1.何を信じるかが、どう生きるかを決める
・今年の夏、東京バプテスト神学校の夏期講座に参加しました。キリスト教倫理の講義でしたが、講師の寺園喜基先生は次のような言葉で講義を始められました「どう生きるか(倫理)は、何を信じるか(教理)で決定される。何を信じるかが重要なのだ」。私たちは行動の基準として「良心」を考えますが、良心とは本当の基準になりうるのだろうかと先生は問われます「豚肉は汚れたものだと考えるユダヤ教徒は豚肉を食べることを罪と思うが、何を食べても良いと教えられてきた人にとっては豚肉を食べることは良心が痛む行為ではない。国を守るために敵を殺すことは正義だと教育された人は殺しうるが、そうでない人は敵であれ人を殺すことに良心は痛む」。ユダヤ人の良心とギリシア人の良心は異なり、日本人の良心とアメリカ人の良心は異なる。人が良心に従って行動する限り、違いが残り、そこに争いが起こり、平和はない。「良心は相対的なものであり、人間の良心を基盤にするこの世の倫理学は破れている」と先生は力説されました。
・キリスト者は相対的ではない行動基準を、キリストの十字架の中に見出します。そのことを示しますが、今日学ぶコロサイ書です。パウロは言います「あなたがたは・・・バプテスマによってキリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです」(コロサイ2:11-12)。新しく創造された、だから「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです」(3:9-10)。この世の基準である古い人を脱ぎ捨て、キリストの十字架に示された新しい人を着る時、「そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者・・・奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられる」(3:11)ようになります。新しい基準に生きる時、ギリシア人とユダヤ人の差別、割礼を受けた者と受けない者の差別、奴隷と自由人の差別、すなわちこの世的な差別はなくなり、異なる者の和解、キリストの平和が成立するのです。この平和はこの世の基準に従って生きる限り、達成されません。
・この言葉を受けて、コロサイ3:12以下の言葉が語られています。「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」(3:12)。新しい人を着るとは、「憐れみ、慈愛、謙遜、柔和、寛容」を着るということです。この意味を知るために、私たちはキリストに出会う前はどうであったか、古い人を着ていた時はどのような生き方をしていたかを知る必要があります。
2.新しい人として生きよ
・その古い人の生き方が3章5節以下に示されています。パウロは言います。「かつてあなた方は、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲に生きていた」。「みだらな行い、不潔な行い」は性的不品行を指します。当時の社会では、不倫や売春はありふれていました。そのような行為に人を走らせるものが「情欲」です。人間、特に男性にとって性的欲望の制御は困難な問題です。今日、都会の盛り場には性を売る店が乱立し、性犯罪は後を断ちません。東京都だけで毎年2千件の痴漢犯罪が摘発されています。学校の教師や公務員、警察官でさえも痴漢行為で逮捕されている現実が示すことは、如何に性的欲望が人間を支配しているかということです。最後の「悪い欲望、貪欲」とは、私たちに中にある排他的なエゴイズム、自分さえ良ければ良いという罪です。こういう肉体的な罪と並んで心の中にある罪が8節に列挙されています「怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉」です。これは説明するまでもなく、私たちの内に根強く巣食っています。自分のためであれば何でもする、相手を利用することも、攻撃することも、貪ることも平気で行う。「金の切れ目は縁の切れ目」、私たちは利害関係の中でしか、人間関係を生きて来ませんでした。だから人間関係に苦しんできました。
・私たちはこのような生き方をしていた、しかしキリストの十字架に出会ってその古い過去に死んだ。パウロの言葉に従えば「バプテスマによってキリストと共に葬られた」。そしてキリストの復活と共に新しい命をいただいた。だから新しい人を着よと命じられているのです。パウロは言います「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのです」(3:12)。私たちは既に救われている、既に聖なる者とされ神に愛されている。だから、古い生き方を捨て、新しい生き方をしなさい。
