江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2007年6月17日説教(使徒言行録4:1-12、主を証しする)

投稿日:2007年6月17日 更新日:

1.逃げずに証しするペテロ

・聖霊降臨節第四主日を迎えています。私たちは三週間にわたって、ペンテコステの日にペテロが語った説教を聴いてきました。ペテロの説教は人々の心を動かし、多くの人が悔い改めてバプテスマを受け、教会が生まれました。人々は毎日神殿に行き、祈りを捧げます。ある日、ペテロとヨハネが祈るために神殿に向かった時、物乞いをしていた足の悪い人と出会います。物乞いは二人に施しを求めました。ペテロは男に言います「私には金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。男は立ち上がり、歩き始め、周りの人々は驚いてペテロの周りに集まってきます。その人々にペテロは話し始めました「イエスによる信仰が、この人をいやしたのです」(3:16)。ペテロの説教が神殿の庭で為されたため、神殿守衛長たちが介入し、ペテロたちを捕らえ、裁判にかけます。今日は、この裁判を通して、主を証しするとはどういうことであるかをご一緒に聞いていきます。
・ペテロは神殿でのいやしの後、集まった人々に語りました。その説教が3章にあります。「あなた方は、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。・・・イエスによる信仰が、あなた方一同の前でこの人を完全にいやしたのです」(3:15-16)。人々は目の前で足の不自由な人が歩き出した奇跡を見て、ペテロの言葉を信じました。
・これはイエスを捕らえ、処刑したユダヤ当局者にとっては耐えられない出来事でした。彼らは神殿の庭で人々に語るペテロとヨハネを捕らえて言います「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」(4:7)。権力者たちはイエスを処刑することによって、事は終わったと思っていました。ところがその弟子たちがどこからか現れ、「イエスは復活した、私たちはその証人だ」と言い始め、民衆がそれを信じ始めています。「これは危険だ、何とかしなければいけない」と権力者たちは思い、ペテロとヨハネを逮捕しました。
・彼らは、捕まえて脅せば、弟子たちはすぐに黙ると思っていました。イエス逮捕の時に逃げてしまった弟子たちだったからです。しかし、驚くべきことに、その弟子たちが彼らに反論を始めます。ペテロは言います「この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです」(4:9-10)。彼はさらに大胆にイエスを証しします「ほかのだれによっても、救いは得られません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(4:12)。2ヶ月前には当局の目を恐れ、逃げ隠れしていたペテロが、イエスが死刑宣告を受けたまさにその同じ場所に立ち、イエスのために弁明を始めています。
・思わぬ反撃を受けて、権力者はたじたじとなります。ルカは記します「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。しかし、足をいやしていただいた人がそばに立っているのを見ては、ひと言も言い返せなかった」(4:13-14)。イエスと同じように彼らを殺せば、二人を支持する民衆は騒動を起こすでしょう。二人は言葉と業で民衆の心を捕らえてしまったからです。彼らに出来ることは、二人を脅して釈放することだけでした。彼らは弟子たちに言います「今後、あの名によって誰にも話してはいけない」。しかし、彼らはまたもや負かされてしまいます。ペテロは言います「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(4:19-20)。

