江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2008年1月20日説教(ヨハネ1:35-51、イエスの弟子になる)

投稿日:2008年1月20日 更新日:

1.弟子の召命

・新年に入り、私たちはヨハネ福音書を読んでいます。ヨハネは言います「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている」(1:3-4)。ヨハネの教会は迫害の中にありました。教会の人々は、「ナザレのイエスこそ救い主である」と告白したばかりに、ユダヤ教団から異端とされ、会堂から、すなわち共同体から追放されていたのです。しかし、ヨハネは言います「光は暗闇の中で輝いている」。「私たちは光であるキリストに出会った。だから迫害があっても、キリストと共に生きていこう。私たちはキリストの弟子になることを通して、神の子としていただいたのだから」と。今日は、ヨハネ1章後半を通して、キリストの弟子になるとはどういうことか、考えてみたいと思います。
・バプテスマのヨハネがユダの荒野で宣教を始めた時、ユダヤ全土から多くの者がヨハネの許に集まりました。ローマの植民地支配に苦しむ人々は、聖書に預言されたメシアが来られて、イスラエルが救われることを求めていました。だから、「世の終わりは近い、メシアが来られる」とのヨハネの呼びかけに人々は共感し、もしかしたらヨハネこそメシアかも知れないとの期待を込めて、集まったのです。アンデレと無名の弟子(おそらくはゼベダイの子ヨハネ)もまた、ガリラヤからユダの荒野に来ていました。その二人に、ヨハネは「私よりも優れた方がおられる。この方こそ神の子羊だ」として、イエスを指し示しました。「メシアは私ではない、あの方だ」とヨハネは紹介したのです。イエスはヨハネからバブテスマを受けた時に聖霊を受けられ、自分が神の子として世に遣わされているとの使命を自覚されました。そして、神の子として何をすべきかを黙想するために、荒野に退かれ、祈りの時を持たれました。荒野の試練が終わってイエスが戻られた時、ヨハネは弟子たちにイエスを紹介したのでしょう。
・イエスは自分の後についてくる二人を見て、「何を求めているのか」とお聞きになります。二人は聞きます「ラビ、どこにお泊りですか」。二人はイエスの泊まっておられた所に行き、おそらくは一晩中イエスの話を聞き、この人こそメシアだと確信しました。翌朝、アンデレは共にユダに来ていた兄弟シモンの所に行き、興奮して告げます「私たちはメシアに出会った」(1:41)。そして、シモンをイエスのところに連れて行きました。イエスはシモンを見つめて言われました「あなたをケパ(岩)と呼ぶことにする」。イエスは青年ペテロの中に、やがて教会の土台石(ペテロ)となるべき素質を見出されたのでしょう。ケパはアラム語の岩、それをギリシャ語に直すとペテロになります。
・マタイやルカは、イエスが弟子たちを召命されたのは、ガリラヤであったと伝えます。「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、私について来なさい、人間をとる漁師にしようと言われた。二人はすぐに網を捨てて従った」(マタイ4:18-20)。歴史的には、ヨハネ福音書の伝える通り、ペテロやアンデレ等の最初の弟子たちは、初めはヨハネの弟子であったと思われます。
・やがて、イエスは、「宣教のために働くべき時が来た」ことを自覚され、郷里ガリラヤに帰ることを決意されました。ヨハネの許には、同じくガリラヤから来たピリポもいました。イエスはピリポにも、「私に従いなさい」と呼びかけられ、ピリポも従います。イエスに出会ったピリポは、同郷のナタナエルをイエスの許に誘います。「私たちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」。ナタナエルは「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と反論しますが、ピリポは「来て、見なさい」としてナタナエルを連れて行きます(1:45-46)。イエスはナタナエルを見て言われます「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」。ナタナエルはびっくりします。今までイエスにあったこともないのに、この方は既に私を知っておられる。イエスは答えて言われました「私は、あなたがピリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」。ナタナエルは出会う前から自分を知って下さったこの方こそメシアであることがわかり、告白します「あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」。

