江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2007年9月23日説教(1テモテ6:3-12、生きるために必要なものは)

投稿日:2007年9月22日 更新日:

1.金銭について私たちはどう考えるべきか

・先週、私たちはコロサイ書を通して、性的欲望がいかに強く私たちを支配しているかを見ました。パウロは私たちに告げます「あなたがたは、かつては、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲に支配されて」(コロサイ3:5)いました。しかしキリストはこれらの罪を「十字架に釘付けにして取り除いて下さった」。だからあなた方は「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、新しい人を身につけなさい」(コロサイ3:9-10)と。性的欲望と並んで人間を支配する、もう一つの強い欲望が金銭的欲望です。パウロは弟子テモテに書いた手紙の中で言います「金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます」(〓テモテ6:10)。今日はテモテ書を通じて、金銭をめぐる問題について、聖書は何を教えるかを見ていきます。
・テモテ書は、テトス書と並んで牧会書簡と呼ばれています。パウロは自分が開拓した教会に仕えるために、若い弟子たちを牧師として派遣しました。テモテはエペソに、テトスはクレタにいます。弟子たちは若いゆえに多くの困難に直面していました。その弟子たちに、「教会とは何か、牧師や執事はどうあるべきか、異端に対してどのように対処すべきか」等を書き送った手紙が牧会書簡です。そのテモテ第一の手紙の中で、パウロはお金に関する忠告を書いています。一つは教会を巡回する伝道者の中に、金銭目当てに教会を訪れる者がいたため、そのような者に対する対処法を教える必要がありました。また教会内に富をめぐる争いがあったという事情もありました。
・最初にパウロは、伝道者の中には、「信心を利得の道」と考えている者がいるので、気をつけなさいといいます。「異なる教えを説き、私たちの主イエス・キリストの健全な言葉にも、信心に基づく教えにも従わない者がいれば、その者は高慢で、何も分からず、議論や口論に病みつきになっています。そこから、ねたみ、争い、中傷、邪推、絶え間ない言い争いが生じるのです。これらは、精神が腐り、真理に背を向け、信心を利得の道と考える者の間で起こるものです」(〓テモテ6:3-5)。ここで言う利得とは、生計の道の意味です。宣教を金儲けの手段と考えている人々がいるとパウロは非難しています。異端と言われる宗教団体は、一般に金銭に対して貪欲です。先祖を供養しなければ救われないとして高額の(数百万円単位の)献金を求め、十分の一献金のためにと称して給与や賞与の明細提出を求める宗教団体もあります。教えが健全かどうかを見分けるしるしは、教える人が利得=自分の利益を求めているかどうかです。キリストの教え=愛とは「相手の足を洗う」行為であり、そこからは他者を貪る利得行為は出てきません。他者を貪らないとは、必要以上の金銭を求めないことです。パウロは言います「信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。なぜならば、私たちは、何も持たずに世に生まれ、世を去る時は何も持って行くことができないからです。食べる物と着る物があれば、私たちはそれで満足すべきです」(〓テモテ6:6-8)。
・「食べる物と着る物があれば、私たちはそれで満足すべきです」とパウロは言いますが、これは現実生活の中では困難な問題をもたらします。私たちのバプテスト連盟には全国330の教会・伝道所が加盟していますが、その23%、89の教会・伝道所の経常献金は300万円以下です。献金収入が300万円に満たない教会ではフルタイムの牧師を招聘することは困難です。何故ならば、牧師家族が生計を維持するだけの牧師給を支払うことが出来ないからです。現在、無牧師教会は37ありますが、そのうち23教会は経常献金300万円以下です。「食べる物と着る物があれば、それで満足すべきです」と言い切れない現実があります。しかし、連盟統計は別の側面も示しています。経常献金300万円以下教会の23が無牧であることは、残り66教会は牧師が与えられていることを意味します。他の仕事をしながら教会に仕えている牧師が無牧教会の3倍もいるという事実は、利得で動かされない牧師が多いことを示しています。私たちのバプテスト連盟諸教会はお金に対して健全性を保っています。
・次に教会内の貧富格差、特に「金持ちになりたがる人」の問題について、パウロは語ります。それが6:9以下の部分です。聖書は金銭そのものを否定しません。「富は愛の行為と愛の施しを通して、他の人々を幸福にするというすばらしい可能性を与える」(ヨアキム・エレミアス)からです。しかし、金銭を愛することは悪だと言います。パウロは金銭欲の弊害を次のように指摘します「金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です」(6:9-10)。金銭欲は何故否定されるべきなのか。一つは、金銭欲は人に飽くことの無い渇望を与えるからです。富を追い求める時、これで十分ということは無く、「もっとたくさん」を人は求め続けます。その求めは人を利己的にします。自分が豊かになるために他者が苦しんでも意に介さないようになるのです。富の追求は不正を伴うことが多いのです。ヤコブはそのような不正を告発しています「御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています」(ヤコブ5:4)。賃金の不払い、あるいは最低賃金以下での労働の強制、人件費を圧縮するための派遣やパート労働の悪用等は今日的な課題でもあります。そして最大の悪は、富に価値を置く者は、神を求めないという事実です。イエスが言われたように「あなたの富のあるところに、あなたの心もある」(マタイ6:21)。地上の富に信頼を置く者は天の神を求めない、そこからあらゆる不正が生まれ、また個人をも不幸にします。何故なら、人は「世を去る時に、何も持っていくことが出来ないからです」(6:7)。ルカ12章の「愚かな金持ちのたとえ」は如実にそれを示します。豊作に恵まれ、貯められるだけの穀物を倉庫に収めて「さあ楽しもう」と言った愚かな金持ちに神は言われます「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか・・・自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」(ルカ12:20-21)。地上の富は永遠の命を導かないのです。

