江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2007年2月18日説教(使徒言行録28:1-10、神の守りの中で)

投稿日:2007年2月18日 更新日:

1.パウロに働く神の力

・クリスマス以降、私たちは、使徒言行録やパウロ書簡を通して、福音がどのように異邦世界に広がって行ったかを見てきました。本日は降誕節最終主日、次週から受難節を迎えます。降誕節の締めくくりとして、今日は使徒言行録の最終部分を共に学びます。エペソやコリントでの伝道を終えたパウロは、異邦人教会からの献金を携えてエルサレムに戻りますが、反対派に捕らえられ、カイザリアで裁判にかけられます。パウロは訴えが不当であるとしてローマ皇帝に上訴し、その結果、船でローマに護送されることになりました。船はカイザリアを出港し、クレタまでは順調な船旅でしたが、クレタ島を出たとたん、嵐に巻き込まれました。パウロたちの乗った船は三日三晩暴風に翻弄され、錨やマストも失われ、操縦不能となり、漂流します。使徒言行録は次のように記述します「幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消えうせようとしていた」(27:20)。もうだめだとみんなが思ったその時に、パウロが立ち上がり、人々を慰めました「神からの天使が昨夜私のそばに立って、こう言われました『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せて下さったのだ』。・・・元気を出しなさい。私は神を信じています。・・・私たちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです」(27:23-26)。パウロの預言どおり、船は14日目に島に打ち上げられました。その島がマルタ島でした。
・マルタ島では住民が遭難した人々を迎え、体を温めるための焚き火を焚いてくれました。パウロは焚き火を手伝うために、枯れ枝を集め、火にくべていました。ところが枯れ枝の中に蝮が潜んでおり、蝮はパウロの手をかみます。島の住民はパウロの手に噛み付いている蝮を見て言いました「この人はきっと人殺しにちがいない。海では助かったが、『正義の女神』はこの人を生かしておかないのだ」(28:4)。パウロは護送途中の囚人でしたから、囚人服を着ていました。パウロが毒蛇にかまれたのを見て、人々は、悪いことをしたから天罰が下った、彼は死ぬと思ったのです。しかし、不思議なことに、蝮の毒はパウロに何の危害も与えず、身体がはれ上がることも、死ぬこともありませんでした。それを見た住民の態度は一変します。「この人は神様だ」と言い始めたのです。先にパウロに天罰が下ったという見方は、因果応報の神学に基づいています。パウロが毒蛇にかまれたにもかかわらず死ななかったことへの驚きは、奇跡の神学に基づいています。誤った神学は誤った評価をもたらします。パウロは人殺しでもなければ神でもない。普通の人です。ただ、神の力がパウロの上に働いただけのことです。
・私たちはマルタ島の住民の態度を見て、「なんと原始的だ」と笑いますが、実は私たちも、このような誤った信仰を持っています。平安時代の菅原道真は学問に優れた人でしたが、政治の争いに負けて大宰府に流刑され、不遇のうちに死にました。道真の怨霊を恐れた人々は、霊を慰めるために天満宮を建てましたが、いつの間にか道真は天神・学問の神様に祭り上げられ、今日では多くの受験生が各地の天満宮に参拝します。道真を神として拝む行為と、パウロは神様に違いないと驚嘆する行為は同じです。乃木希典という軍人が日露戦争で武功を上げ、明治天皇の後を追って殉死したのを見た人々は、彼をも神様として祭ってしまいます。戦時中は天皇を神とする過ちを犯しました。人間が神に祭り上げられる、神と人間を区別できない、ここに日本人の深刻な心の問題が潜んでいます。本当の神を知らないのです。知らないから、人間を神に祭り上げ、人間の奴隷となる。
・パウロは嵐の中も守られ、毒蛇にかまれても死にませんでした。それはパウロに神から使命が与えられており、使命が果たされるまでは、毒蛇も嵐もパウロの命を奪うことはないことを示しています。主は嵐の中でパウロに言われました「パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない」。私たちはそれぞれ使命を与えられ、今を生かされています。使命がある以上、私たちは、今は死なない。何故なら、私たちは、神の守りの中にあるからです。神の守りの中にある人間は、どのような嵐の中でも、毒蛇にかまれても、希望を失いません。