2.この名の他に救いはない

・ペテロは言いました「この名の他に救いはない」。この言葉に反発を覚える人がいるかもしれません。かつて教会はこの言葉を用いて、聖地エルサレムに十字軍を派遣し、改宗しようとしないイスラム教徒を殺しました。宗教改革時には、カトリックとプロテスタント双方が自分たちの正しさを主張して、殺し合いの宗教戦争を行いました。日本に来た宣教師はキリスト以外に救いはないとして、家にある仏壇を廃棄するように求めました。これらはいずれも誤った絶対主義です。現代のイラク戦争もイスラム教徒は悪であるとの絶対主義の誤りの上に行われています。しかし、聖書が述べるのはそのようなことではありません。
・ペテロが言っているのは、自分たちだけが正しく、あなた方は間違っているということではないのです。そうではなく、ペテロはここで、彼自身が体験した救いを語っているのです。ペテロはイエスが捕らえられた時には、怖くなって逃げました。お前も仲間だろうと言われた時には、何度も否定しました。そのイエスを裏切ったペテロに、復活のイエスは一言も非難の言葉を浴びせず、逆にペテロに残された群れの世話を頼みます。復活のイエスに出会って、罪に死んでいた自分が再び生かされた。足の悪い男もそうです。彼は身体の不自由によって、物乞いをするしか生きる路はなく、社会的には死んでいました。その人がイエスの名によって、いやされ、社会生活に復帰することが出来ました。この人も「死んでいたのに生き返った」のです。救いはペテロ自身が経験し、今またここに新しい救いが生まれています。だからペテロは胸を張って言います「この名の他に救いはない」と。それは、神はイエスを通して、私たちを救って下さったという信仰告白の言葉なのです。

3.迫害をなくすのではなく、迫害の中で語る言葉を与えたまえと祈る教会

・今日の招詞に使徒言行録4:29−30を選びました。次のような言葉です「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」。
・神殿で説教をしたために捕らえられ、裁判を受けたペテロたちが、釈放されて、仲間たちの所に戻った時に、一同が祈った祈りの言葉です。彼らは「この迫害を私たちから取り除いてください」とは祈りません。むしろ、彼らは迫害を神が与えられたものと考えています。直前の27-28節にはこのような言葉があります「ヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。そして、実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです」。ここにあるのはイエスの十字架の死は神の御手の中の出来事であり、私たちへの迫害もまた神の御手の中にあるとの信仰です。幸いや祝福だけでなく、災いも苦難も御心として受けていこう、ただその中で大胆にあなたを証しする力を与えてくださいと彼らは祈りました。
・ここに私たちの信仰の核心があります。すべては神の御手の中にあり、神は悪さえも用いて、私たちに祝福を下さる方だとの信仰です。三浦綾子さんは、生涯に次々と病気をされた方ですが、「苦難の意味するもの」という小文の中で病気についてこのように書かれています。「私は癌になった時、ティーリッヒの“神は癌をもつくられた”という言葉を読んだ。 その時、文字どおり天から一閃の光芒が放たれたのを感じた。神を信じる者にとって、神は愛なのである。その愛なる神が癌をつくられたとしたら、その癌は人間にとって必ずしも悪いものとはいえないのではないか。・・・“神の下さるものに悪いものはない”、私はベッドの上で幾度もそうつぶやいた。すると癌が神からのすばらしい贈り物に変わっていたのである」(三浦綾子「泉への招待」」)。今、私たちの教会に連なる一人の姉妹が癌で苦しんでおられます。彼女はまだ40台で、ご主人と子供がいます。病院にお見舞いに行くと、意識はなく、ただ酸素吸入と点滴で命がつながっている状況です。病床でどのように祈ってよいのかわからない。その中で、出会った三浦綾子さんの言葉です。ここに信仰があります。病も死も神がお与えになる、今はわからなくとも、それは祝福なのだと受け止めていく信仰です。
・三浦綾子さんの言葉は、ユダヤ議会から釈放されて帰ってきたペテロとヨハネを迎えた、教会の人々の祈りに通じるものがあります。神の下さるものに悪いものはない、仮に今、自分たちの教会に迫害が与えられるなら、それを必要な試練として受けよう。この試練を通して、神は良い業をなそうとしておられるのだから。この信仰があれば、世の中に怖いものはなくなります。底の底に転落してもキリストは救ってくださる、たとい、救ってくださらないとしたら、底の底で何かをなすように召されている。私たちも、使徒たちの信仰を、ティーリッヒの信仰を、三浦綾子さんの信仰を与えてくださるよう、お祈りしたいと思います。パウロが言うように「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(ピリピ1:29)から。

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