2.命を得るために

・今日の招詞にルカ12:29-31を選びました。次のような言葉です「あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる」。
・イエスが私たちに問うておられるのは、生きるための軸足をこの世に置くのか、それとも神に信頼するのかという問いかけです。私たちは何も持たずにこの世に来ました。生まれたばかりの赤子は自分で食べることも、身を守ることも出来ません。しかし彼には不安がありません。何故ならば、両親が必要な食べ物を与え、敵から身を守ってくれることを、本能的に知っているからです。キリスト者はこの赤子の信仰を持てとここで言われています。神が私たちを守り、生きるために必要なものを与えて下さることを知る時に、この世のわずらいは消え、身の安全のために富や権力を求める必要もないではないかと問われているのです。
・しかし、事はそんなに簡単ではありません。だからパウロはテモテに書き送ります「この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、私たちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築くようにと」(〓テモテ6:17-19)。持てる人は富のゆえに高慢になります。他の人々よりも金持ちであるというだけで、自分を優れた人間のように考えがちです。また、富が自分の安全を保障してくれるかのように誤解しています。ある聖書学者は解説します「富は罪ではなく責任である。もし富が人を高慢にするしか役立たず、己一人を豊かにするだけのものであれば、その富はその人にとって滅びになる。・・・しかし、人がその富を、他人を助け、他人を慰めるために用いるのであれば、彼の財産が減るに従い、彼の心は豊かになる」(ウィリアム・バークレー)。たくさん持っている人が富んでいるのではなく、たくさん与える人が富んでいるのです。天に宝を蓄えるとはそのような生き方です。
・私たちキリスト者は富ではなく、もっと良いものに信頼を置くのです。パウロはテモテへの手紙を締めくくって言います「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るためにあなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです」(〓テモテ6:11-12)。私たちが生きるために必要以上のものを求めた時、その富は私たちを破滅へと導きます。古代の知者、箴言の著者は言います「二つのことをあなたに願います。・・・むなしいもの、偽りの言葉を、私から遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせず、私のために定められたパンで私を養ってください。飽き足りれば、裏切り、主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き、私の神の御名を汚しかねません」(箴言30:7-9)。「貧しくもせず、金持ちにもせず、私のために定められたパンで私を養ってください」という祈りは、「食べる物と着る物があれば、私たちはそれで満足すべきです」との言葉と同じです。私たちは自分の中に根強くある金銭欲から解放されるために、収入の十分の一を神に捧げなさいと求められています。献金は義務や強制ではなく、喜びであることも、今日共に覚えたいと思います。

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