2.イエスの弟子となる

・弟子の召命物語が私たちに教える第一のことは、私たちは仲介者を通じてイエスと出会うという事実です。アンデレたちをイエスに紹介したのはバプテスマのヨハネであり、そのアンデレがペテロをイエスに紹介し、ペテロとピリポは同郷です。そのピリポが今度はナタナエルを信仰に導びきます。ヨハネ1章後半には「見る」という言葉が繰り返し使われています。「見よ、神の子羊」(1:36)、「来て見なさい」(1:46)、「いちじくの木の下にいるのを見た」(1:48)、「もっと偉大なことをあなたは見る」(1:50)、「天使たちが人の子の上に上り下りするのをあなたがたは見る」(1:51)。伝道とは「人を説得し、信じさせる」ことではなく、「来て見なさい」と人を招くことなのです。後は神が働かれます。
・弟子の召命物語が伝える第二のことは、私たちは弟子になることを通して、「偉大なことを見るようになる」という事実です。イエスはナタナエルに言われました「もっと偉大なことをあなたは見ることになる」(1:50)。何を見るのでしょうか。イエスは言葉を続けられます「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」(1:51)。イエスの言葉の背景には、創世記28章のヤコブの体験があります。ヤコブは兄エソウをだまして家督を奪い、家を追われて、母方の叔父を頼って旅に出ます。途中、日が暮れ、彼は真っ暗闇の砂漠に一人夜を過ごします。その時、夢で、「天に届くはしごが地から伸び、神のみ使いがそのはしごを上り下りする」のを見ます(創世記28:12)。砂漠の闇の只中、全くの孤独の中にあっても、一人ではない、神が共にいてくださることを、ヤコブは夢で知らされました。「あなたたちはこの地上に生きているが、地上だけがあなたたちの世界ではなく、この世界は天につながっている。地上でどのような苦しみがあろうと天の父はそれをご存知だ。私を通して、あなた方は天国の市民になるのだ」とイエスは言われています。
・今日、私たちは招詞として、ピリピ3:20−21を選びました。次のような言葉です「しかし、私たちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、私たちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」。
・最近、死に急ぐ若い人たちが増えています。2004年10月、埼玉で、男女7人が車の中に練炭を持ち込んで、集団自殺するという出来事がありました。ネット心中です。新聞報道によりますと、それぞれがいろいろな悩みを持っていたようです。所沢の20歳の男性は定職についていないことを悩み、北海道に住む両親に相談していました。佐賀市の20歳の女性は、高校卒業後、定職につかず、自宅でインターネットに浸る生活をしていました。東大阪の20歳男性は、2年続けて大学受験に失敗しています。主導的役割を果たしたのは、東京の34歳の主婦でしたが、彼女は二度結婚し、子供もいましたが、夫との人間関係に行き詰まり、将来に絶望していました。これらの人々がインターネットを通じて知り合い、集まって、一緒に死にました。自殺する人のほとんどは、人間関係のストレスや喪失体験がきっかけになって、うつ状態になり、意欲や生命力が低下し、死を選んでいくと言われています。職が見つからない、希望の大学に入れない、育児ノイローゼになる、人間関係に悩む、結婚に失敗する。誰でもが経験する出来事が、ある人々にとっては死を選ぶ契機になります。死ねば、この苦しみが終わると思うからなのでしょうか。しかし、このような形で人々が死んでいくのは、神の御心ではありません。私たちは地上の出来事だけが全てではない、天への道が通じていることを彼らに伝える必要があります。
・パウロは「私たちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待っています」と言いました。私たちは地上に暮らしていても、天国から派遣されている天国の市民なのです。天国の市民であると言うことは、神が共にいて下さるということです。私たちはこの地上で多くの挫折を経験するかもしれないし、多くの人たちに裏切られる出来事にあうかもしれない。しかし、神が私たちを見捨てられることは決してない。神は私たちのために、キリストを遣わし、キリストは私たちの重荷を共に負って下さるのですから。キリストが共にいてくださるのであれば、私たちはどのような状況下でも喜ぶことが出来るのです。
・「お前はだめだ」と言われなかった人はいないでしょう。自己が否定される経験は誰でもがします。ヨハネの教会も、ユダヤ人共同体から排除され、ある者は殺され、ある者は投獄されていたのです。しかし、ヨハネは言います「光は暗闇の中で輝いている」(1:4)。神を信じる人は自己が否定されても、倒れることはありません。現実がどのように苦しくとも、それも神の導きの中にあることを知るゆえ、苦しみが喜びに変わる日が来ることを信じるからです。集団自殺をした人たちが、このことを知っていれば、彼らは自殺を思いとどまったかもしれません。私たちは天国の市民として、神から派遣されてここにいます。それは神から預かった言葉を伝えるためです。私たちは、人が受入れようが、受入れまいが、福音を伝える努力をしなければいけません。「あなたは生かされているのであって、神は死ぬな、生きよと言われている」、それを伝えるために、私たちはこの教会に集められ、神の言葉を戴いているのです。

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