・その新しい生き方を示す二つの言葉があります。赦しと愛です。パウロは言います「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」(3:13)。主が赦して下さったから私たちも隣人を赦していく。その赦しが愛になった時に、私たちは新しい人を着ます「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」(3:14)。この新しい生き方は日々の生活の中で証しされていきます。ですからパウロは言います「何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい」(3:17)。
3.それは与えられた環境の中で最善を尽くすことだ
・新しい生き方は日々の生活の中でこそ生かされます。それを具体的に示したものが、コロサイ3:18以下にある生き方です。3:18以下では、妻と夫、子と父、奴隷と主人の関係が記されています。18節では妻たちに対して「夫に仕えるように」命じられています。これは妻に夫への隷属を迫っているのでしょうか。しかし、パウロは夫にも言います「夫たちよ、妻を愛しなさい」(3:19)。古代において、「妻を愛せよ」という教えはありませんでした。当時、妻は夫の隷属物であり、愛する存在ではありません。従って、「妻を愛せよ、つらく当たってはいけない」と夫に呼びかけられていることは革命的な教えであったのです。この革命的な教えは信仰から出てきます。「主を信じる者にふさわしく夫に仕え、また夫は妻を愛せ」、信仰の行為として結婚を考えよと言われているのです。
・次に子どもに対して「親に従いなさい」と説かれています。古代において、子が父に従うことは当然でした。しかし、ここでも同時に父に対して「子につらく当たるな」と説かれています。当時の子どもたちは何の権利も持ちませんでしたが、その子どもの人格を敬えと言われています。しかも「主に喜ばれる」こととしてそうせよと。子が親に従う、親が子を人格として敬うことが、信仰の出来事として説かれているのです。
・最後に、奴隷は「主人に従え」と言われています。当時は奴隷制社会でした。その中で、パウロは「主人たち、奴隷を正しく、公平に扱いなさい」(4:1)と勧告します。奴隷が主人に従うことを定めた戒めは多くありますが、主人に対して「奴隷を正しく、公平に扱うように」求めた文書は聖書以外ありません。奴隷は殺そうが、病気で死なせようが、主人の意のままであったのです。しかし、パウロは主人に言います「あなたはそうではあってはならない。あなたの奴隷もまた主に愛されているのだから」と求めています。奴隷も主人も共にキリストのものだから、奴隷を痛めつけてはならないと命じられています。
・パウロは何故、子どもや妻や奴隷に従属を勧めるのでしょうか。それは従属する以外に、彼らの生きる道がなかったからです。子どもは養ってくれる親なしでは生きることは出来なかった。妻の経済的自立のない当時においては、夫に従うしか妻は生計の方法はなかった。奴隷もまた、主人に養われる以外の生存はなかった。他に選択肢がない状況下であれば、それを神が与えて下さった道として積極的に選び取って行きなさいとここで言われています。全ての人間関係を信仰の出来事としてとらえていく、それが、かつて出来なかった新しい生き方です。
・今日の招詞に〓ペテロ2:23-24を選びました。次のような言葉です「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。私たちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」。キリストがののしられてもののしり返さず、苦しめられても報復されなかったように、あなた方も与えられた人生の中で最善を尽くせ、奴隷であることを逃れて新しい身分にあこがれるよりも、神があなたに奴隷の身分を与えて下さったのであれば、奴隷として最善を尽くして生きよとの信仰の選択が迫られています。
・パウロが説くのは、諦めの教えではありません。奴隷の身分から解放される機会があればその機会を生かせ、しかし奴隷であることを不当として主人の下から逃走し、一生を逃げ隠れして送ることが神の御心ではない事を知れと言われています。婦人に対しては、どのような夫であれ従えと言われます。不信仰な夫、かたくなな父、無慈悲な主人、このような生活の現実から目をそむけるな。現実に立ち向かえ、現実を神が与えて下さった導きとして積極的に従って行け。これこそキリストが為されたことであり、あなた方が従う道なのだとパウロは言っているのです。現代の状況に即して言えば、仕事がつまらなくても辞めるな、そのつまらない仕事の中に意味を見出していけ、その時新しい展望が開けるといっているのです。
・これは主体的選択による積極的従属です。現在の境遇は神が与えてくれたものです。それに不満を言い、一時逃れの行為をしても、そこからは何も生まれ来ません。むしろ、与えてくれた夫、与えてくれた父、与えてくれた主人を敬い、従うことを通して、道が開かれて来るのです。信仰の行為として、隣人(この場合は主人、夫、父)に積極的に仕えていく、この世的に見れば損をする道を選び取っていくのです。その時、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」(マルコ8:35)というキリストの言葉が生活の中に実現します。隣人との和解、平和が生まれるのです。このような生き方こそ、新しい人の生き方なのです。