1.イエスの昇天~地上の業の教会への委託
・復活節第七主日を迎えています。復活節は今週で終わり、来週から聖霊降臨節に入ります。イエスは復活後40日間弟子たちと共におられ、その後、昇天されたと聖書は伝えます。それから10日後、復活から50日目に聖霊が弟子たちに下って、弟子たちが宣教の業を始めます。ペンテコステ(五旬祭)の日です。今日は、ペンテコステ礼拝を前に、使徒言行録1章から、イエスの昇天とその後の弟子たちの活動について学びます。使徒言行録はルカ福音書の続編として書かれていますが、ルカ福音書はイエスの昇天でその記述が閉じられています。ルカは、地上のイエスの生涯が死への勝利で終わった事を、「イエスが昇天され、天におられる神のところに帰られた」ことで示しています。
・そして使徒言行録はイエス昇天から物語が始まります。イエスの昇天によって、イエスの活動が終わったのではなく、イエスの働きが、地上の体としての教会に委ねられて行ったのです。使徒言行録1章を最初から見てみましょう。「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」(使徒言行録1:3)。イエスが十字架で死なれた時、弟子たちは散らされましたが、やがて復活のイエスに出会い、再び集められました。そして40日間イエスは弟子たちとともにおられ、神の国について教えられました。イエスは生前何度も、神の国について弟子たちに話されました。神の国は、この世の国のように力ある者が弱い者を支配する国ではなく、お互いに仕えあう場であることを説明されました。しかし、弟子たちは理解していません。仲間同士で争い合ったり、互いに非難したりしていました。だからこそイエスは、復活後も弟子たちに繰り返し神の国について教えられました。それでも弟子たちは理解しなかったことを使徒言行録は示しています。イエスが「あなた方はまもなく聖霊を受ける」と弟子たちに言われた時、弟子たちは聞き直します「主よ、イスラエルのために国を立て直して下さるのはこの時ですか」(1:6)。
・彼らは依然としてこの世の国、地上のイスラエルの再興を求めていました。死を超えて復活されたイエスを見て、彼らは今こそそれが可能になると期待しました。しかし、イエスは答えられます「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、私の証人となる」(1:7-8)。「今、あなた方がなすべきことは、あなた方が見たこと聞いたことを、ユダヤはもちろん、サマリアや異邦の人々に伝えていくことだ」とイエスは言われたのです。その活動こそが神の国を形成していくのだと。
・40日の後、イエスは昇天されました。弟子たちはイエスがいないと不安でした。これまでは全てイエスの指示に従ってきたからです。これからは自分たちでどうするかを決めねばならない。彼らは不安にかられ、イエスの姿が雲のかなたに隠れてしまった後も、天を見つめ続けていました。しかし、イエスの昇天は弟子たちの自立を促すためのものでした。だから、いつまでも天を見つめ続ける弟子たちに、天からの声があります「あなた方は何故天を見上げて立っているのか。イエスはまたおいでになる」(1:11)。
・天に帰られたイエスは再びおいでになる、そのことを準備するために、あなたがたはなすべきことをしなさいと天からの声は促します。この声に促されて、弟子たちはエルサレムに戻ります。なすべきことをするとは、現実を見つめ、今何をなすべきかを知ることです。自分たちはまだサマリア人や異邦人に伝道する準備は出来ていない。弟子たちが始めたことは、エルサレムに戻り、仲間と心を合わせて祈ることでした。弟子たちは、集まって祈り、イエスが約束された聖霊の降臨を待ったのです。
2.弟子たちが最初に行ったのは祈ることだった
・弟子たちは、集まって祈りました。そこには、11人の直弟子の他に、イエスに従ってきた男性や女性たち、イエスの母や兄弟もいました。イエスの肉親たちは、イエスの在世中はイエスを神の子と信じていません。イエスの気が狂ったのではないかと思って取り押さえにきたこともありました(マルコ3:21)。その彼らも復活のイエスに出会って変えられ、今は群れに加えられています。そこにはペテロもいました。イエスの裁判の時に「その人を知らない」と裏切った弟子です。そこにはトマスもいました。復活のイエスの話を聞いて、「私は自分の手をそのわき腹の傷に入れるまで信じない」と疑った弟子です。キリストを裏切った者、キリストを疑った者、頑固に信じなかった者たちが、今ここに集められています。みな不完全な、弱い者たちです。教会は、善人ではなく、罪人の集まりなのです。その罪人の集まりに、イエスの地上の業を継承することが委ねられています。
