける苦しみ、人格を否定されるような侮辱であったり、強い者によって弱い者が苦しめられることですが、それらの苦しみを積極的に引き受けなさいということです。それに対して抵抗したり、反撃したりしてはならない。いや、抵抗するなということだけではありません。「左の頬をも向けなさい」「上着をも与えなさい」「一緒に二ミリオン行きなさい」とは、そのように自分を苦しめる相手に対して、むしろ愛をもって臨めということです。苦しみを忍耐するだけでなく、苦しめている相手を愛することをイエスは求めておられるのです。「復讐をするな」という教えは積極的な従属を命じています。

3.イエスの示された愛の意味をもう一度考える

・今日、私たちは招詞として、第一ペテロ2:22−24を選びました。次のような言葉です。「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。私たちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」。
・イエスの語れた「復讐するな」という教えは理解が難しい教えです。不当な行為をする者に反撃せず、その行為を甘んじて受ける、それは不法と不正が渦巻く世の現実を無視して、あまりにも理想主義的だと思えます。しかし、イエスの生涯を見る時、教えをそのまま生きられた生涯であったことがわかります。イエスは、悪人に手向かうことをせず、自分を侮辱し苦しめる者たちに抵抗することなく、苦しみを受入れられました。神の子であるのに、神の子としてのすべての権利を放棄して人間となり、貧しく弱い者として歩み、最後には罪人として殺される、そういう道を歩まれたのです。それは、下着を取ろうとする者に上着をも取らせるような歩みです。一ミリオン行くように強いられた者が進んで二ミリオン行くのと同じことをイエスはされたのです。何故でしょうか。その行為を通して神の国がこの世に打ち立てられるためです。ペテロはイエスに従う生涯を通してそのことの意味を理解しました。だから彼は言います「私たちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」。
・イエスがここで私たちに教えておられることは、神の国の教えなのです。神がこの世に、どのようなご支配を確立しようとしておられるのかを語られているのです。それは、悪に対して報復をもって対抗するのではなく、むしろ侮辱や苦しみを引き受け、自らの当然の権利をも放棄して、罪人の救いのために十字架の苦しみをも背負っていく、そういう徹底的な愛による支配です。そして、その神の支配を信じ受け入れ、神の民として生きる者、信仰者がどう生きるべきかが教えられているのです。一切の復讐を禁じるイエスの教えは、神の国と分かち難く結びついています。復讐=憎しみからの解放は、イエスによってもたらされる神の国の下でこそ現実となるのです。
・この教えは今の世においても、決して非現実的なものではありません。2001年9月11日テロリストの飛行機がニューヨークの貿易センタービルを破壊し、3000人以上のアメリカ人が亡くなりました。アメリカが右の頬を打たれたのです。アメリカはそれに対して、アフガニスタンを空爆し、イラクに攻め入りました。アメリカは打ち返したのです。それから7年、アフガニスタンとイラクでの戦争は泥沼化し、死者は米軍だけで6千人、アフガン人やイラク人を含めると10万人を超えます。「打たれたら打ち返す」、それが国際政治の場に適用されたら、このような悲惨な結果をもたらすのです。もしアメリカが2001年に報復を断念し、テロの起きた要因、貧困や富の不公平な分配の問題を解決するために国際機関を設立し、貧困撲滅のために活動を始めていたら、今日の世界は変わっていたと思います。イエスの言葉は、深い真理を含んでいることを知る必要があります。
・同時にイエスはただ忍耐されただけの方ではないことにも知る必要があります。イエスは自らに加えられた侮辱には徹底的に耐えられましたが、神に加えられた侮辱には抗議の声を上げられました。祈りの家を商売の家にしてしまった祭司には神殿清めで抗議され、神の戒めを人間に対する重荷にしてしまった律法学者に対しては、律法を本来の祝福に戻すために行為されました。私たちはイエスの両面の声を聞くべきです。神の国はイエスの十字架を通してもたらされましたが、その支配はまだ「目に見えるもの」にはなっていません。「神の国は既に来たがまだ完成していない」、私たちはその途上にあります。途上の私たちは神の国の完成を妨げる様々の動きと戦う必要があります。私たちはこの世の生活において、悪人の悪を抑制し、その犠牲になる人が少なくなるようにしなければなりません。そのためには、警察が必要だし、裁判制度が必要です。私たちは、この世の現実において、強い者が弱い者を苦しめ、搾取する現実があることを知っています。そういうことを防ぎ、弱い者の権利を守るための法的手段や制度を整えることも必要です。生活の最低保証制度を完備し、貧しい者が上着まで取られることのないようにしなければならないのです。イエスの示された神の国に生きる者の生き方と、それを妨げる者との戦いを同時に行うのです。
・私たちはイエス・キリストによる神の愛の支配に既に生かされています。イエスが私たちのために、神の子としての権利を捨てて人となり、苦しみ、侮辱を進んで引き受け、十字架への道を歩んで下さったことによって、神の支配が私たちの上に確立しているのです。それゆえに私たちは、復讐や憎しみの思いから解放されて新しく生きます。同時に神の国建設のために働きます。「神の国は既に来たがまだ完成していない」、この“既に”と“まだ”の中で、私たち信仰者は「蛇のように賢く、鳩のように素直に」生きることを求められています。

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