1.信仰の揺らいでいる人々に言葉が与えられた
・クリスマスを前に旧約聖書を読んでいます。今日は旧約聖書最後の書、マラキ書から御言葉をいただきます。イスラエルは神に対する背信の裁きとして国が滅ぼされ、住民はバビロンに捕囚となりました。異国での生活は50年を超えましたが、やがて民は帰国を許されます。帰還した民は希望に燃えて国の再建を図りますが、住民の妨害や飢饉等のため、エルサレム神殿の再建は中断され、人々は毎日の生活に追われていました。その時、預言者イザヤやハガイが立てられ、人々を励まします「この新しい神殿の栄光は昔の神殿にまさると万軍の主は言われる。この場所に私は平和を与えると万軍の主は言われる」(ハガイ2:9)。主のために神殿を立てよ、そうすれば主は大きな祝福を与えると約束されたと、ハガイは人々を励ましました。
・紀元前515年、神殿は再建されました。かつて預言者エゼキエルは神殿が再建された暁には、神の臨在が神殿を満たすだろうと預言しました(エゼキエル43:4)。人々は神殿の再建を喜び、これからは主の祝福がいただける、生活は良くなると期待しました。しかし、人々を待っていたのは、旱魃と凶作、飢饉でした。人々はつぶやき始めます「裁きの神はどこにおられるのか、どこに正義があるのか」(マラキ2:17)。神殿を再建しても何も起こらない、相変わらず生活は厳しい。宗教的義務の務めは継続されましたが、信仰の熱意は消えました。このような時代に立てられた預言者がマラキです。時は紀元前460年ごろ、バビロン帰還から70年の時が過ぎていました。
・マラキは人々に問いかけます「私はあなたたちを愛してきたと主は言われる。しかし、あなたたちは言う。どのように愛を示してくださったのか、と」(1:2)。民は言いました「過去においてあなたは私たちを愛し、エジプトから引き出し、バビロンから救い出してくださいました。それは承知しています。しかし、今の私たちには何の恵みもないではありませんか。愛していると言われるのなら、しるしを見せてください。私たちの生活を良くして下さい」と。この気持ちは私たちも理解できます。苦しみの中にある時、人々は救いを求めて教会に来ます。そして神の愛の物語を聞き、悔い改めてバブテスマを受けます。しかし、バブテスマを受けても何も起こりません。病気は治らないし、貧しさが解消されるわけではない。どこに救いがあるのですか、あるなら見せてくださいと私たちも求めます。
・恵みの喜びのないところでは、献げ物もおざなりになります。人々は、犠牲の動物を献げる時に、病気の羊や傷のある動物を献げたようです。マラキは言います「あなたたちが目のつぶれた動物をいけにえとしてささげても、悪ではないのか。足が傷ついたり、病気である動物をささげても悪ではないのか。それを総督に献上してみよ。彼はあなたを喜び、受け入れるだろうかと万軍の主は言われる」(1:8)。どうせ恵みなんかないと思う時、群れの一番良いものを献げることは出来ません。相手がペルシャ総督であれば一番良いものを献げるでしょう。悪いものを献げれば、命の危険があるからです。しかし、相手が神であれば、まさか命までとられることはないだろうと人々は高をくくっているのです。
・そのような民にマラキは悔い改めを迫ります。それが3:7以下の部分です。「あなたたちは先祖の時代から私の掟を離れ、それを守らなかった。立ち帰れ、私に。そうすれば、私もあなたたちに立ち帰ると万軍の主は言われる」(3:7)。人々は言います「どのように立ち帰ればよいのか、と」。マラキは言います「収入の十分の一をささげてみよ、自分の身を切って献げ物をしてみよ。その時、あなたは私が生きていること、あなた方を愛していることがわかる」と。3:10以下です「十分の一の献げ物をすべて倉に運び、私の家に食物があるようにせよ。これによって、私を試してみよと万軍の主は言われる。必ず、私はあなたたちのために天の窓を開き祝福を限りなく注ぐであろう。また、私はあなたたちのために食い荒らすいなごを滅ぼして、あなたたちの土地の作物が荒らされず、畑のぶどうが不作とならぬようにすると万軍の主は言われる」(3:10-11)。
2.悔い改める者に義の太陽が昇る
・あなた方が旱魃や凶作、イナゴの害に悩まされたのは、あなた方が本気で私の祝福を求めなかったからだ。本気で求めてみよ、そうすれば私がどのように応えるかをあなた方は知るだろうとマラキは言葉を取り次ぎます。マラキの預言に対する人々の反応はまちまちでした。ある者は言いました「神に仕えることはむなしい。たとえ、その戒めを守っても、万軍の主の御前を、喪に服している人のように歩いても何の益があろうか」(3:14)。他方、マラキの預言を真剣に受け止め、悔い改める者も出てきました「その時、主を畏れ敬う者たちが互いに語り合った。主は耳を傾けて聞かれた。神の御前には、主を畏れ、その御名を思う者のために記録の書が書き記された」(3:16)。
