江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2006年5月21日説教(ヨハネ16:16−24、悲しみが喜びに変わる)

投稿日:2006年5月21日 更新日:

1.悲しみは喜びに

・私たちは今、イースターとペンテコステの間にいます。今年、私たちは4月16日にイースターをお祝いしました。イースターは主イエスが十字架の死からよみがえられた日です。そして今、6月4日のペンテコステを待ち望んでいます。ペンテコステはイエスが昇天された後、聖霊として再び私たちのところに戻られた記念日です。
死なれたイエスがよみがえられ、私たちと共におられる。そのことを思い起こすのが、イースターとペンテコステの間のときです。私たちは今日、ヨハネ16章から、イエスが共におられることの意味を学びます。
・ヨハネ16章は、イエスが最後の晩餐の時に語られた言葉を記録しています。死を前にしたイエスの弟子たちへのお別れの言葉です。イエスは言われます「しばらくすると、あなたがたはもう私を見なくなる」(ヨハネ16:16a)。この晩餐の時が終わるころ、イエスを捕らえるための追っ手が来る、彼らはイエスを捕え、裁判にかけ、十字架で殺すでしょう。「もうあなた方と会えなくなる」、イエスは万感の思いを込めて、お別れの言葉を弟子たちに言われました。しかし、それで終わりではありません。イエスは続けて言われます「またしばらくすると、私を見るようになる」(16:16b)。肉の自分は死ぬが、復活するとイエスは言われています。弟子たちにはイエスが何を言われているのかわかりません。イエスが捕らえられ、殺されるだろうということは彼らも感じています。だから彼らは嘆き悲しんでいるのです。でも、「しばらくすると、私を見るようになる」とはどういう意味なのか、死なれたイエスとどうしてまた会うことが出来るのか、弟子たちにはわかりません。
・だから彼らはつぶやきます。「『しばらくすると、あなた方は私を見なくなるが、またしばらくすると、私を見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう」、「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない」(16:17-18)。死んだ人が復活する、これは今まで誰も経験したことのない出来事であり、人の理解を超える出来事です。イエスは弟子たちのざわめきを聞いて言われます「『しばらくすると、あなた方は私を見なくなるが、またしばらくすると、私を見るようになる』と、私が言ったことについて、論じ合っているのか。はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」(16:19-20)。
・ここで中心になる言葉は、「しばらくすれば」です。この短い文章の中に7回も用いられています。「しばらくすれば」、聖書の原語であるギリシャ語では「ミクロン」という言葉が用いられています。ミクロン、1ミリの1/1000です。ほんの短い間、すぐにと言う意味です。「私は十字架で死ぬが、復活する。すぐにあなたたちと会う。別れの悲しみはすぐに再会の喜びに変わる」とイエスはここで言われているのです。
・イエスは「悲しみが喜びに変わる」ことを、婦人の出産をたとえに説明されます。「女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない」(16:21)。出産の前、母親は子供を無事に生めるかという不安と、これから来るであろう陣痛の痛みをおそれます。人は「苦しんで子を産む」(創世記3:16)からです。しかし、子供が生まれると、苦しみを忘れさせるほどの喜びに包まれます。新しい命が生まれたからです。そしてイエスは言われます「その喜びをあたながたから奪い去る者はいない」(16:22)。「人生には良いことも悪いこともある。だから今悲しみの中にあっても、そのうち良いことがあるから、我慢しなさい」と言われているわけではありません。「この悲しみは必ず喜びに変わる。その喜びを取り去る者はいない」とイエスは断言されているのです。

