江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2007年3月4日説教(ルカ11:14-26、悪と戦う)

投稿日:2007年3月4日 更新日:

1.悪霊を追い出されるイエス

・先週から、私たちは受難節に入りました。先週、私たちはイエスが宣教を始められる前に荒野に導かれ、そこで悪魔から試みを受けられたことを学びました。悪魔はイエスにささやきます「お前は石をパンに変える力を与えられた。民衆にパンを与えれば、彼らは喜んでおまえを王にするであろう。お前はローマを倒す力を与えられた。ローマを倒してユダヤを独立国にしたら民衆は喜ぶではないか。お前は奇蹟を起こす力を与えられた。奇跡を起こせば、人々はおまえに従うではないか」。神の子であればその力を使え、力を使って人々を救えとの試みです。それに対してイエスは答えられました「人はパンだけで生きるのではない。パンを与えて下さる神を拝し仕えよ。神を試してはならない」。荒野を出られたイエスは、人々から見捨てられていた罪人や病人の所に行かれ、「心配することはない。神の恵みはあなた方と共にある」と慰めて回られました。しかし、イエスに反対する人たちは相変わらず、「神の子であれば、そのしるしを見せよ」と迫ります。今日、与えられたテキスト、ルカ11章もそのような光景で物語が始まります。
・ルカ11:14によれば、ものを言えなくする霊に取り付かれた人がイエスの前に連れて来られ、イエスがこの人をいやしたことが論争の発端でした。並行個所マタイ12章によれば、この人は「悪霊につかれて目が見えず、口の聞けない」(マタイ12:22)人であったとあります。2000年前の人々は、人が病気になり障害になるのは悪霊の働きだと考えていました。目が見えず口の利けないこの人も罪を犯したため、神の怒りによって、こうなったのだと断罪し、汚れた者として排斥しました。この人も社会に受け入れられず、物乞いとして生きていたと思われます。イエスはこの人が、障害ゆえに苦しんでいるのをごらんになって、憐れまれ、いやされました。この人は口が利けるようになりました。民衆はこのいやしを見て驚嘆し、「この人はダビデの子、メシヤかもしれない」と噂します(マタイ12:23)。それを聞いて、パリサイ人は反論します「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」(ルカ11:15)。彼らはイエスが盲目で口の利けない人をいやされたのを見ました。それは否定できません。しかし、彼らはイエスが神の子であると認めようとはしません。彼らは障害のある人がいやされたことを喜ぶのではなく、その力はサタンから来ていると非難したのです。
・イエスは反論されます。「あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか」(11:18)。そして言われました「しかし、私が神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(11:20)。神の国は既に来ている。目が見えず口の利けないこの人がいやされたことこそ、神の憐れみのしるしではないのか。何故、それを一緒に喜ぶことが出来ないのか。パリサイ人は喜ぶことが出来ません。彼らは人が盲人になり、おしになるのは、その人が神に呪われたからであり、そのような罪人には救いはないと考えていました。救いは神の戒めを守る自分たちにあるのであり、彼らではないと考えたからです。人は原因のわからない病気や治らない病は悪霊のせいにします。今日でも人間の力ではどうしようもない病、特に精神の病は悪霊に結び付けられ、「気味の悪い」病気として、社会から隔離されています。日本では30万人の人が精神の病で入院されていますが、二人に一人は5年以上入院されています。症状が落ち着いても退院できない、帰り先がない、いわゆる社会的入院が多いのです。イエスは私たちに問いかけられます「そのような人たちもあなたの隣人か。あなたはそのような人たちを“悪霊に取り付かれている”として、排除していないだろうか」。

