江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2007年2月25日説教(ルカ4:1−13 試みの中で)

投稿日:2007年2月25日 更新日:

1.荒野で試みに合われるイエス

・今週から私たちは受難節を迎えます。受難節は4旬節(レント=ラテン語の40)とも言われ、イースター(復活日)の40日前の水曜日が灰の水曜日(Ash Wednesday)、受難節の始まりです。初代教会では、信徒は粗末な衣服をまとい、ちりと灰の上に座り、それを頭にふりかけながら断食を行いました。イースターは移動祭日のため、毎年曜日が変わります。今年は先週の2月21日が灰の水曜日で、イースターの4月8日までの40日間がレントの季節になります。今日でもカトリック教会では、肉食を避けるという形で断食を守ります。プロテスタントでも、レントの期間、昼食を食べずにお金を節約し、それを施設等に献金される方がおられます。私たちはどのようにして、この受難節を守ればよいのでしょうか。
・レントは40日ですが、この期間が定められたのは、イエスが荒野で40日断食され、苦しまれたことを記念しています。そのため、受難節第一主日には福音書から「荒野の試み」の個所を読みます。今年の受難節は私たちにとって特別に大事な季節です。受難節第一主日の今日、多久和兄がバプテスマを受けられました。そして、受難節が空ける4月8日のイースターには、二人の方がバプテスマを受ける準備をされています。バプテスマは、最初に水の中に入ります。キリストと共に死ぬ、受難を象徴しています。そして水から上げられる、死から復活されたキリストを覚えます。まさに受難節にふさわしい式です。今年、私たちの教会に3名のバプテスマ者が、この受難節に与えられたことを覚えて、受難とは何か、それは私たちにどのような行為を迫るのかという視点から、「荒野の試み」の記事を読んでみたいと思います。
・イエスはヨルダン川でバプテスマを受けられましたが、その時、天からの声を聞かれました「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」(ルカ3:21)。この時、イエスはご自分が神の子として、使命を与えられて世に遣わされたことを自覚されたのでしょう。「神の子として何をすべきか」、イエスはそれを模索するために、荒野に行かれました。ルカはそのことを、「イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた」と記述します。神の霊がイエスを荒野に追い込まれた、神によってこの試練が与えられたとルカは書いています。その荒野で悪魔がイエスの前に現れます。ここで言う悪魔とは、イエスの心の中にあった思いでしょう。さまざまの人間的な思いの中でイエスは悩まれた、それが悪魔の試みとして記録されているように思えます。
・悪魔はイエスに三つのことをささやきます。第一のささやきは「石をパンに変えてみよ」との誘いです。イエスは40日の断食の後に、空腹になられました。悪魔はささやきます「お前は神の子であり、神の子であれば人々を救うために来たのであろう。今、多くの人々が食べるものも無く、飢えに苦しんでいる。もし、おまえがこれらの石をパンに変えれば彼らの命を救うことができるではないか」とのささやきです。これに対しイエスは言われました「人はパンだけで生きるのではない」。キリスト教は明治になって日本に伝えられましたが、海外から来た宣教師たちは当時の日本人の生活が貧しく、ライ病や結核にかかった病人は路傍に捨てられ、子どもたちは十分な教育を受けられない現実を見て心を痛め、本国からの資金援助で、各地に病院や学校を建てました。それから100年、キリスト教系の病院、たとえば聖路加病院や聖母病院等は、良心的治療で、今日でも高い評価を得ています。多くのミッションスクールが立てられ、白百合や聖心、また立教や青山等の学校は、今日でも熱心な教育をしてくれる学校として人気があります。100年間、多くの人たちがキリスト教系病院で治療を受け、キリスト教系学校で教育されましたが、ほとんどの人たちはクリスチャンになりませんでした。教育や医療、すなわちパンが与えられても、人々はそれをもらうだけで、与えて下さる神のことは考えなかったのです。人々が求めるものを与えても、悔い改めは起きません。悔い改めのないところには救いもありません。ですからイエスは言われました「人はパンだけで生きるのではない」。パンは人を救いに導かないのです。
・次に悪魔は誘います「あなたが私にひれ伏すならば、この世の支配権をあげよう」。悪魔はささやきます「人々はローマの植民地支配に苦しんでいる。あなたがローマから人々を解放すれば、ここに神の国ができるではないか」。それに対してイエスは答えられました「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」。キリスト教はその誕生以来、迫害に苦しんで来ました。多くの殉教者が出ました。その迫害を経て、4世紀にキリスト教はローマの国教になりますが、教会が支配者側に立った途端、堕落が始まります。迫害の300年間、教会は「剣を取るものは剣で滅ぶ」というイエスの教えを守り、信徒が兵士になることを禁じてきました。しかし、教会が支配者になると、教会の教えは変わりました。「政府は神により立てられ、全てのキリスト者は政府に従うべきであり、国家の秩序を守るためであれば戦争も許される」と教会は教え始めます。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(マルコ12:17)という聖書の教えに反する行為です。教会が地上の権力と手を結んだ瞬間から、福音が曲がって行きます。神の国はこの世には、地上にはないのです。私たちの地上でなすべきことは「人を拝むことではなく、主を拝む」事です。
・第三の誘惑は神殿の屋根から飛び降りてみよとの誘いでした。「おまえが神の子であれば、神が守ってくださる。この屋根から飛び降りて、神の子であるしるしを見せれば、多くのものが信じるだろう。そうすれば神の国を造れるではないか」とのささやきです。それに対してイエスは言われました「あなたの神である主を試してはならない」。人々は繰り返し、しるしを求めました。十字架のイエスに対しても人々は言います「神の子なら自分を救え。そして十字架から降りて来い」(マタイ27:40)。現代の私たちもしるしを求めます。「私の病気を癒してください」、「私を苦しみから救ってください」、「私を幸福にしてください」。この後には次のような言葉が続きます「そうすれば信じましょう」。私たちは信仰さえも取引の材料にしているのです。

