江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2007年12月1日説教(ヨハネ9:1-17、神の業が現れるために)

投稿日:2007年12月1日 更新日:

1.生まれつきの盲人のいやし

・今日、東京シロアム会のクリスマス祝会に招かれましたことを感謝いたします。この会の名称のシロアムとは、ヨハネ9章の「シロアムの池」から来ていると思いますので、今日は、このヨハネ9章から御言葉を聞いてみたいと思います。皆さんが良くご存知の物語ですが、何度も聞く価値のある物語でもあります。
・物語は、イエスがエルサレム市内を歩いておられた時、道端に、生まれつきの盲人が座って、物乞いをしているのを見られたところから始まります。イエスは立ち止まって、その盲人を見つめられました。古代において、盲人は物乞いをする以外に生きる道がありませんでした。イエスは、この人を憐れんで立ち止まられました。しかし、弟子たちは無遠慮にイエスにたずねます「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」(ヨハネ9:2)。旧約聖書は罪の因果応報を教えます『神は父祖の罪を子々孫々まで報いられる』(申命記5:9)。当時の人々は、罪を犯したから、病気や障害になると考えていました。だから弟子たちも聞いたのです。それに対して、イエスは驚くべき言葉を言われました「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(9:3)。「神の業が現れるために」、神はこの人を愛しておられるとイエスは言われたのです。
・弟子たちは、この人は罪の結果として、盲という不幸を背負って生まれたと思いました。親の責任か、本人の責任で、障害を持って生まれたと。そう考える時、この人の障害はこの人の問題であって、私の問題ではなくなります。誰かが悪いと決め付ければ、自分に責任はありません。この人が物乞い以外に生きる道がないとしても、私の問題ではないと弟子たちは言っています。
・しかし、イエスは違いました。イエスは言われます「他人を非難したり裁いたりしても何も生まれないではないか。そうではなく、どうすれば、この人に現れた不幸を失くすことが出来るかを神に求めよ。その時に、神の業がこの人に現れる」と。弟子たちは無意識のうちに、誰が悪いのかと罪を数えていました。イエスが言われたのは、どうすれば悪が善に変わりうるかを求めよと言うことです。そのためにこの人と向き合うことをイエスは求められたのです。そして、イエスはこの人に向き合われました。神は彼を捨てておられない。だから、神は私をこの人のために派遣された。さあ、この人のために働こう。イエスは言われます「私たちは、私をお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない」(9:4-5)。イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになりました。そして、「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われた。彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来ました。

2.いやしから救いへ

・私たちはこの物語を、イエスが目の見えない人をいやした物語と思っていますが、実は異なります。物語はここで終わらず、むしろ、ここから始まります。そこにはパリサイ人がいました。彼らは、盲人がいやされたことよりも、その日が安息日であることを問題にして、イエスを批判します。パリサイ人たちはイエスに言います「あなたは、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」(9:16)。盲人がいやされたことを喜ぶよりも、安息日を守らないことに怒る人々がここにいます。
・パリサイ人たちは、イエスが神から遣わされたと信じることが出来ません。しかし、生まれつき盲の人が、見えるようになったという事実も否定することは出来ません。彼らは盲人であった人に問いただします「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか」(9:17)。盲であった人はイエスが罪人であるか、どうかは知りません。しかし、彼は見えなかった目が今は見えることは知っていました。そして、このような業は神から出たものとしか思えません。彼は答えます「あの方は預言者です」。神から遣わされた人でない限り、このような業は出来ないと彼はその信仰を告白します。
・この信仰告白が新しい問題を引き起こします。パリサイ派の人々は繰り返し、イエスの罪を認めよと男に迫りますが、男は引きません。彼はいいます「生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」(9:32-33)。この人は自分の主張を曲げませんでした。パリサイ人は彼を外に追い出します。
・彼が会堂から追放されたことを聞いて、イエスが彼を捜して、来られます。そして彼に出会うと「あなたは人の子を信じるか」と言われました。彼は答えます「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが」。イエスは言われます「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」。彼は「主よ、信じます」と言って、イエスの前にひざまずきました。その彼にイエスは言われました「私がこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」。

3.神の業が現れるために

・ここにおいて物語の本質が明らかになります。この目の見えない人は、最初はイエスが誰か知りませんでした。だから彼は言います「あの方は預言者です」。しかし、パリサイ人との対話を通して彼はイエスが誰であるか、少しずつ見えてきました。彼は次には「あの方は神のもとから来られた」と告白します。そして最後にイエスと出会うことを通して彼はイエスの前に跪きます「主よ、あなたこそ救い主です」と。この人は二度イエスから目を開けてもらいました。一度は肉体の目を開けてもらった時、二度目は心の目を開けてもらった時です。そして本当のいやし、救いは心の目が開けられたこの二回目なのです。体のいやしは一時的なものです。目の見えない人が見えるようになっても、やがて死に、また見えなくなってしまいます。しかし、魂の救いは異なります。死んでも生きます。この人は体のいやしを通して、魂の救いを得ました。
・聖書で信仰者と呼ばれる人は、決して品行方正の人ではありません。ダビデは人の妻に恋情を抱き、夫を殺して女を自分のものにしています。ペテロはイエスの裁判の時、そんな人は知らないと否認しました。パウロは伝道者になる前は、教会の迫害者でした。しかし、ダビデは過ちを通して自分が罪人である事を知り、それゆえに民に仕える王となりました。ペテロはイエスを否認した後、裁判の行われていた大祭司の屋敷を飛び出し、泣きました。その時の涙が、ペテロを洗った洗礼の水です。パウロはダマスコ途上での復活のイエスとの出会いが、彼を迫害する者から迫害される者に変えました。人が信仰を持つためには砕かれなければなりません。私たちが自分の力に頼っている間は神が見えず、砕かれた時に初めて、見えるようになります。晴眼者は過ちを犯して、始めて自分が罪人であり、無力な人間に過ぎない事を知り、主の御名を呼び求めるようになります。しかし、盲の人は最初からハンデを負っています。最初から、強制的に、自分の弱さ、限界を教えられる状況に置かれます。つまり、盲の人は最初から砕きが与えられている。盲というハンデを持つことにおいて盲の人は、神の子とされているのです。そう考えますと、目が見えないということは賜物、恵みの一つではないかと思えます。
・神の業が現れるとは、心の目が開かれることです。盲人の方のクリスチャン比率は、おそらく晴眼者より高いと思います。肉の目が見えないことによって、信仰に導かれる人が多いことを意味しています。だからイエスはパリサイ人に言われます「見えなかったのであれば、罪はなかっただろう。しかし、今、見えるとあなた方は言っている。だから、あなた方の罪は残る」。
・ジョン・ニュ−トンの作詞したアメイジング・グレイスは多くの人に親しまれている賛美歌ですが、その中で彼はこのように歌います。
Amazing Grace! How sweet the sound
That saved a wretch like me!
I once was lost, but now I'm found,
Was blind, but now I see.
Was blind, but now I see. 皆さんはまさに見えるようになったのです。

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