江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2007年3月18日説教(ルカ9:28-37、天の静けさから地上の騒々しさの中へ)

投稿日:2007年3月17日 更新日:

1.エルサレムを前に山に登られるイエス

・受難節第四主日を迎えています。イエスは弟子たちに言われました「私について来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」(ルカ9:23)。私たちがイエスを救い主だと信じるならば、「あなたも十字架を背負って従いなさい」と言われています。受難節とは、イエスが背負われた十字架の重さを思う時ではありません。十字架が2000年前の他者の出来事であれば、現在の私たちには関係がないことです。そうではなく、十字架の重みが、今、私たちの肩にかかっているかを検証し、確認する時こそ受難節なのです。十字架が私の十字架にならなければ、何の意味もありません。その意味で、港南めぐみ教会は、まさに主の受難を思う時の中に在ります。教会の混乱~信徒の離散~牧師の辞任~1年間の無牧、みなさんは十字架の重みを、身をもって感じられた日々を経験されました。その意味で、みなさんは今、祝福の中にあります。十字架こそ祝福であることを、今日はルカ9章を通して、共に学びたいと思います。
・イエスは2年間のガリラヤ伝道を終えられ、エルサレムに向かわれようとしておられます。エルサレムでは、敵対する祭司長や律法学者たちがイエスを捕えようとして、待ち構えています。エルサレムに行くことは受難の道であることをイエスは知っておられました。しかし、内なる声、父なる神の声はイエスにエルサレムに行くように命じられておられます。イエスは従おうとされながらも、人としての不安をぬぐいきれません。「十字架で死ぬことが救いなのだろうか、十字架以外に道はないのだろうか」、イエスの心に人としての迷いがあられたことは事実だと思います。聖書はイエスが死の恐怖と戦われたことを隠さずに述べます「キリストは、肉において生きておられた時、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」(ヘブル5:7)。十字架で死ぬ、それは神の子にとっても大きな試練だったのです。だから、父の御心を確認されるために、イエスは山に上られた(9:28)。祈るためです。
・イエスは父の御心を求めて、夜を徹して祈られました。弟子たちは睡魔と闘いながら従っていました。その時、弟子たちはイエスの姿が突然変わり、その衣が真っ白に輝くのを見ます。そして幻の中に、モーセとエリヤが来るのも見ました。モーセとエリヤは、その存命中、たびたび山に登り、神の声を聞いています。モーセはエジプトで奴隷であった民を救い出し、約束の地に導きますが、その途上、民は繰り返し、モーセに逆らいました。「エジプトを出るのではなかった。あそこでは肉を食べられたのに、この荒野には何もない」。モーセは山に登り、神に苦衷を訴え、励ましを受けて、山を降りています。エリヤも同じ体験をしています。フェニキアの女王が偶像神をイスラエルに持ち込み、エリヤは女王に命を狙われ、逃れてシナイ山に登ります。彼はその山で神と出会い、言葉をいただき、力を与えられて、下山しています。預言者たちは、苦難の時に神に出会うために山に登り、そこで力をいただいて、地上の現実に戻っています。今回、イエスのもとに二人が遣わされたのは、同じ苦難を経験した者として、イエスを励ますためだったのでしょう。
・弟子たちは彼らが「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」(9:31)のを聞きます。この「最後」という言葉には“エクソダス”というギリシャ語が使われています。エクソダスとは脱出、解放という意味であり、出エジプト記の原題がこのエクソダスです。イエスがエルサレムで新しい出エジプトを、罪と死からの解放をなされるという意味を、ルカはこのエクソダスという言葉を使って示そうとしています。