2.この世で試みにあう私たち

・三つの誘惑には共通項があります。いずれも与えられた力を使って、地上に神の国を作れとの誘いです。「お前は石をパンに変える力を与えられた。民衆にパンを与えれば、彼らは喜んでおまえを王にするであろう。お前はローマを倒す力を与えられた。ローマを倒してユダヤを独立国にしたら民衆は喜ぶではないか。お前は奇蹟を起こす力を与えられた。奇跡を起こせば、人々はおまえに従うではないか」。神の子であればその力を使え、十字架で苦しんでも何も生まれないではないかとの試みです。教会もまた同じ試みの中にあります。私たちは「地域に仕える」ことを教会の標語にしていますが、地域の人々が教会に求めるのは、病の癒しであり、苦しみからの解放です。目の前の苦難を取り除いて欲しい、それが地域の人々の願いです。
・荒野の試みを通して、私たちが知るのは、そのような求めに私たちが応じることが出来ても、そこには何も生まれないという事実です。パンは一時的な飢えを満たすかもしれませんが、やがてまた空腹になります。私たちがホームレスの方々の支援活動を行い、精神を病む方のカウンセリング活動をすることはそれなりの意味があると思いますが、教会の本質的な業ではありません。教会はあくまでも、解放の言葉である福音を宣べ伝え、福音の光の中で人々に自分の罪を知らせ、その罪を赦して下さるキリストを指し示すことを本来の使命とします。病の癒しも同じです。癒されれば、人々は一時的には幸福になりますが、やがて死にます。本当に必要なものは心の救い、平安です。福音はどのような状況の中でも、平安をもたらす力を持っています。これを信じて、福音伝道にまい進することこそが教会の使命です。また教会はこの世的な繁栄を求めるべきでないことも知らされます。私たちの教会は30人ほどの小さな集まりですが、100人、200人の大教会を目指すことが大事だとは思いません。人数は少なくても、一人一人が福音を生活の中で生きる、そのような共同体を目指したいと思います。
・今日の招詞としてヘブル書12:5-6を選びました。次のような言葉です「私の子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受けいれる全ての子を、むち打たれるのである」。イエスは試みの中で最後まで、ご自分の力を用いようとはされませんでした。ある人は言います「キリスト者にとって最大の誘惑は、試みに会った時、自分で勝とうとする、また勝ちうると思う、更には勝たねばならないと思う時だ」と。カトリックでは、祭司は独身を貫き、肉欲に打ち勝たなければいけないと勧めます。プロテスタントでは信徒に禁酒禁煙を勧め、それが清くなることだと言います。しかし、人が自分の力で試みに勝とうとする時、そこに罪が生まれます。自分の力で勝てると思う者は、誘惑に負けた他者を裁きます。人が自分で試みに勝とうとする時、人は神から離れるのです。試みに負けて打ちのめされ、どうしていいかわからなくなる、その時人は始めて神を求め、神に生かされている自分を見出します。
・試みは必要なものだと思います。河野進という牧師がいます。50年間岡山のライ病院で奉仕した人です。彼の詩に「病まなければ」という歌があります。次のような詩です。
“病まなければ聞き得ない慰めのみ言葉があり  捧げ得ない真実な祈りがあり  感謝し得ない一杯の水があり  見得ない奉仕の天使があり  信じ得ない愛の奇跡があり  下り得ない謙遜の谷があり  登り得ない希望の山頂がある”
自らが病むことによって始めて見えてくる世界があるのです。いろいろな試みがあります。ある人は重い病を与えられ、別の人は事業の失敗という挫折を与えられます。家庭の不和という苦しみを与えられる人もいます。しかし、苦しみの中で祈り、その祈りを通して、試みが私たちを神のもとに導くためのものであることを知らされた時、苦難や挫折の意味が変って来ます。ヘブル書が言う通り、試みこそが私たちを神へ、そして救いに導くのです。そしてイエスは私たちの前に、この試みを経験され、苦しまれたことを覚えたいと思います。

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