・そしてマラキは有名な終末預言をします。それが今日のテキスト、マラキ3:19以下です。彼は言います「見よ、その日が来る、炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は、すべてわらのようになる」(3:19)。終わりの日、裁きの日には、神を信じない者、神に逆らう者は全て滅ぼされるとマラキは預言します。しかし、神を信じる残りの者には、義の太陽が、救いが来ると彼は続けます「わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように躍り出て跳び回る」(3:20)。彼は言います「わが僕モーセの教えを思い起こせ。私は彼に、全イスラエルのためホレブで掟と定めを命じておいた」(3:22)。あなた方にはモーセの教え、律法が与えられている。それを守りなさい。そして主は言われます「見よ、私は大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす」(3:23)。エリヤが再び遣わされた時こそ救いの時だ、その日を待てとマラキは預言したのです。
3.モーセとエリヤに励まされて十字架につかれる主
・今日の招詞としてルカ9:29-31を選びました。次のような言葉です。「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」。ルカはここで、「エリヤが来る」とのマラキの預言が成就したとの信仰を告白しています。
・イエスはエルサレムに向かわれる前、山に登られ、夜を徹して祈られました。エルサレムでは死が予想されます。十字架で死ぬことが神の子としてなすべきことなのか、イエスの中に迷いがあったのです。そのイエスに、神はモーセとエリヤを遣わして下さいました。モーセはエジプトで奴隷であった民を救い出して、約束の地に導いた人です。そのモーセに与えられた律法こそ神の教えとしてイスラエルの民を導いてきました。エリヤは偶像神バアルと戦うために、イスラエルに派遣された預言者です。その預言者の言葉に耳を傾けなかったゆえにイスラエルは国を滅ぼされるに至りました。そのモーセとエリヤがイエスを励ますために来たとルカは報告しています。そして二人は、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」(9:31)。「最後」と訳されている言葉はエクソダス=脱出、旅立ちです。イエスがこれからつかれようとしている十字架は終わりではなく、新しい旅立ちであることを、二人はイエスに話し、励ましました。イエスはこの励ましを受けて、エルサレムへの道を歩まれます。
・人が宗教に求めるのは、現世利益か現世離脱のどちらか、です。現世利益とは「信仰すれば治る」とか、「信仰すれば幸せになる」とか言う教えで、苦難の中にある人は、わらをもつかむ思いですがります。しかし、信じても治らないことは多いし、苦しみが去らない時もあります。マラキに描かれている世界は、この現世利益が破れた世界です。他方、別の教えは、世を離れ、霊の世界との交流による救いを提唱します。マラキ書を最後に預言は終り、黙示文学が始まります。黙示とは神による世の救済をあきらめ、再臨による世の裁きを求める世界です。今、預言書を大事にする従来のキリスト教各派に人々が集まらず、ペンテコステ等の再臨宗教に人気が高まり始めているのも、現代の人々がこの世での救済に絶望しているからです。しかし、聖書は「信じれば治る」とは言いませんし、「この世を離れなさい」とも言いません。イエスに示されたのは、十字架を通しての世の救いです。
・現世利益も現世離脱も共に、苦しみからの解放を求める人間の作り出した幻想です。神殿を再建しても、バプテスマを受けても、救いが来るわけではありません。また天を仰いでもイエスが再臨されるわけではありません。そのような幻想を捨て、現実を直視し、逃げるなと聖書は教えます。人は誰も十字架など背負いたくありません。しかし、十字架を背負って始めて知る人生の豊かさがあると聖書は教えます。河野進という牧師の書いた詩に「病まなければ」という詩があります。生涯をハンセン氏病患者のために捧げた人です。
「病まなければささげえない真実な祈があり、ききえない聖書の慰めがあり、ふれえない愛のみ手があり、下りえない謙遜の谷があり、上りえない清い山頂があり、見通しえない輝く展望があり、病まなければ感謝の微笑みさえささげえなかった」。
・私たちも重荷を背負うことによって、人生が豊かにされていきます。教会に来て、心が慰められ、清められたというだけに留まる人は、神に出会うことはないでしょう。その清められた思い、強められた力を現実の生活の場で生かしていく時、神に出会います。聖書が私たちに教えるのは、大事なことは、神殿を再建することでもなく、十分の一の献金をささげることでもない。私たち自身が神に出会って変えられることです。その時、私たちは喜んで神殿のために働き、心から良いものをささげる存在になります。私たちの存在が根底から変わるためには、苦難が、十字架が必要なのです。裁きこそ救いなのです。私たちは日曜日に教会に来て力をいただき、月曜日に山を降りて日常の現実に戻り、それぞれの場所で神の御心を問いながら暮らすのです。救い主は来られた、待望の時は終わりました。救い主は十字架につかれましたから、私たちも十字架を背負っていく。その時、私たちは、クリスマスの喜びを伝える者となります。