2.神は生きておられる

・島民はパウロにおいて神の恵みを見ました。その恵みがやがて島民全体に及びます。島の長官はパウロたちを歓迎してもてなしてくれました。ところが彼の父親が熱病と下痢で寝込んでいました。今日で言う赤痢、伝染病にかかっていたと思われます。パウロは長官の父親のところに行き、祈って手を置き、彼をいやしました。そのことを聞いて、島中から多くの病人がやってきて、パウロは彼らをいやしました。この記事を私たちはどのように読むのでしょうか。未開の人々の迷信がここにあると捨て去るのでしょうか。
・古代世界の人々は、気まぐれな自然の力や、気候変動に支配された生活をしていました。雨が降らなければ凶作になり、人々は餓死します。嵐の中では無事を祈る以外、為すすべはありません。伝染病が発生すると、体力のない老人や子どもたちは死んで行きました。古代の人たちは、自分たちの運命を操っている力を探し求め、神殿を立て、祈りました。現代の私たちは、かつて祖先に害をもたらした諸力の多くを支配できるようになりました。熱病は抗生物質で治りますし、嵐も造船技術や気象予報の発達で、従来ほどの脅威ではなくなりました。現代の都市における最大の建物はもはや神殿ではなく、病院や政府機関の建物です。それにもかかわらず、人々は神社や仏閣に参拝します。今でも、菅原道真や乃木希典の力に頼っているのです。それは人生の根本問題、生・病・老・死という問題が未解決のままに残されているからです。私たちは熱病のcure(治癒)は出来るようになったのかもしれませんが、死の問題は未解決です。食べ物がなくて餓死する人は少なくなった分、生きる意味が見いだせなくて苦しむ人が増えてきました。生の問題も未解決です。人生のcare(慰め)という意味では、私たちはまだマルタ島の住民と同じ脅威の中に暮らしています。
・今日の招詞にマルコ16:17−18を選びました。次のような言葉です「信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らは私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る」。
・マルコ福音書は16章8節の空の墓(イエスの復活)でマルコの記述は終わり、9節以下は後代の人々の付加であろうと言われています。後代の人々は何故、イエスの復活だけで満足せず、9節以下を付加したのでしょうか。それは生・病・老・死という人生の根本問題は未解決のままであり、神の恵みなしには生きていけないことを知り、それを信仰告白として挿入したのです。告白は最初にイエスの言葉を伝えます「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」。その時「信じる者には次のようなしるしが伴う。・・・手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る」。パウロは蝮に手をかまれたが死ななかった。パウロが病人に手を置いたら、病人は癒された。復活のキリストの力が、パウロを通して示されたのです。マルタ島の住民はパウロが蝮にかまれたにもかかわらず、神の支配の中にあって平安である姿を見て、神を信じました。パウロの背後に神の力を見たのです。キリストが十字架で死なれて2000年がたちましたが、今日でも「キリストこそ私の主、神である」と信じる者がおこされています。何故でしょうか。蝮の毒で死すべき人間が今なお生かされている現実が、どのような苦難の中にあっても希望を失わないその姿に、神の力を見るからです。
・「主は生きておられる」、それが私たちの信仰です。私たちの神は死んだ神ではなく、永遠から永遠までおられる方です。宗教改革者マルチィン・ルターについて、次のような逸話が残されています。ルターは1517年ヴィテンベルグの城門に97箇条の公開質問状を貼り、堕落した当時のカトリックに対して宗教改革の旗を上げました。その結果、彼は破門され、命を狙われ、その圧力の前に意気消沈していました。ある時、ルターが部屋に入ったら、彼の妻が喪服を着て彼を迎えました。ルターは尋ねます「一体誰が亡くなったのか」。妻は答えました「あなたの神が亡くなりました」。「あなたは“主は生きておられる”事を忘れ、希望をなくしている。あなたの神は死んだのです」と妻は身を持ってルターをいさめたのです。妻の言葉によってルターは信仰の目が開かれ、「私の神は生きておられる」と確信をもって、再び戦いの場に出て行きました。
・「主は生きておられる」と私たちが信じ、告白する時、私たちの言葉は大きな力を持って人に迫ります。教会の中で、礼拝の中で、キリスト者の実生活の中で、「主は生きておられる」との確信がみなぎる時、回心者が起こされていきます。その回心は、人を内面的に解放するだけでなく、生活自体を目に見える形で変革させます。それは心身の病を癒し、健康を回復させる力を持っています。「毒を飲んでも死なない」、絶望して毒を飲むことがなくなります。「手を置けば治る」、死んでも死なず、復活の命を与えられる。福音は人生の根本問題、生・病・老・死を克服する力を持っています。「バプテスマを受けても何も変わらない」という人がいます。その人は変わろうとしないから、変わらないのです。祈りは人を根底から変える力を持ちます。真剣な祈りに、神は必ず答えて下さる。パウロの求めに主が答えられたように答えて下さる。私たちがそれを信じた時、私たちの人生は「神とともに歩む人生へ」と変えられていくのです。パウロは嵐に合い、蝮にかまれましたが、心は平安でした。クリスチャンになることは災いや苦難が無くなることではなく、災いや苦難の中にあっても希望を持つことが出来ることです。そして、その希望は果たされる。「主は生きておられる」、私たちは使命を与えられて生かされている。その時、私たちを滅ぼすものは、もはや何もなくなるのです。

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