2.天上の静けさから地上の騒々しさの中に

・ペテロはこの光景を見て、感激し、3人のために幕屋を立てようと提案します(9:33)。しかし、そのペテロの思いをさえぎって神の言葉が響きます「これは私の子、選ばれた者。これに聞け」(9:35)。人の思いは具体的な目に見えることに集中します。ペテロは三人のために幕屋、家を建てようとします。私たちも「教会を立てる」とは教会堂を建設することだと思ってしまいますが、神は「私の子の言葉を聞け」と言われています。教会は「イエスの言葉を聞く所」、御言葉に耳を傾け、聞いて従うところです。ルカ9章は、私たちの日常的な経験からは理解できない要素を含んでいます。一見すると、夢幻の世界のように見えます。しかし、中心のメッセージはイエスの姿が光り輝いたことでもなく、モーセやエリヤが現れたことでもありません。神からの言葉が弟子たちに臨み、「これは私の子、選ばれた者。これに聞け」という命令が下されたことに在ります。
・弟子たちが気がつくと、もうモーセもエリヤもいません。イエスだけがそこにおられました。そして、イエスと弟子たちは山から下っていきます。地上では、大勢の群集がイエスのところに集まって来ました。てんかんの子を持つ父親がいやしを求めて子を連れてきましたが、地上に残っていた弟子たちは治せず、困惑していたところでした。天上の静けさと対照的な騒々しい世界がそこにありました。画家ラファエロは「主の変貌」と題する有名な絵を書いています(バチカン美術館蔵)。絵の上の部分には三人の弟子たちが経験した天の世界の不思議と美が描かれています。絵の下の方では、てんかんで苦しむ子供を前に、残された弟子たちが何も出来ずに困惑している様が描かれています。天上の静けさと地上の騒々しさが対照的に一枚の絵の中に描かれています。イエスは天の静けさから地上の騒々しさの中に、山を下りて行かれました。

3.この地上で十字架を負う

・今日の招詞に第二ペテロ1:17-19を選びました。イエスの変貌を経験したペテロの言葉です。「荘厳な栄光の中から、『これは私の愛する子。私の心に適う者』というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。私たちは、聖なる山にイエスといた時、天から響いてきたこの声を聞いたのです。こうして、私たちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇る時まで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください」。
・ペテロはイエスの変貌をその目で見た後、イエスと共にエルサレムに行きます。ところが、そのエルサレムでイエスが捕えられた時、彼は「その人は知らない」とイエスを三度否認します。彼はイエスに「あなたこそ神の子、キリストです」と告白しています。山上では、「これは私の子」と言われた神の言葉も聞いています。そのペテロがイエスを否認します。どんなに長い間イエスと寝食を共にして従っても、またどのような神秘体験をしても、人は信仰には導かれないのです。ペテロはイエスを否認した後、自分の弱さを恥じて泣きました。自分の罪を知り、その罪に泣いた時、彼は始めて、十字架を自分で背負うようになり、そこから救いが始まるのです。
・教会に来て、心が慰められ、清められたというだけに留まる人は、神に出会うことはありません。自らが十字架を負わない限り、救いはないのです。人は誰も十字架など負いたくありません。だから十字架は往々にして、無理やり負わされます。ペテロも無理やり負わされました。クレネ人シモンもイエスの十字架の道行きに出くわしたゆえに、文字通り十字架を背負わされています。マルコは書きます「そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた」(マルコ15:21)。クレネ人シモンの子が「アレクサンドロとルフォス」というマルコの教会では名前が知られていた人々であった、すなわち教会の指導者であったことを記事は示しています。おそらく、イエスの十字架を無理やり担がされたこのシモンが後にクリスチャンになり、彼の家族も回心したという出来事が背景にあります。十字架を背負ったことで、シモンは救われたのです。皆さんも無理やりに十字架を背負わされた。教会に混乱が起こり、教会員は離散し、牧師は辞任し、無牧という苦しみを味わされた。とんでもない出来事が起きた。しかし、実は、この混乱こそ神の導きであったと思います。
・ペテロは言います「今あなた方はクリスチャンという理由で迫害され、ある者たちは殺されていった。そこには何の希望もないように思うかも知れない。しかし、私は主に出会い、父が主に語られる言葉を聞いた。そして十字架で死なれた主が復活されたのを目撃した。この世を支配しているのは、悪魔ではなく、神なのだ。地上ではなく天上なのだ。それは私が自ら体験した事実だ。希望をなくしてはいけない。既に光は輝き始めている」。今、みなさんも、この信仰を持つようにとの神が招いておられる。私は自信を持ってそれを言うことが出来ます。何故なら、私たちの篠崎キリスト教会も7年前に同じ十字架を背負わされ、その十字架を通して、イエスの栄光を見たからです。旧約のヨブのことを考えてください。苦難を受ける前のヨブは単なる善人だった。苦難を受けた後のヨブは、神の僕になった。十字架なくして復活無し、みなさんは神が与えられた清めの火で焼かれたのです。みなさんは苦難を通して新しい教会、本当の神の国を建設する機会を与えられた。これは祝福です。目に見える現実は厳しいかもしれない、これからの教会再建も涙無しには出来ないでしょう。しかし、地上にどのような混乱があろうとも、天では既に行為が為されている。そのことを私たちは負わされた十字架を通して知った。だからペテロと同じように、私たちも言います「夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇る時まで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください」。

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