2.悲しむ人は幸いである

・今日の招詞にマタイ5:3−4を選びました。次のような言葉です「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」。「悲しむ人々は幸いである。なぜならその人たちは慰められるからだ」とイエスは言われました。本当にそうなのでしょうか。悲しみに押しつぶされて自殺を選ぶ人がいます。難産の末に子を生んだのに、その子が障害をもち、幼くして死んでしまう悲しみもあります。働き盛りの夫を交通事故でなくし、途方にくれている母子もいます。その人たちも慰められるのでしょうか。死んだ者が生き返るというのでしょうか。
・旧約の詩人たちも、「悲しむ者は慰められる」という言葉に、ある時は疑いを持ちました。彼らは訴えます「いつまで、主よ、私を忘れておられるのか。いつまで、御顔を私から隠しておられるのか。いつまで、私の魂は思い煩い、日々の嘆きが心を去らないのか。いつまで、敵は私に向かって誇るのか」(詩篇13:2-3)。苦しい時には時間は中々過ぎていきません。「この苦しみはいつまで続くのですか、早くこの苦しみから私を解放して下さい」との悲痛な叫びが聞こえてきます。神は私たちの叫びを聴いて下さるのでしょうか。
・クリスマスの讃美歌に「きよしこの夜」という歌がありますが、この歌はオーストリアのオーベルドルフという村で、1818年に作られました。クリスマスが間近に迫ったある日の午後、教会のオルガン奏者グルーバーが練習のためにオルガンのペダルを踏んだところ、音が出ません。調べてみると、ねずみが空気袋に穴をあけたことがわかり、大騒ぎになりました。オルガンのないクリスマス礼拝など考えらなかったからです。牧師のヨセフ・モールに相談に行ったところ、牧師は言いました「グルーバー先生。オルガンがだめなら、ギターがあります。これは私が作った詩ですが、ギターで歌えるように先生が曲をつけてください」。その詩は、前日、モールが、赤ちゃんの生まれた山小屋の家族を見舞って、雪あかりの中を下山したとき、あたりのあまりの静けさと美しさに感動して作ったものでした。「きよしこの夜、星は光り・・・」、詩を読んでいくうちに、グルーバーの心に、熱いものがこみあげてきました。「きよしこの夜」はこの日に生まれました。クリスマスに教会に集った村人たちは、生まれてはじめて、オルガン無しの礼拝を経験しました。そしてギターとともに聖歌隊が歌うこの賛美歌の、シンプルな美しさに深く感動しました。「きよしこの夜」は、歌いつがれて、今日では知らない人はいないほどの歌になりました。もしオルガンが壊れなかったら、この歌は生れませんでした。「オルガンが壊れた、どうしよう、どうしたら良いのか」、困難の中で祈り求めた時、このすばらしい曲が与えられました。神は、オルガンを壊すことを通して、求める者に更に良いものを下さったのです。
・日本人の考え方の中には、仏教の影響が知らず知らずのうちに入っています。仏教では「人生は、独生、独死、独去、独来である」と教えます(仏説無量寿経)。「独りで生き、独りで死に、独りで去り、独りで来る」。人間は、生まれる時も死ぬ時も、ただ独りでその苦難と立ち向かわなければならず、その苦難がいつどのようにわが身に降りかかるかは誰にもわからない、それが人生であり、それを自覚することが悟りであると教えます。しかし、聖書はそうではないと言います。人の叫ぶ悲しみや苦しみの声を、神は聞いて下さると言います。前に苦しみを嘆いた詩篇13編を見ましたが、この詩人はやがて次のように歌います「しかし、あなたの慈しみに依り頼みます。私の心は御救いに喜び躍り、主に向かって歌います『主は私に報いて下さった』と」(詩篇13:6)。
・主は私に報いて下さった、私たちそれぞれも、かつては悲しみの中にありましたが、そこから救われた体験を持っています。私の回心物語は何度も話しました。子供との不和、暗いつらい日々、そのつらさから逃れるために夜間の神学校に行ったこと、神学の学びを通して与えられた価値観の大転換。それは27年間勤めた会社を辞めさせるほどの迫力を持っていました。私たちは皆それぞれの十字架から救われ、新たに生きることを赦された体験を持っているのです。その体験を通して、いくら雨が降ってもやがて止むこと、どのように夜の闇が深くとも朝は必ず来ることを知っています。神がそれを可能にしてくださいます。だから、私たちは、今この教会にいます。だからこそ、私たちも「私の心は御救いに喜び躍り、・・・『主は私に報いて下さった』」と歌います。「悲しみは喜びに変わる」、「この悲しみは、本当の喜びを知るために、あなたに与えられたのだ」、イエスが弟子たちに言われた言葉を、私たちもそれぞれの生活の場で聞きます。十字架なしの王冠はありません。悲しみなしに本当の喜びを知ることも出来ません。今、悲しみの中にある人は、イエスの言葉をもう一度聞いて下さい。「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」。

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