2.悪霊は追い出されてもまた戻る

・イエスは続けられます「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる」(11:24-26)。邪悪な霊を追い出しても、良いもので満たさないと悪霊は再び戻るとイエスは言われています。悪霊を取り除くだけでは最終的な解決にはならないのです。雑草は抜いてもまた生えてくる。そこに花を植えて、雑草が再び生える余地をなくすことが必要です。私たちの身近な例で言えば、バプテスマは人の罪を取り除きますが、それだけでは不十分であり、聖霊に満たされる、生活全体が変えられる必要があるということです。バプテスマを受けた後、教会から離れていかれる方があります。一度与えられた信仰がなくなる、救いを捨てる、それはバプテスマを受ける前よりも状況は悪くなるのです。私たちはバプテスマを受けて救われるのではなく、バプテスマを受けて救いが始まる、だからこそ教会生活が大事なのです。悪霊から解放された者は、再び悪霊のとりこにならないように戦う必要があるのです。
・悪と戦う最善の方法は、積極的に善をすることです。その善とは隣人を愛することです。キリスト者の守るべき戒めは唯一つ、「互いに愛し合う」ことです。イエスは言われました「私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:12-13)。友とは誰か、私たちの助けを必要としている人です。私たちの生き方が「自己の救いから友の救いへ」と成長して行った時、もはや私たちの中に悪霊が戻ってくる余地はなくなります。

3.出来ることから始めよう

・今日の招詞にルカ4:18−19を選びました。次のような言葉です。「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。
・この言葉はイエスが宣教のはじめに故郷ナザレの会堂で読まれたイザヤ書61:1-2です。イエスはこの言葉を読まれた後、人々に宣言されました「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ4:21)。救いの業が始まった、神の国が来たと言われたのです。しかし、人々が求めた救いとは,今現在の苦しみからの解放でした。ユダヤはローマの植民地として苦しんでいましたから、人々は国の独立を願いました。貧しくて十分に食べることが出来ませんでしたから、パンを与えてくれる人を求めました。病で苦しんでいましたから、いやしを期待しました。その人々にエスは言われました「人はパンだけで生きるのではない。パンを与えて下さる神を拝し仕えよ。神を試してはならない」。人々は失望し、怒り、イエスを十字架につけて殺しました。
・私たちはどうでしょうか。私たちは自分たちが捕らわれており、目が見えず、圧迫され、負債を負っていることを本当に知り、解放を求めているのでしょうか。私たちはナザレでイエスが宣言されたように「神の国は来た、解放の時は来た」と受け止めているのでしょうか。私たちが今日、ルカ11章から教えられましたことは、病のいやしや苦しみからの解放は一時的であり、本当の救いではないという真理です。悪霊は追い出してもまた帰ってくる事実です。貧しい人にお金が与えられても心が豊かになるわけではありません。盲人の目が開けられても、心の目が開かれなければ真の光を見ることは出来ません。人の心が変えられなければ何にもならないのです。一時的ないやしではなく、本当の解放が必要なのです。本当の解放とは「神と人との関係の回復」です。神との関係が修復されたものは人との関係も修復します。ここに「互いに愛し合う関係」が生まれてきます。
・イエスは口の利けない人が話せるようになるために、いやしをされたのではありません。「ものが言えない、その人の病気はなおらない、彼は悪霊に取り付かれている」として、疎外されている人がここにいるからこそ、憐れまれた。障害があることはつらいことですが、それ以上に、障害ゆえに差別され、排除されることが問題なのです。私たちにはイエスのような病のいやしは出来ません。しかし、差別され、排除された人を、隣人として迎えることは出来ます。そのことが「束縛からの解放」をもたらすのです。私たちがなすべきことは、このイエスに倣うことです。「束縛からの解放はすでに始まった、神の国は来た、どこに、この教会に」、それを証していくことこそ、私たちの役割です。教会の外では「権力を持った人々が支配し、命令する」かもしれないが、教会の中では「仕えることに喜びを見出す」人々がいる。教会の外では「金の切れ目は縁の切れ目」かもしれないが、教会の中では「困っている人たちのためになすべきことをする」人々がいる。そのような教会を形成するのです。
・しかし、私たちは、本当に、神の国の出先としての教会を形成できるのでしょうか。私たちはバプテスマを受けても罪人のままです。過ちを犯すし、人を憎むこともある。それにもかかわらず、私たちは聖化される。何故なら、教会のかしらであるキリストは聖なる方であるからです。私たちは全てをこのキリストに委ねて、教会を形成していきます。2007年度教会標語が先週決まり、来年度は「持続的成長のための出発」を合言葉に、私たちの教会は進むことになります。教会成長とは通常は教会員が増えることを意味しますが、私たちは人の増加よりも、一人一人がキリスト者として成熟することを成長と考えます。私たちの思いが、「自己の救いから友の救いへ」と成長して行った時、もはや私たちの中に悪霊が戻ってくる余地はなくなる、そのことを通して、この教会が神の国の一部となっていくのです。

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