・教会が行った二番目の事は欠けた十二弟子の一人を補充することでした。弟子の一人、イスカリオテのユダはイエスを裏切って死んでしまい、使徒は11人になっていたのです。ペテロは立って言いました「ユダは私たちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました」(1: 17)。「イエスによって選ばれ、任命された、仲間の一人がイエスを裏切り、死んでいきました。私たちはユダに代わる使徒を選ぶべきです」とペテロは言います。ペテロはここでユダのことを非難していません。ユダの行為は彼一人の問題ではなく、自分たちも同じことをしたかもしれない、いや実際にしたのだとペテロは認識しています。その弱い自分たちに福音の宣教が委ねられている、だから11人ではだめで12人が必要だとペテロは言います。イエスは12人の弟子を選ばれ、訓練され、宣教を委ねられた。その12人が一人でも欠けてはいけない。欠けたものは補わなければいけないのです。
・使徒たちは自分たちが今11人であることを、痛みを持って覚えています。ユダがここにいないという事実は、いやでも自分たち自身の弱さ、逃亡、裏切りを思い起こさせます。自分たちにもっと愛があればユダが裏切ることはなかったかもしれない。いや裏切ったのは、ここにいるみんなも同じです。ユダの問題はキリストを裏切ったことではありません。そうではなく、キリストのところに戻ることが出来なかった、この群れに戻れなかった。過ちを犯したユダが群れに戻れず死んでしまったのは、自分たちがユダを受け入れず、ユダに必要な配慮をしなかったためではないかとペテロは自分を責めています。
・ここに教会の原点があります。私たちの教会は30人ほどの小さな群れですので、誰かが礼拝を休まれればすぐにわかります。そして私たちはその方が礼拝の場にいないことに心を痛めます。そして今日はいないその兄弟姉妹が来週は共に礼拝を守れるように祈ります。その人がいないと、礼拝が満たされないからです。また、いろいろな行き違いから、私たちの群れを離れて行った人々がいることを、痛みを持って覚えます。私たちの教会は水曜日の午前と夜に祈祷会をもっています。これまでの祈祷会は聖書の学びが主でしたが、最近は病気やその他の理由で教会に来る事が出来なくなった方々への祈りが中心になってきました。初代教会の人々が、イエスがおられなくなって最初に行った事が、共に集まって祈ることであった、そして自分たちの群れに戻ることの出来なかったユダのことを思い起こすことであったことを、私たちは銘記したいと思います。
3.一人の人こそ大事な部分
・今日の招詞にルカ15:4を選びました。次のような言葉です。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」。イエスが言われた羊飼いの例えです。羊を百匹持っている人は雇われ牧者ではなく「自分の羊」を飼う羊飼いです。自分の羊を飼う者は、たとえその一匹がいなくなっても、その羊のことで心を痛め、九十九匹を残してでも一匹を捜しに行きます。私たちの神は、たとえその一人でも失われた時には、その一人を捜しに行かれる、そのような方だとイエスは言われています。たとえの焦点は九十九匹ではなく失われた一匹です。その失われた羊を発見した時の喜びはたとえようがないとイエスは言われます「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(ルカ15:7)。
・教会はこの神の委託を受けて、イエスの業を継承するために地上に立てられました。九十九匹の羊とは教会で、一匹の羊ははぐれた信徒や迷える人です。羊は群れを離れては生きていくことは出来ません。だから、捜しに行く。教会はイエスから神の言葉を預かっています。この言葉なしには、人は生きていくことが出来ません。「人はパンのみで生きるにあらず」、神の言葉は私たちの霊の糧です。食べなければ死んでしまう。しかし、人は教会を離れていきます。ここに命の言葉があることを、私たちが十分に証し出来なかったためです。
・この教会につまづいて他の教会に移る人はいても良いと思います。しかし、往々にして、この教会につまづいた人は、他の教会に行かずに礼拝から離れてしまう。そのことは命にかかわる問題です。イエスは言われました「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。・・・私につながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」(ヨハネ15:5-6)。教会から離れる、信仰から離れることは、命にかかわる問題なのです。ですから、教会に来ることの出来なくなった人々のために、私たちは最大限のことをする、手段を尽くして捜しにいく。そしてどうしても見つからない時、私たちは共に集まり、その人のことを覚えて祈ります。地上の全ての扉は閉まっても、天の扉は開いているからです。私たちはその人のことを神に委ねて祈ります。初代教会の人々は、共に集まり、心を合わせて熱心に祈った。ここに教会の原点があることを、私たちは今日、強く覚えたいと思います。